プロローグ
一
少女は自分の部屋に入った時、驚きのあまり声を出していた。
「よう。初めまして俺」
今度入学するはずの高校の制服を着た男子生徒が彼女のベッドに座り込んだ状態で話しかけてきたのだ。
「はっ? え? 誰ですか?」
「いきなりで申し訳ないけど、落ち着いて俺の話を聞いてほしい。とにかく座って」
男は隣に座るように、ポンポンと座っているベッドをたたきながら彼女に言う。しかし、素直に言うことを聞くほど彼女も馬鹿ではない。警戒したように首を振り、後ずさりする。
「ああ……。だよな。まず一階に下りるか。父さんがいただろ?」
「え。あ、ああ、はい。父のお知り合いですか?」
「ははは。知り合いどころかね」
男と少女は喋りながら一階に下りていく。下にはリビングでくつろぐ彼女の父親が居た。そんなソファーに座っている父親に男は近づいた。そう彼女は思った。違った。
彼はソファーごと、彼女の父親をすり抜けたのだ。
彼は慣れたように冷蔵庫を開け、ジュースを取り出して彼女に言った。
「まあ。そういうことなんだ」
彼女には理解ができなかった。
「お、お父さん!」
「どうした?」
彼女の父親は何事もないように、普段の声で彼女にこたえるのだ。
「よせって。頭がおかしいと思われるって。部屋でジュースでも飲みながら二人きりで話そう。ほら、ジュース」
ペットボトルを受け取りながら、「ううん。何でもない。なんとなく呼んでみただけ」と父親に言って部屋に戻った。父親にはこの男が見えていなかったようだった。
「あ、貴方はなんなの?」
部屋に戻るなり、彼女は彼に問い詰めた。
「なんだかな。最初から話を聞いてくれたらよかったけどな。俺はね、君なんだ」
「どういうこと?」
「そのまんまの意味だって。俺は、もともと君なんだ。君の固有魔術から生まれた、魔法生命体なんだ」
「な、なんで? ……私?」
「なんでかわかんないよ。人はなぜ生きるの?って聞くのと同じだって。とりあえず俺はある程度の目的があるんだ」
彼の言葉が気になった。目的とはなんだ。
「あ、貴方の目的って、何?」
彼はにやりと笑って言った。
「さあ、なんだろね。とりあえずしばらくの行動はこれだよ」
彼の手元には、妙な雑誌がある。開かれたページには『大学生デビュー』というコラムがあった。
二
彼女は彼と共に買い物に来ていた。彼は通りかかる人や物をすり抜けており、人ごみも関係がない様子だ。そんな彼と、洋服に乳液やら化粧水やら靴やらとにかく雑誌の通りに買い物をしていた。何もわからないのはいい事なのか悪い事なのか、おかげで迷うこともなかった。
数時間後。ガラスに映る、がらりと変わった自分の姿が目に入った。髪を切り、薄くメイクを施し、適当に流行の服を身に着けた彼女は中学生時代とは大きく違っていた。それが何か彼女にとって誇らしかった。
「あ。買い忘れがあった」
彼がぼやいた。いったい何を買い忘れたというのだろうか。コンビニに入る二人。彼女が問う前に、彼は声を出した。
「てーいんさーん。履歴書おいてありますか?」
そんな彼の声に、店員は反応して履歴書を持ってきてくれていた。彼は支払いを済ませて彼女のもとに戻ってきた。
「は? え? 貴方、私の幻覚じゃないの? 何、普通に店員と話しているの?」
「お前、失礼だな。俺はちゃんと存在しているつもりだ。その気になれば俺は物に触れるし、人から認識だってされるぞ」
「あ、ごめんなさい。え、その、意外だったから。ところで、履歴書って、どうするんですか?」
彼女は話題をそらしてみた。しかし、そらそうとしたことを後悔した。
「決まってる。勿論バイトするんだよ」
三
彼女は中学校を卒業したばかりであり、バイトなどしたことがなかった。考えてもいなかったことだ。しかし制服姿の彼は、「いいから面接だけでもするんだ」と荒い語気で彼女に言うのだ。彼女は強く出られると、どうしても折れてしまう傾向にあった。要するに、気の弱い性格なのだ。
