円環を廻るブーメラン
少年は怒っていた。
火山よりも激しく、大海よりも静かに怒っていた。
何に対して怒っていたのか、彼はもう忘れてしまったが、最初はほんの些細なことだったように思われてならない。例えば、あいつが100点を取ったテストで俺は98点だったとか、あの野郎の方が俺より1テンポ早く給食を食べ終わったとか、そういうちょっとした苛立ちだ。それがまぁどうして今、スチール缶を握り潰したくなるほどの怒りに変わったのか、少年は不思議に思った。三日前にアルミ缶をぺしゃんこにしておけば済んでいたかもしれない程度の話だ。でも少年はそれをしなかった。今でも彼は、静かに怒っている。
とりあえず、無意味に怒っている自分への苛立ちを燃料とする自家発電に興じているが、そろそろそれも飽きてきた。飽きっぽい性格を不快に思ってみるのも良いが、それはやはりすぐに飽きそうだからやめておこうと断念する。今の彼は一種の怒り中毒のような状態にあるのだが、あくまでヴァイオレンスには訴えない。噴火のギリギリをさまようところに快感がある。抑圧に快感を覚えていたのである。
そこに一本の電話が鳴る。セールスだったらいいなと彼は思う。相手が滔々と語る話にイライラのボルテージを溜め、しかし解放を待たずに静かに受話器を置くのだ。中学生の彼でも、声変わりは完璧だから相手は夢中になって打ち切られる予定の話を語ってくれる。ただ、笑わないように注意しなければならない。
「はい、清水ですが」、彼はつぶやくようにもそもそと言った。
「いつもお世話になっております。こちら、沸点更正委員会の百足です。清水ミノル様はいらっしゃいますでしょうか」
来たぜ。セールス来たぜ。ぐへへ――と、彼は興奮した。
「はい、清水ミノルは私です」
「あぁ、あなたが……いえ、なんでもございません。こちらは沸点更正委員会と言いまして、私、そこの会長をやっております、百足です」
「それはさっき聞きました」
言ってからミノルはしまったと思った。少し不躾な口調になっていたのだ。礼儀正しくしなければ。相手のペースに乗せられてはならない。あくまでこの電話の主導権は少年が握っていなければならないのだ。
「そうでした、そうでした。すみませんね、この歳になると物覚えが悪くてですね、もうそろそろこの職も辞めて年金生活を楽しもうと思っているのですが、昔に比べて額も低いからとかなんとか言ってみんなが反対するんですよ。昨日なんか会計係のミミズさんから『寄附金が少なくなるから死ぬまで玉座にいてください』とか言われちゃったんです。ひどくないですか? 最近、彼はサディストなんじゃないかと思うようになったのですが、どうなんでしょう?」
百足と名乗る電話の向こうの男性は、まるで面接試験を受けにきた就活生のような澄んだ声でそんなことを話す。会長と言ってもこれじゃ俺の学校の生徒会長と変わらねえや、と彼は思う。
「それ、私に聞きます?」
うんざりした声で少年は聞いた。
「はい、あなたでなければならないのです。できれば直接お会いして御意見を伺いたいのですが、私共は人間様には忌み嫌われておりますのでそういうわけにもいきません。特に最近は、目に見えない防御壁やら、粘着力の強いシェアハウスが乱立しておりまして、人間様のお住まいに馳せ参じることが難しくなっておりますもので」
「そうですか」
なんだこいつは、とミノルは疑う。百足だと?
