無題−質問板のことを恋愛で例えた習作−
「今日、あなたの誕生日ね。何食べたい?」
女はうきうきと男に問い掛けた。
二人が暮らしてまだ1ヶ月。
一緒の空気を吸うだけでも嬉しかった。
−−私のことを選んでくれてありがとう。
−−あなたと出会えたおかげで、いつも楽しいわ。
−−あなたのおかげで私は私の存在意義がわかったの。
−−そんなあなたが生まれた、記念すべき日だから、私腕をふるうわ。
しかし、女に対して男の返事はそっけなかった。
「お茶漬けがいい」
−−え。お茶漬け?
「お茶漬け?」
「うん。それ以外食べないから」
男は、新聞を見ながら淡々と答えると、頭をあげた。
その顔には、別に何も意味はなさそうだ。男は本当にお茶漬けが食べたいらしい。
料理が得意な女は少しがっかりした。
「あと、花とかも飾んなくていいから……いいかい。お茶漬け以外は何もつくらなくていいよ」
男は念を押した。
実は、男は……前に付き合っていた女が料理好きで、
毎日毎日山のように、わけのわからない料理を食べなくてはならず、辟易していたのだ。
ビーフストロガノフぐらいならまだいい。
しかし、ナントカカントカグーラッシとか、カンボジア風ナントカカントカとか男の舌にはビミョーなメニューもあった。
だが、その、前の女の味覚ではそれは『美味しい』という評価以外は許されないのだった。
もし一言でも「俺はちょっと、好きじゃない」といおうものなら、大変だった。
「このナントカカントカは、新鮮な○○を使って、隠し味の酢が甘味に生きているはずなのよ。火はかっきり5分入れたから半生で絶妙のはず。
おまけに、ポリフェノールとDHAとコラーゲンがたっぷりで健康にもいいのよ(中略)……だから、不味いはずはないわ!」
かくのごとく、前の女は、論理的な意見をまくしたてて男を言いくるめる。
前の女の論理の中では、男の味覚とか感覚はまったく関係ないのだった。
花も……アロマテラピーに凝ってるとかいう前の女のおかげで、男の家はいつも便所の香料を思わせるなんかの花の匂いで満ちていたのだ。
それで男はすっかり花嫌いになってしまったのだ。
男は女を論破するのをあきらめたかわりに、別れを切り出したのだった。
今の女は、そういうことがなくていい。
ちょっと気分やだけど、なだめればすぐに甘えてくる。そんなところも可愛かった。
だけど。誕生日とあれば。
凝った料理をつくるに違いない。
凝った料理は、その手間の分、評価しないと納得しないのでは……男はそれを恐れて「お茶漬けがいい」と言ったのだ。
−−なに。華やぎはケーキとシャンパーニュ、生ハムでも買ってくればいい。
そんな計算がある、とは露知らず、
夕方が近づき、女は楽しげにお茶漬けの支度をするべく、買い物に出掛けた。
女は、男の好きなものを知っている。
−−お茶漬けなんて言ってたけど、遠慮してるんだわ。きっと。
そう決めると、いろいろ計画をたてる。
あの人、美味しい肉をさっと網で炙るのが好き。大根おろしを添えて。
茶碗蒸も好きだっていってたわ。だって、前に温泉に泊まったとき。朝ごはんで茶碗蒸しが出てきたあの人のとろけそうな顔といったら……。
女は幸せな記憶に、自らがとろけそうな顔になっているのに気付かない。
「奥さん、なんかいいことあったのかい?」
八百屋のオヤジにそういわれるまで夢見ごこちでスキップだったらしい。
だから、つい要らないのに大根を2本も買ってしまった。
女は、お茶漬けはもちろん完璧に用意するけれど、大根を味がしみるまで煮たもの(これも男の好物だ)、
極上の阿知須和牛(モーツァルトを聞かせて育てるらしい)を網焼きに、
そして男が好きなギンナンだけが入った茶碗蒸し(他の具を先に片付ける速度とギンナンを口に含む速度が明らかに違うから)ををうきうきとしながら用意して男の帰りを待った。
−−お茶漬けだけしか食べないって、言ってたけど、これだったら食べるよね。
女は男が喜ぶ顔を想像して、独りでいてもニコニコしていた。
テーブルの上には安売りだったけど、バラの花も飾った。
それは、女の頬と同じピンク色だった。
「ただいまー」
「おかえりなさい!あなた!」
女は男に飛びついた。
「待ってたわ」
「ケーキとシャンパーニュと生ハム買ってきたよ。乾杯しよう」
男は一流店のケーキと、ブーブクリコ、そしてイベリコ豚の生ハムを手に入れていた。
「本当?嬉しい」
女は素直に喜んで、玄関からダイニングへと男を先導した。
「お、おまえ。これは」
「お茶漬け。アンドその他いろいろ」
女はおどけた。
テーブルの上には、凝った料理がてんこ盛りになっていた。
「俺はお茶漬けだけでいい、って言ったはずだ」
男は思わずきつい口調になった。
「何怒ってるの?」
「怒るさ。お茶漬けしか食べないって言ったのに」
女はシャンパーニュの栓を抜きながらその黒目がちの瞳をきょとんとさせた。
間の抜けたタイミングで栓はポン、と音をたてた。
−−ぜんぜん、喜んでない。
男のぶしっつらに、女はちょっと泣きたくなった。
「いいか。俺は茶漬けしか食わないぞ!約束したんだからな」
あまつさえそんな宣言さえする。
「ぜんぶ……あなたの好物だと思って……。つくったのに」
「今日は、お茶漬けしか食べないってルールにしただろ、今日は」
−−ルール。ルールって何?
女は体中がカラッポになったような空しさに襲われた。
あんなにわくわくした時間はなんだったんだろう。
デパートを何軒もまわって、評判の肉を探したあの夕陽に、女は男の笑顔を見ていた。
カツオのだしで大根を煮込んだ湯気の向こうに、男の笑い声を聞いていた。
男は、女の料理を……まったく手をつけないで……捨てた。
ピンクのバラもゴミに捨てた。捨てるときにトゲが刺さって男はさらに不機嫌になる。
「これだから、もう」
と男は文句を言った。
女の男への気持ちは、津波の逆のように冷めていった。
それは、その後どんなに優しくされても、女は以前のように男に献身的に尽くすことはなかった。