今、彼女は全国チェーンの定食屋の前にいた。彼女がこれから働くバイト先だ。ちなみに、面接はあっけないものだった。「四月一日からよろしくね」と店長に言われたのだ。そして今日がバイト初日なのである。
「あー。待て待て。その洗浄機、スイッチ壊れてて、直接電源レバー使って操作するんだ」
彼女を指導しているのはバイトの先輩でも店長でもない。彼女にまとわりつく彼であった。
ほかの店員ときたら忙しく、彼女にかまっていられないのだ。そんな彼女に彼は手助けをしていた。指示も的確で、彼女の行動には何一つ無駄がなかった。
一通り作業を終えた彼女に店長は言った。
「本当にありがとう! 即戦力になるとは思ってなかった! まかないあるから、ちゃんと持って帰ってね!」
純粋に彼女自身の成果ではないものの、感謝されたことに彼女はうれしく感じた。
家に帰った後、彼女は一番に彼に感謝の言葉を言った。
「本当に今日はありがとう。教えてくれるだけでなく、いろいろ手伝ってくれて」
「いいや、早い。早すぎるぞその言葉は」
「どういうこと?」
「ぬふふ。お前の為に作ったんだ」
彼は得意げに彼女にノートを出した。何の変哲もない大学ノートだ。
彼女は開いてみて驚いた。ノートには、おそらくこれから学ぶであろうことがびっしりと書かれていた。しかも、ただ書き込まれているだけでない。重要な単語は濃いマークで上塗りされている。間に挟まれている赤いシートをかざせば、単語が消えるようにできていた。
「まあ、まだ作ってる途中だけど。まだ試行錯誤中。教科ごととか、時期ごととかで何十冊とノートつかうことになるけどな」
彼女はしばらくノートを流して見ていった。想像以上に綺麗な字で書かれている。
彼は得意げにこのノートについて話していた。「この勉強の仕方は、俺の友達のやり方なんだ。作っていくだけで頭に入ってくるんだ。それに、作ってると楽しくなるんだ。ノートに愛着を持てたら、常に持ち歩くようになるし」と言う。
「くふふ。何? 落書きがいろいろあるね。『俺はここを間違えた』『how far と long 普通に間違えるだろ』『イオン化傾向、炎色反応、覚える以外にない問題ムカつく』って」
「まあな。俺にとっては過去のことだけど、お前にとっては未来のことだから。何がヒントになるのかわからないんだ。ただひたすらに思いついたことを書いてる」
彼女は前々から彼に疑問を持っていた。それを彼にぶつけた。
「貴方は。前々から思ってたけど、ただの魔法生命体じゃない。『俺の友達』だとか、さっきも、『俺にとっては過去』だとか。あれはどういうことなの?」
「あれ? 言わなかった? 俺はお前だ、って。お前の固有魔術から、お前自身のありとあらゆる可能性から引っ張り出された存在なんだ。もし、お前が男として生まれたらどうなったと思う? その可能性の一部が俺なんだよ。だから、俺には俺の人生が存在するんだ。友達もいたし、学校に行って勉強もしてたんだ」
「貴方は私の未来の可能性なの!? じゃあ! 貴方の世界と私の世界で違うところはあるの!?」
彼女は未知のことを知り得ることに興奮してしまったのだ。しかし一方で彼は熱くなることもなく普通に答えた。
「いや。普通にありまくりだって。まず、俺が女である時点で大違いだよ。でもさ、妙なところで同じなんだよ。ここ。ここの壁のへこみ。俺の部屋そのままだ。あ……。ドアノブが違う……」
「ドアノブがどうしたの? ドアノブなんかに思い入れがあったりするの?」
彼が切なそうな表情でドアノブから目をそらさずに彼女に言う。
「うん。俺、ドアノブに電気コードかけて首吊り自殺したんだ」
このドアノブじゃ首吊りはむずかしいな、と、彼は続けた。彼女は何も言えなかった。