「そうです……いえ、今回はそうじゃないです。私の年金生活について聞いて欲しいのではないのです。部下にいじめられる哀しい百足の話を聞いていただきたいわけではないのです。哀しき百足なら、私よりも波瀾の生涯を送った先人たちがたくさんおります。でも人間様の知識の片隅に入れてもらえたのはとても少ない。多くの人に知っていただけたのはグレーゴルさんくらいなものなのです。あの方は人間様と話すことができませんでした。それなのでお友達のカフカ様とは形而上学的な交流しかできなかったのです。かつての百足は無学なものが多く、しかし思想は今よりももっと崇高であったのです。矛盾しているようですが、今や私たちのパラダイムもだいぶ変わってしまいまして、私のようにこうして人間様とお話しができる百足も増えております。体長も、人間様がお持ちの昆虫図鑑に忠実でございます。しかし、私たちは自らが置かれた立場を弁えているため、電話でもって実際的な交流を謀っているわけです」
「はぁ」とミノルはため息をついた。今度の輩はやけに手の込んだいたずらをしてきやがる。一体このご時世に誰が言葉の通じる百足を信じるというのだ。どう頑張っても痛い中年親父じゃねえか。
彼は台所から食事用の椅子を引っ張ってきて、疲れたように腰を下ろす。受話器をもう一度耳に当てると、大声で「もしもーし!」とちょうど叫ばれて鼓膜が異常な振幅を記録した。頭まで痛くなる。
「うるさいですよ、百足さん」
「あら、これは失敬。私は百足の中でも際立って心配性なのでございますよ。あ、申し遅れましたが、私は百足のサイマル・アインハルトと申します。ファーストネームで構いませんよ」
サイマルさんはとてもはきはきとそう言った。実に清々しい声だ。一面に生い茂る夏の青草を愛撫でする風のように、少年の左耳から右の耳へと吹き抜けていく声だ。ミノルの眉間は少し緩んだ。
「サイマルさん、あんたおかしな人だね。そのフッテンコウセイ委員会っていうのはとどのつまり、どんなところだろう」
「とても人間様のいらっしゃるようなところではございません、とだけ申し上げます。私がこうしてミノル様とコンタクトを取りましたのは、あなたの脳に住まう蝶々を外へ出してあげたいためです。それ以外の目的で、例えば馬鹿高いソーラーパネルの斡旋とかくだらない付録特典付きの通信添削の紹介をするためにお電話したのではないですよ」
「蝶々? それはまたどうして」
サイマルさんは一呼吸置いてから、「蝶々はこの上ない害虫だからでございます」と述べた。
ミノルはいよいよ混乱してきた。中学二年生の彼にとって、「百足と会話する」というファクターはあまりにも大きすぎるのだ。彼はまだメタファーという言葉すら知らない。彼くらいの歳の少年は、何かと世界のメタファーに己を溶かしこもうとするのだが、ミノルの場合それは明らかな他者として、ミノルに対して主体的に語りかけてくるメタファーだったのだ。彼はそれを漠然と感じていた。否、無意識的にはっきりと感じ取っていた。彼は電話を切らない。
「蝶々が害虫? そんな馬鹿な。彼らはいいやつじゃないですか。蝶の標本なんてすごいものですよ。俺……私は持っていませんけど」
サイマルさんは一度大きく咳をした。とても乾いた、バリバリという咳だった。
「『俺』でいいですよ。それと誤解を与えてしまって申し訳ありません。すくなくとも、今、あなたの脳に住み着いた蝶々さんはミノル様の意識にとっては害虫だと申し上げたまでですよ。そのせいで、あなたの怒り沸点が平均的な中学二年生よりも相当高くなってしまっているのです。これは非常に危険なことなのです。フロイト様もおっしゃるように、あなたの中にも番人さんが――それはメタフィジカルな番人さんなので名前は教えて頂けないとのことでした――いらっしゃって、その方が感情の選別をなさっていたのですが、ちょうど三日前、蝶々さんの鱗粉にやられてしまってご静養中だとの連絡を承りました。私がまずミノル様のお部屋を訪ねましたところ、ご報告の通り蝶々さんがおりました。それはそれは見事なオオムラサキの蝶々さんで、ユカリさんというお名前まで綺麗な方でした。何故ここにいるのですかと聞きましたところ、過日投げ捨てられたアルミ缶の下敷きになったところまでは覚えているが、気がついたらここに寝転んでいたということでした」
そういえば、とミノルは思い出す。三日前――。
「俺、その日、何かとても嫌なことがあって、気分転換に炭酸ジュースをがぶ飲みしたんです。山の公園まで走って行って。それで誰もいなかったから、つい衝動的に、空き缶をえいやっと山へ投げ入れたんです」
