水槽
「わぁ、綺麗だね。」
私は近所のペットショップへ入りこの第一声を発した。
「本当だ、買おうか。」
そう言ったのは年上の彼だ。
付き合い出して一年、最近同棲を始めて一番楽しい時期。
誰かに頼らないと生きていけない私は、彼の家へ転がり込み毎日新しい家具を揃えたり、
部屋の模様替えに思考錯誤を繰り返している。
そんな時ふと立ち寄ったペットショップで熱帯魚を見つけた。
コバルトブルーの体にところどころ縞の様にチャコールグレーが混じっている。
尾びれが細く長く、とてもスマートな魚。
私の大好きなブルーというのが特に興味をそそる。
すぐに店の主人に取り置きを頼み、一度家へ帰った。まず水槽の準備をしなくては。
熱帯魚というのはデリケートな魚で一定の温度でないといけないし、他の種類の魚と一緒に入れると、神経質になり病気になってしまう事もしばしばある。
準備を整え、先程のペットショップへ行き我が家の新しい家族の一員を新居へと移した。
「泳いでる、泳いでる。水槽の中にあるブラックライトに反射してすごい綺麗。」
「でも、掃除とか大変だよ、まあ、しっかり頑張りたまえ。」
「えー!もちろん手伝ってくれるんでしょう?水槽って重いのよ。」
「はいはい。やっぱりそうくると思ったよ。」
───いつもこんな調子。───誰かに頼らないと生きていけない私は何でも一緒にしてくれる
彼だからうまくいく。
友達の中には「一人の方が気楽だ。」と言って同棲する者は少ない。
でも、一人なんて私には考えられない。だから、常に彼氏と呼べる人はいるし、前の彼と終わる
前に今の彼と付き合う事が決まっていた。
───いつもこんな調子。─── 変なゴタゴタさえ起こさなければ問題ないと思う。
「この水槽暗い所で光るんだね。」
深夜、ベッドの上で楽しんだ後、私は水槽を見て呟いた。
「今頃気付いたの?俺なんかさっき電気消した時すぐ気付いたよ。ちょうどよくうっすら
光って見やすかったよ。」
彼はそう言い終わるや否や、ニッと微笑った。
「その為にこの水槽選んだわけぇ?」
「そこまで計算高くありません!」
「さあ、どうだか・・・。」
それにしても本当に綺麗。水槽の中の魚が誘う(いざなう)様にゆっくりとヒレを
くねらせて泳ぐ。わずかな光が、コバルトブルーの体を一層引き立てる。
「熱帯魚になりたいな。」
横でブッと吹出す音がして少しむっとする。
「単純だなぁ。魚だってただ綺麗でぼーっと泳いでるわけじゃないんだぜ?
食物連鎖って知って・・・」
「わぁかってるってばぁ!でも水の中って何か気持ち良さそうだよ。見てるだけで落ち着くし。
生まれかわるなら水の中に生まれたい。」
幼い時から水場が好きだった。水族館とか、プールとか海とか。
季節関係なく、昼夜問わず水のそばにいっては泳ぐ魚に憧れた。生き物はみな、元々は
水の中で生まれたとか聞いた事があるが、私の場合その時の名残りがあるのかも。
「まっ、生まれかわって魚になったら、俺がみつけて飼ってあげるよ。」
急にそうぽつっと呟いて彼は瞳を閉じた。
私には、彼からすれば何気なく言ったその一言がすごく嬉しかった。
ブルーに染まった二人の部屋が満たされた気がした。
いつのまにか私も眠りにおちていった。
───彼女は淋しがりやだった。───
一人では何も出来ない子で、もちろん一人でいる事なんて出来ない。
だから常に男を絶やさなかったみたいだ。悪く言えば本気で誰かを愛する事が少なかった
かもしれない。 僕と付き合う前も少し血の気の多そうな男と付き合っていた。
僕と付き合う事が決まって逃げるようにその男と別れたのだ。彼女は、
「いつもこんな調子。変なゴタゴタさえなければ問題ないよ。」
なんて言ってたけど、それはあまりにも安易な考えではないか。彼女がそう軽く思っていたと
しても相手がそう思うかどうか。いつか男の恨みをかう時がくるかもしれない。仮に
僕と別れる時がきてもそれまでにはそんな彼女のそういう部分をなおしておかないと・・・。
そう思っていた。
今朝から落ち着かない・・・。妙な胸騒ぎをおぼえた。彼女が仕事から帰ってくるはずの時間、
遅くなる事なんて今までなかったのに、電話一本の連絡もなく心配していた。
家の周りは郊外ではない。街灯もあるし、人通りもある。
「何かあったのだろうか。」
何故か全身の毛が逆立った。血が逆流して体が冷たくなっていく感じがした。
