08 来訪者
少年、高崎慶喜が現れたのは、天高く太陽が昇りきる前だった。
夏を誘う風が流れる。窓際の席に座る京斗の髪を無造作に撫でていた。
慶喜を座らせ、彼は自身の席から言葉を投げる。
「迎えも出せずにすまないな、高崎」
あまり乗り気ではないのか、少し抑えた声調だった。
ともすれば投げやりともとれる態度だが、慶喜は礼儀正しく答えた。
「あ、いえ。大丈夫ですよ」
慶喜は頭をかく。少し赤の入った短髪は、見ていて不快ではない、爽やかなイメージさえ帯びていた。
しかし、と京斗は置く。
「真鶴のやつはどこに行っちまったんだ」
「出て行ったわね」
慶喜の向かい側に座る命里は短く返した。
「どこへ行ったのかまでは知らないけど」
今朝方。
真鶴はココアを飲むなり、制服風の姿で出かけてしまった。
京斗としては、路地へ入るところで慶喜を待ち、事務所へ導いて欲しいところだったのだが、
「甘えさせんなよ。あそこからならもう大丈夫だろ。深夜ならともかく、こんなに晴れた日に迎えなんていらない。とって憑かれることはないよ」
と残して出かけてしまった。
飲み終えたココアだけがテーブルに残っている。
「まあいい。あいつのことだ。そう簡単におかしな真似はしないだろう」
「真鶴には優しいのね」
さらっ、と。
微風でも吹き抜けるような感覚で悪態をつかれた。
「俺が……優しいだと?」
「少しこの世界にいすぎたのかも」
「俗世間に染まった……か――」
ふっ、と悪魔は不敵に嗤った。
「戯れが過ぎたか」
白い空間を進む。
耳に入るのは己の靴音のみ。それも立てた次の瞬間には煙のように消えた。
リノリウムの床は不格好に景色を映し出して滑稽だ。
真っ白な壁に挟まれている。両側には少しの距離を置いて、扉が連立していた。
スライド式の扉が並ぶ。
少年はその中の一つに辿り着き、立ち止まる。
丸めた指の背で扉を打つ。返事は期待していなかった。だがそれとは裏腹に反応は返ってきた。
どうぞ、と声。
弱々しい、か細い声だった。それが目の前の白に似合いすぎて辛い。
扉をがらりと開く。
中には四つのベッドが置かれていたが、その割には人気がない。四つのベッドのうち、三つは使用されていなかった。
窓側のベッド。
硬質な明度の白を敷き、また人工的な白を被った少女が、そこにいた。
膝までかけたブランケットを握りしめる手は弱々しく小さい。淡い青のパジャマを着た少女は、潤んだ瞳で、突然の来訪者を見つめていた。
それは、睨んでいる風にも見える。ただ弱々しくてそうは思えないだけだ。
「三嶋彰子だな」
来訪者は言った。
少女は自分の名前を呼ばれたことに、ビクンと肩を震わせたが、その瞳に怯えの感情はなくなっていた。物事を考える余裕も見える。
彼女はしばし来訪者を見つめ、信じられないとでも言うように口を開く。
「アケウ、くん……? 暁烏真鶴くん……よね。どうしてこんなところに」
「高崎に頼まれた」
真鶴の短い回答に彰子はえ、と動揺する。
「慶喜が…………」
薄弱な声が室内に響く。誰もいない四人部屋は、今の彼女には酷く寂しくて、すぐに消える音もただただ虚しいだけのものだろう。
まるで世界から切り離されたように切ない。
この病室には、そんな魔力めいたものがあるような気さえした。
暁烏真鶴は彰子のベッドの横に立つ。
彼女は、彼がそのまま座るのかと思ったが、しかし、彼は立ったままで、彰子の左腕を掴んだ。
彰子は驚いたが、力を入れることができない。
実際そんなことはないはずだ。体には力が入る。入らないわけがない。だが彼の行動には有無を言わせない強さがあった。彰子は真鶴のする通りに従う。
強く握らない掴み方で、真鶴は彼女の腕を彼女の頭の高さまで上げた。
パジャマの袖がめくれる。
淡い青がずり落ち、細くしなやかな腕が現れた。その腕は驚くべき白さだ、まるで全てを吸収するような穢れた白の腕。
ところがその穢れた白は彼女本来の肌ではなかった。
その手首は――真っ白な包帯で覆われていた。
人工的に染められた、いや、抜かれた歪な白が螺旋する腕。ただ痛々しいだけの手首は、真鶴が目を細めるに十分たる異常さを物語っていた。
明らかな外傷の痕。
その禍々しさは一目見ただけでリストカットしたものだとわかる。
だが真鶴は多くを訊かず、短く言う。
「何があった」
「君に話すことじゃないよ」
ようやく腕を振り払う。彼女は拘束から逃れた左手首を、右手で抑えた。俯く表情は見えない。
しかし突き放すような言葉は、どこか真鶴を気遣っているような響きがあった。
真鶴はそれを感じ取っていながらも迷わない。
「俺は高崎に頼まれた。話を受ける義務はある。だが、お前の遍歴を他者にごちゃごちゃ言われても、真相はわからない。お前自身の話を聞かせろ。これは誰のことでもない、お前のことだ。三嶋彰子。
自分で考え、自分で話せ」
厳格に貫く真鶴の言葉を受ける。すると彼女は顔をあげた。その瞳は未だ迷っている。不安を抱きゆらゆらと揺れている。
自分からは何を言っていいのかわからない。
誰を、何を信じていいのかがまったくわからない。
今こうして目の前にいる少年は自分の味方なのだろうか。自分の味方でいてくれるのだろうか。
もう何も考えられない。言うことなど、ない。
ただ一言、自分の心に残った懇願だけが、胸の内に反芻される。
「助けて……ください…………」
丸椅子を引っ張り出して、真鶴は座った。
彼女の手を取る。
彼女はその手を強く握りしめていたが、真鶴は軽く返すだけだ。
「わかった」
温もりなど感じられない言葉が、たしかに体の芯に広がっていくのを、彼女は感じた。