「さようでございますか……。ユカリさんはこうも言っておられました。『私はひどく暴れたようで、翅の粉をほとんど散らせてしまいました。私は自分の力でここを抜け出すことがかないません。かといって、自分に下された無慈悲な鉄槌を恨んだところで、滅んだ我が身に還ることもできませんから、せめてこの人間様がオートマチックに意識の部屋へ流れ込んでいく感情に冒されないように、蝶の舞で感覚を鈍らせようと思ったのでございます』、と。私は彼女に言いました。『それはいけません。このくらいの年頃の人間様は、感情の沸点を主体的に漸進させねばならぬのです。そうしなければ、チューニビョーという恐ろしい感染症にかかってしまいます』、と。ところが若い彼女はこう反論します。『あらいやだ、おじさんの言う中二病は今ではポピュラーなんですよ。人間様の中でもかなり流行しておりますから、お仲間はたくさんいます。でも、突然感情を爆発させる奇行種は未だに差別の対象とされておりますので、私はそちらに陥ることを懸念しているのでございますよ』、と。私はきっぱりと言いました。『あなたは真に美しい蝶のでしょうね』」
ミノルは何も言えなかったが、《無意識に》涙を流していた。蝶が泣いているのだと彼は思った。彼が想像する蝶は普通の蝶の形をしていない。たおやかで細く、繊細な四肢を持つ女の子だ。少し控えめの紫に染まったワンピースに、涙の痕跡を物語る濃い紫の水玉模様が浮かんでいる。
「サイマルさん、どうしたら俺は彼女の涙を止めてあげられるでしょう」
彼は涙声で言った。
「では、今すぐその現場に行って下さい。携帯電話の番号を教えてもらえると助かります。ご安心ください。ユカリさんを助けたいと思うあなたの個人情報は、我々の委員会が断固として守ります」
ミノルは携帯電話の番号を教えた。不思議なほど抵抗はなかった。学校であれほどプライバシーの管理についてぐだぐだと講義を受けたのだが、蟲とのやり取りについては一切説明がなかった。
彼は寝巻きのまま外へ飛び出した。真夏だというのに、やけに涼しい夜だ。三日前よりも遥かに早く山を登って公園についた。大きな滑り台が蛇のようにはい回り、甲虫や螳螂を模した遊具が夜の帳の中で息をひそめて眠っている。
出し抜けに、静寂を切り裂く着信音が鳴る。ミノルは慌ててそれを取った。
「着きましたか、ミノル様」
「ええ、なんとか」、彼はできる限り声のボリュームを絞った。「でも、どこにいるんですか、ユカリさんは。山の中は真っ暗で何も見えないんですけど」
「適当に歩けばそのうち行き会います。犬も歩けばなんとやらです」
サイマルさんはアハハと笑った。少年は、どうも非合理的でいけねえなと思ったが、百足と話し蝶を自分の中から解放するために深更家を飛び出した自分の方がよほど理に適わないと見て、こちらも笑った。そして言われた通り適当に、帰り道の考慮もせずに、滑落にだけ注意を払って道なき道を進む。電話の向こうではお調子者のサイマルさんが、そういえば先程申し上げたミミズさんのことについてですが、と部下の暴言について話し始める。辺りにはミノルが歩く音と、時々サイマルさんの与太話に相槌を打つ音くらいしかしなかった。虫の寝息すら聞こえないほどの、静かな夜だった。
ミノルは突然ぴたりと足を止めた。山に入って少し下ったところだった。谷に向かって倒れた木々が根に絡み付いた土で自然の防御壁を形成している。そこにキラリと光る金属がある。ミノルが三日前に投げ捨てた缶ジュースだ。それを拾い上げると、ユカリさんの亡骸があった。森の蟲たちも事態を承知していたのか、缶ジュースの糖だけを持ち去っており、ユカリさんの屍は生前の美貌をそのまま留めていた。
「御目見得できました」
「そうでしょう、そうでしょう」
「それで、次はどうすれば」
「公園の時計台の元に石舞台がございます。そこにユカリさんの頭を北にして寝かせてあげてください」
ミノルは携帯を通話状態のままポケットにしまい、両方の腕を彼女の身体の下に差し込み、ゆっくりと抱き寄せる。脇と膝の裏から、独特の冷たい温度が彼の腕にのしかかる。ユカリさんの身体は翅のように軽かった。腰の高さに持ち上げると、ミノルの身体も不思議と軽くなった。重力が薄くなったようにも、大気圧が下がったようにも感じた。彼は用心して下りてきた坂をぴょんぴょんと軽快に登った。
時計台の針は、重い身体をなんとか持ち上げて午後11時45分を打った。その足元に石段があり、ちょうど人ひとりが寝そべられるくらいの薄い石の台座が乗っている。ミノルはそこにユカリさんの屍体を寝かせる。彼女は眠っているように静かに目を閉じたまま、微動だにしない。公園内にただ一つある電灯の光に照らされると、彼女はますます美しかった。引き込まれそうな奥行きがミノルの喉を鳴らす。長い髪は小さな頭の両側でツインにまとめられ、先の方はきれいにカールがかかっている。物言わぬ瞳は美しい音色を奏でそうな睫毛をたくわえ、控えめな鼻筋の先に、最後の息を吐き出したまま時間が止まった唇が居住まいを正している――。
