07 事務所
夜の街並みは、また違った風体を晒していた。
昼はあんなに澄んで見えた空が、今では閉ざされたように暗い。押し入れに閉じ込められた園児にでもなったようだ。
微かに光る粒は存在を発揮しきれていない。
大きく浮かぶ月の光度には勝てないようだった。
今夜の月は季節を外れて大きく見える。錆びたような白さが目に痛かった。
車通りの多い表通りから抜け、狭い路地に入る。大きな月の光もそこまでは届かなかった。
光源の乏しいそこに表情はなく、ただ深海のような深さが広がるだけだった。
「…………またか」
この裏通りを見るだけで不吉な気分になる。
ここには案外、視えないだけで、数百の『生きてはいない命』がうよめいているのかもしれない。
「まあ、人を遮断するにはもってこいのからくりだけどな」
その証拠に、道の上にはおかしな気配がない。
――人につけいることのないモノ……か。珍しいな。
たしかあの悪魔はそのようなことを言っていた。
「どうでもいいか」
少年は闇の更に奥へと進む。
壁のようにそそり立つ建物。
少年はそこにぽっかりと現れた階段を上る。
コツ、コツ、とコンクリートが喚いた。
事務所は二階だ。
何の事務所かと問われると返答に窮するのだが、そうとしか呼びようがないのでそう呼んでいる。
擦りガラスの嵌まった扉が迎える。顔から胸の辺りまでを捉える擦りガラスの中央には、プレートが貼ってあった。
しかし、そこに文字はない。
事務所に名前はないのだ。
だから他人には何と呼ばれているのかわからなかったし(ここのことを話す者がいるのかどうかも不思議だが)、自分たちでも『事務所』としか呼んでいないので不自由はしていなかった。
ガチャ――扉を開けると、中は時間帯のわりによく見えた。
四方を囲う壁のうち、一面が窓ガラスで覆われている。入り込む月光に照らされているので、特に照明をつける必要性に駆られなかった。
窓際には、窓を背にするように机と椅子が一組。机の前には応接セットがあった。テーブルを挟んでソファが向かい合っている。
そのソファに、座る人影があった。
月光に照らされた蒼黒の髪は一本一本が繊細で、高い位置でひとつにまとめていた。白く細い首筋が艶めかしい。華奢な体つきは間違いなく女性のそれだった。
「お帰りなさい、真鶴。遅かったのね」
振り向くこともなく、彼女は言う。
女性と呼ぶには高い、言うなれば少女と呼ぶべき声質。
「いたのか」
感づかれたことに、内心で舌打ちをした。少年はそのまま彼女の向かい側に座る。
「喉が渇いたな。何かなかったか?」
「冷蔵庫に行けば? 頼まれたって、あたしはお茶を出す気はないわ」
無気力な声。
冷たいことで、と真鶴はソファの背にもたれる。
正面から見る少女は、病的なまでに白い肌をしていた。不気味な暗さに隣り合う彼女はまるで幽霊のように思える。
しかし、その危ういまでの透明感が彼女の美しさを物語っていた。元気な綾とは違う魅力が感じられる。
少女は何やら文庫本らしきものを読んでいた。時折、髪をかき上げながら、ページをめくる音が響く。こんな暗い場所で本を読むなど、真鶴には考えられないことだった。目を悪くはしないのだろうか。
「これだから読書好きは」
「何か言った?」
「別に」
「そう」
ぱらり、本をめくる音。
――会話、続かねえな。
ぱらり。
それだけで、切なく悲しい気持ちにさせられた。
しかし、無ではない。「虚無感」とはまた違うものだ。
彼女は相変わらず月夜の本に没頭している。スカートから伸びる脚を組み、その上に本を置き、視線がその本を謳い上げる。
油断を許さず予断を許さない。鋭く澄みきった黒い眼光は月光を帯びてきらめく。闇の中に希望を持っているように思えた。
――篠塚命里。
彼女は札差京斗と同じ時に出会った。
あの雨の日……彼が死んだあの日。
京斗と一緒に彼を殺した少女。
だが今は少年と一緒にいる。もちろん彼は彼らを恨んではいない。だからこうして一緒にいる。 死んだことを悔いてはいない。
だからこうして生きている。
人生は終わらない。死んだとしてもそれは本当の最期ではない。
人生に終わりはやってこない。
彼がこうして生きているのだから。
――何考えてるんだろうな、俺は。
「はぁ……」
溜息をつく。
それだけで彼女は顔をあげた。
「失礼じゃない? 人の顔を見て溜息だなんて」
どことなく、いや、露骨な不機嫌さを感じ取った。
居心地が悪くなった。悪いな、と告げて部屋の隅に移動した。角には、陳列された棚に交じって冷蔵庫がある。冷蔵庫を開ける。
扉の方に入ってあるココアを取り出して席に戻った。
座ると、彼女は本を開いたままで真鶴の方を見つめていた。
「不親切ね」
「う…………」
どうも彼は、命里には弱いようだった。
「別にいいわよ。今は喉が渇いていないから」
彼女は口の端だけで笑って言う。
参ったな……真鶴は嘆息交じりに頭をかいた。綾のような元気娘は相手が楽だ。何を考えているのかが手に取るようにわかる。しかし目の前にいる読書好きはわからない。
無口でなければ無表情というわけでもないのだが、彼女は心情が読めない。
いや、俺が相手をわかろうとしていないだけなのかもしれない。
真鶴は缶を開け、体の中に流し込んだ。
窓から覗く月は、相変わらず錆びていた。
どこからでも見える光、どこにでも届く光。
「俺の気持ちは、お前に届くかな」
命里は、真鶴をまっすぐと見据えて言った。
不自然に太い声は、まるで誰かの真似でもするように聞こえる。というかそれしか考えられない。
「それは誰の台詞のつもりだコラ」
「別に」
「…………」
やけになったように彼は残りのココアを一気にあおった。
けだるい体を起こし、大きく伸びをする。ベッドから降りて、事務所の応接スペースへと続く扉を開けた。
「やっと起きたか。早速だが仕事だ――この間言っただろう、その件だよ。依頼者は私立光奏学園の生徒、高崎慶喜。今日、ここに来るように伝えておいた」
窓際の席につきながら、札差京斗はまくしたてるように伝えた。
少年は寝ぼけた目で彼を睨み返すが、京斗は意に介せず書類を読み漁っていた。
ぼう、とする頭をなんとか回そうとする。
事務所の隅にある冷蔵庫へと向かう。
冷たいココアを取り出し、未だ目覚めぬ体へ注ぎ込んだ。
右の掌を開く。
少年は、それを見つめた。
「殺しか、壊しか……」
掌を握る。
そんなはずはないのに、腕がにわかに輝くイメージが閃く。
「――どちらでもいい。俺はやりたいようにやる」
鬼は、愉快に口元を歪めた。