外が騒がしい。僕は転がるようにマンションの坂を降りて、人だかりができている場所を目指して
走った。その原因が彼女とも知らずに・・・。
夥しい数のパトカーと救急車、一体何があったのだろう。
人ゴミを掻き分けてその中心へと向かうと、信じがたい光景が目の中に飛び込んできた。
一面に広がる真紅の花畑にいるかの様な彼女。周りの音が消えて真空状態の様な感じ。
足が鉛の様に重たくなった。一瞬で氷の世界へ突き落とされたかと思うほど、全身凍りついて
僕は微動だにできなかった。
その時の事は覚えていない。
僕が現実を受け入れるのにそう時間はかからなかった。
・・・・・・彼女は刺されたのだ。
人通りも多く目撃者が多数居る中での堂々とした犯行だった。犯人は彼女をよく知る男だった。
僕の予感は的中したのだ。
ドウスルコトモデキナカッタ。
例え僕が彼女の男から恨みをかう性格を直したとしても、過去にした事が消えるわけではないのだから。
───彼女は死んだんだ。───
私は体に冷たく、でも温かい波打つものを感じて目を覚ました。
辺り一面、ブルーの景色。 見上げれば紺碧の空のようなものが見える。
星は見えない。けれど一直線に長く、紫色の光が見える。
───なんだか浮いているみたい───
私は心地よくなって思わず手足を動かして、紺碧の空を目指した。
───泳いでいるみたい・・・魚ってこんな感じかしら?───
その時、背後から声がした。その声の方へ行ってみる。
しかし、少し進むと背の高い草や藪がいっぱいで思うように進めない。
ようやく森を抜けた私は目に映る景色に心臓が止まりそうになった。
巨大な人間がこちらを見つめている。私の何倍もあろうかというくらい巨大な人。
───変な夢。───
私は数々の奇怪な出来事は夢だからなんだと認識したのだ。
落ち着いて見かえしてみるとその巨人は彼だ。 私は思わず吹出し、その巨人になってしまった彼のもとへ進んだ。
瞬間、まるで卵を思い切り床に落とした様な音がした。
それと同時に激痛が全身を駆け巡った。・・・ガラスにぶつかったのだ。
そこを避けてさらに進もうとするがどこもガラスばりで行き止まりになる。
まるで巨大スクリーンの中にいる彼を見ているみたいだ。
私は彼に聞こえるように声を張り上げて叫んだ。
「何してんだよ。無駄だよ。」
知らない人の声がして振り返った・・・。
そこに居たのは「ヒト」ではなかった。
全身コバルトブルーでところどころチャコールグレーの縞の入った、紛れもない、熱帯魚だった。
魚が言葉を口にするなんて夢は初めてなので少し面食らったが、
「夢だしなんでもありか・・・。」とぼそっと呟くと、
「ユメってなに?」と問われた。
「夢って・・・眠る時に見るものよ。」
「ネムル?魚は”ネムル”をしないよ。」
「そ、そうなの。でも私は魚じゃないから眠る事もあるのよ。」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
沈黙は一刻程続いた。それをやぶったのは相手が先だった。
「あんた魚だろう?どこをどう見たら魚じゃないと言えるの。」
この人が、いやこの魚が何を言ってるのか理解出来なかった。でも何故か得体の知れぬ不安が込み上げてきて問い返した。
「ここは何処?」
「・・・水槽」
「・・・・・・・?」
「あんた人間だったの?昔。そういえば前この水槽を造った人間のうちの一人がメスだったんだけど”生まれかわるなら魚になりたい”とか言ってたよ。あんたもそのクチだったりして。」
「・・・・・・・・・」
「無愛想だなぁ、新入りだからせっかく教えてあげたのにさ。」
「新入り?私いつここへ来たの?」
「昨日かなぁ?俺ともう一匹は最初から居たんだけど。あの人間があんたをここへ入れたんだよ。」
「彼が・・・?」
「何か一緒に住んでた人間のメスの方が居なくなったみたいで、淋しくなったからその代わりに増やしたってとこだろ。人間って勝手だよなぁ。」
そう言うと、その熱帯魚は姿を消した。 ふと、
「生まれ変わったら魚になりたいなぁ。」
「まぁ、生まれ変わって魚になったら俺が見つけて飼ってあげる。」
そんな会話を思い出した。
これがもし、この状況が現実だとしたら・・・・・・
私の願いは叶ったのだ。
憧れたはずの景色。 でも暗くて冷たい。 確かに存在しているのに・・・
私は、その場にただ呆然と居すくんだ。