「やりました」
彼の声は震えていた。
「ご苦労様です」
サイマルさんの声はあくまで事務的で明るかった。
「ではこれから火葬して頂きます。いえ、実際の炎ではございません。ただの比喩ですから、マッチとか着火マンは要りません。まして昆虫ですから、棺桶や火葬場は要りません。ただこのように申し上げてくれれば良いです。『ユカリさん、安らかに眠りたまえ』」
「あの……サイマルさん?」
「はい、なんでございましょう」
「彼女は助かりませんか? 俺の中にいる彼女を還してあげれば……」
「ミノル様……奇跡は起こらないのです。彼女が蘇ることはありません。そこに寝ているのは彼女のまやかしです。本当の彼女はすでに逝っています。あなたの投擲物の直撃をくらった時に」
サイマルさんは淡々と言ってから、慰めるように付け加えた。
「ミノル様が気に病むことはございません。ましてや罪意識を抱くまでもありません。昆虫はたしかに綺麗で美しくて失うのが惜しいくらい輝かしい種族も存在致しますが、私のように死体になってすら忌み嫌われる種族や人間様に害をもたらさんとする愚かな種族もいます。だって今は人間の世です。私たちがまだ人間様よりもずっと大きかった栄光の時代は当の昔に終わったのです。ですからせめて、彼女は安らかに眠らせてやるのが私たちの願いなのです。それが人間様の手を借りねば果たせないという皮肉も、私たちが負うべき十字架なのでございます」
ミノルは泣いた。思い出してしまった。あの日、彼は少しイライラしていた。黒板に好きでもない女の子との相合傘の図を書かれていたからだ。中学生にありがちな、ちょっとした悪戯だ。今度はミノルに順番が回ってきた、ただそれだけのことだ。しかし本人のいる前で無下に消すわけにもいかず、黙ってスルーしたのである。これがいけなかった。その後男子には冷やかされるし、女子には変な目で見られるし、結局落ち着いて一日を過ごせなかった。放課後はさっさと帰ろうと思って校舎を出たのだが、ふと思い立って山の上にある公園にきた。誰もいなかった。一人ぼっちだった。展望台に一人で立つ自分を、こんなに感動的に眺めたことが今まで一度だってあっただろうか。俺は今、ここに住んでいるどんな人間よりも長く夕日を見ている。夕日の最後の姿を目にするのはこの俺なのだと思った。そして照りつける日差しを受けて、彼は筆箱に入れておいた100円でジュースを買った。飲んだ。美味かった。そして満足に任せて、人生初のポイ捨てをした。
そのときにすでに俺は、彼女を殺めてしまったことを知っていたのかもしれない、と彼は思った。そうだ、そうして俺は人生初のポイ捨てをした自分に苛立ち、儚い生を犯した罪意識に苛まれ、かけがえのない一人の女の子を思って自分自身に怒りをぶつけていた。すべては自分に還ってくる。ブーメランみたいに。いや、ブーメランほど楽しくはないなぁ……。
「準備はよろしいですか。大丈夫、彼女はまた別な形であなたのところに還ってきます。すべては自分に還ってくるのです。鏡に映る像のように」
「とても精巧なブーメランみたいに」と彼は付け加える。
「まあ、それはどちらでもよいでしょう」
サイマルさんは笑った。ミノルも笑った。ユカリさんも少し笑っているように見えた。すべては自分に還ってくる。残酷だけど、素敵な言葉だと彼は思う。
「じゃあ、いきますよ」
「ええ、お願いします」
それからミノル少年は儀式的に右手をユカリさんの上に翳し。
「ユカリさん、安らかにお眠りください」
《エピローグ》
それから十五年の月日を経たある晴れた夏の盛りに、彼は彼女とすれ違った。彼は初め彼女に気づかなかった。暗かったこともあって、きれいな人だと思っただけだった。しかし、徐々に彼の足は重くなり、最後にははたと止まってしまった。この地域の夏の風物詩――湖上花火大祭の歩行者天国ど真ん中である。警備員が立ちすくむ彼を認めて近づいてきた。
「すみません、通行のお邪魔になっておりますよ。スムーズに進んでください。花火をご覧になりたいのでしたら、通行の邪魔にならない道路わきでお座りになってください」
「……百足さん?」
思わず彼はそうつぶやいていた。
「はい? 私はムカデじゃありませんが」
「あ、え、でも……」
そこで彼はハッとして、走り出した。人ごみをかき分けて彼女を追った。そして見つける。紫の浴衣を身に纏い、長い髪を頭の両側でツインに結った女の子――歳はだいたい高校生か大学生くらい――が数人の友達と連れ立って歩いている。ミノルはためらうことなく声をかけた。
「ねえ、ちょっと!」
女の子は驚いたように振り向いた。その顔が一瞬怪訝そうに歪んだが、すぐに穏やかな、何かを心得た澄んだ瞳に変わる。
「ユカリ……さん?」
彼女はうれしそうに――少し恥ずかしそうに――はにかんだ。