09 三嶋彰子
ある日。その日もいつもと変わらない帰途についた。
幼馴染の高崎慶喜と並んで帰る。その日はたまたま時間が重なっただけだった。夕刻の影は伸びきり、赤と黒のコントラストを道路に刻み込む。
よく周囲からは恋人だとか彼氏だとか言われるが、そんな色っぽい関係じゃない。
自分はこの街で生まれたわけではない。
3歳の頃に越して来たのだ。
両親が死んだ。交通事故だった。
その頃は身を引き裂くような不幸だけで頭がいっぱいだった。だから、どこに行こうと同じだと思っていた。
どこにいようとこの心は修復されない。治癒することのない傷は死と同一だ。
親戚の叔父さん叔母さんは優しかったけど、彼らの心遣いでは、申し訳ないが、救われることないのだろうと感じていた。そして、高校生というこの歳まで生きてきて、幼い頃のそんな直感が真実であることを実感している。
だけれど。
自分は死を受けたわけではなかった。
どうしようもない致命傷を受けてはいたが、決して治療のできない傷ではないことを、今は理解している。
幼い頃の自分の考えには、幼いが故の誤算があった。
公園の手前にある叔父夫婦の家。そこの公園に、熱心に通いつめる男の子の姿があった。自分は部屋で呆けているのに、その子はとても元気で、優しそうな顔立ちをしている。友達の間では率先して仕切るタイプではないらしい、が、彼は細部に注意を払える子だった。
いつものように部屋の窓から公園の彼を見ている。
すると、彼はこちらの方へ何か叫んでいた。
遊ぼうよ!
そんな風に聞こえた気がした。
それ以来の仲だというだけで、彼と交際しているわけではない。
しかし、自分の中には、どこか彼のことが特別な存在だと定義づけている気がした。
自分を興してくれた彼。
そんな彼といることが、自然なことであり、幸せなことなのだと思っていた。
明言していないだけの事実交際だよ。そう言ったのは、たしか同じクラスの恋澄さんだった。名前通りの素敵な思想の持ち主だ。雑じりけのない明るい笑顔で言う彼女の言葉は、まるで魔法のように心を満たしてくれた。
いつまでも幸せでいられそうな……そんな夢を見せてくれる言葉だった。
いや、違う。
幸せはいつまでも続かない。
否、いつまでも続かないのが幸せというものなのだ。
自分は、小さな頃に、そんなことはとっくに知っていたのに……。
ある日、家の前で振り返ると、そこには男性が立っていた。
貌は見えない。しかしその長身と頼りになりそうな出で立ちから、男性なのだと思った。彼は灰色のパーカーを着て、深くフードを被っている。ジーンズに両手をつっこみながら突っ立っている。
そしてただまっすぐに――三嶋彰子を見据えていた。
公園の中央に立っている彼は、それだけで絶対的な存在のように思えた。
見えない眼光はしかしたしかに感じる。刺すような、貫くような視線を恐れて、家の中に入った。
それ以来だった。
誰かにつけられているような気配を感じ取ったのは。
「もちろん、最初は自意識過剰なのかなって思ったし……毎日感じるわけじゃなかった。けれど」
彰子は言葉を詰まらせた。胸のうちに弁でもあるようだった。それをなんとか開こうとするのだが、弾けてしまいそうで怖い。
事実を告げれば、自分は死んでしまうのではないか。
呪いでもかけられているような感覚に襲われる。
「警察には届けたのか」
真鶴は彼女の心を汲んでくれたようだった。言い出せないことを無理に言う必要はないらしい。彰子は、彼のずば抜けた洞察力に感謝する。
ええ、と短く答え、彰子は深呼吸をする。
「でも、被害が及ばない限り手は出せないって。もしかしたら本当に勘違いかもしれないんだし、って。そんなわけ、ないんだけど……」
「それで?」
「うん。パトロールはね、来てくれるんだよ。巡回だってしてくれるし。でも……」
悪寒は止まらなかった。
気配は消えない。
それは、視線を受けている対象である三嶋彰子だからこそ感じ取れるものだ。他人には通じない。電話のように、発信した相手にしか意識を向けることはできない。受信した本人しか感覚を受け取ることは叶わない。
初めは、ただの悪寒だった。
しかし、それは不吉の予兆となり、背中だけを走っていた寒気は全身へと伝播した。
その予兆が、いずれ確信に変わる時が来た。
夜、彼女の家に、フードの男がやってきた。両親は亡い。保護者も家を出てしまっている。
夢にまで見ていた悪夢が、現実になった。
幸いにも彼は彼女に何もしなかった。玄関先に佇んでいただけで済ませてくれた。
だが、それだけで十分だった。彼女の神経をズタズタに引き裂くには。
結果、彼女は自らの血脈を弾いた。マグマのように噴き出す真紅。根のように広がる真紅。
朦朧とする意識の中で彼女が考えたことは、大切に育ててくれた保護者に対する感謝と幼馴染に対する情愛。それと、これで苦痛から解放されるという幸福感のみだった。
三嶋彰子は左手を見やる。
包帯は痛々しく彼女を包んでいる。
「なんで生きているんだろう……私」
「死にたかったか?」
直接的な真鶴の質問に、彰子は頷いていた。
「なんで私だけ、こんな思いをしなくちゃいけないんだろう。私、いつも通りに過ごしていただけなのに……。あの時だって…………お父さんもお母さんも、どうしていなくなっちゃったんだろう……」
首にせよ口にせよ、勝手に体が動く。それはきっと本心からのものだからだろう。
そうだ。
苦しんでいたというのならば、自分はもっと以前から苦しんでいたはずだ。
周囲の人間には当然のようにいるはずの両親が、自分にだけはいない。決定的な差こそが、自分と周囲とを分ける圧倒的な不幸なのだと。
これが夢ならどんなにいいか。早く覚めてくれと願いたいばかりであった。
冷ややかに彼女を見守る目は、しかしそんな様子とは違った声質を届ける。
「じゃあ、お前はなんで死ななかったんだろうな」
目前の少年が低く言う。
「神様なんて者がいたとしたら、どうしてお前を殺してくれなかったんだろうな……。お前に不幸を与えたかったのか? それとも、お前に何らかの恨みでも抱いていたのか……違う。それはきっと、死ぬことそのものが何よりの不幸だからだ。
両親が死んで、お前はこの上なく言いようのない不幸を経験した。しかしお前が死んだら、今度不幸になるのは誰だろう。それは、今のお前の両親じゃないのか。
少なくとも、彼らはお前を愛しているらしいな。しかしその愛するものが急に居なくなったら……彼らはどうしたらいいかもわからない不幸になる。
生きていることは、それだけでいいことなんじゃないのか」
言われて気付いた。
なぜ気付かなかったのだろう。
両親が死んだことにショックを受けた自分がいるのに、自分が死んだことにショックを受けてくれる人間がいることを。今の両親……高崎慶喜……それに、あの素敵な名前の彼女もきっと……。
自分が死ぬことは自分の不幸ではない。
自分が死ぬことは他者への不幸の流布だ。
自分は生きなくてはいけない。
あと何日もすれば叔父夫婦が帰ってきてくれる。近くには幼馴染もいる。
苦痛を受ける日々は続くが、それでも、何かが守ってくれる気がした。
こうして自分が生きているのは、そういう何かがあるからなのかもしれないから。