06 ストーカー
街路樹のざわめきはにわかに色を変えていた。
青々とした葉は湿った風を吹きつけてくる。猛る音が耳朶を打つ。見上げてみると、濃い透明感を宿した空をバックに、緑が薫っていた。
「ねえ、聞いてるの?」
咎めるような声が急に発せられる。
真鶴がそちらを見ると、綾は拗ねた子供のように唇を尖らせていた。
「ん? なんだったっけ」
きょとんとした表情の真鶴。綾はそれを見るなり「もう」と頬を膨らませた。
「マナくんが聞いてきたんだよ、なにか変わったことはないか、って……」
「ああ、そうだったな」
悪い、と一言いうが、真鶴に反省の気持ちはなかった。
「まあ、いいですケド」
「で、なにか変わったことがあったのか?」
「うぅ、どうしようかな。マナくん、私の話なんて興味なさそうだし……」
「お、おいおい、悪かったって。あんまり怒るなよ……」
歩調を速めた綾、真鶴はそれを追いかける。肩を掴むと、振り向いた彼女の表情は笑っていた。
「あはは。ごめんごめん。マナくん、からかうとちょっとおもしろいかも」
予想外な彼女の言葉に、少し面食らった。
そのまま、また歩き始める。
「……お前なぁ。なんか性格悪くなってないか」
「マナくんがいっつもそんな風に冷徹だと、素直になれなくなっちゃうよ。私は可愛い仔犬じゃないんだから」
「俺は……クールなんてもんじゃねえよ」
「じゃあ、荒廃なのかな」
「…………」
言葉に詰まった真鶴を見て、綾はあはッ、と笑った。
「今のはちょっと酷かったね。ごめん。うん、変わったことならあったよ」
鞄を両手で持ちながら、彼女は歩く。真鶴はその隣についていた。
「最近ね、スクールカウンセラーの先生が来たの」
「スクールカウンセラー……?」
「うん。学校っていろいろとあるじゃない? 勉強とか、進路とか、人づきあいとか、それこそいろいろと。それを相談する相手として、近くの病院の先生を呼んだの」
「ああ……『心の教室』とかいうやつか」
そうだよ、と彼女は返す。
「その先生がね、若くてかなり美形なんだ。人気高いんだよー、特に、女子の間でね」
「ふーん。それはそれは、暇なやつなんだな」
「あ、ちょっと妬いてるでしょ」
またからかってくる綾に対し、彼はんなワケあるか、とだけ言って顔を背けた。
「私は行ってないけどね、顔は見たよ。全校集会があったから。その時に、理事長先生が紹介したの」
理事長がね……――真鶴は、本題とずれたところに目をやっているようだった。しかしすぐに思考を変える。
「てっきり、綾も興味あるのかと思ったぜ。そのイケメンカウンセラーとやらに」
『イケメン』の言葉をやけに強調する真鶴。
その言葉が仕返しだとすぐに気づいた綾は、ぷく、とまた膨れた。
「私はそんなんじゃないよー」
「はいはい」 真鶴は意に介していないらしい。気のない返事だった。
「ふう、酷いんだ、マナくん」
俯く綾は、いじけた子供を連想させる。
その様子を見て、真鶴はまぁまぁ、と彼女の肩を叩いた。
彼女は、恨めしげに彼を見る。
「笑ったな」
「全然」
たしかに、真鶴に笑顔を浮かべた様子はなかった。だが綾にはわかるのだろう、彼の微妙な表情の変化が。普段あまり心情を表に出さない真鶴にとって、それだけ、恋澄綾の存在が大きいということなのだろう。
ゆっくりと流れる雲をを見る。その優雅さに、一瞬、時が止まった気さえした。
そう言えば、と綾は言った。
「どうした?」
真鶴の声に、彼女は俯く。いじけているわけではないらしい。その表情はどこか暗さを帯びているように見える。
「……あの子も、空が好きだったなって」
空が好きだといったあの子。
純粋で可憐で、ひとつ願いが叶うならば空を飛びたいと願った――夢を見る少女。
「あの子?」
真鶴が訊く。
「マナくんは知ってるかな、三嶋さん。三嶋彰子さんのこと」
真鶴は顎に手をやる。
が、その名前を聞いた覚えはなかった。
同じクラスだったのに、と綾は嘆くが、知らないものは知らないのだ。
「彼女ね、今、入院してるんだ」
「それくらい誰でもするだろ。もしかして不治の病だったりするのか」
冗談半分で言ったつもりが、彼女は更に暗さを濃くしていく。
ビンゴかよ。
真鶴は頬を指先でかいた。どう声をかけていいのかわからないもどかしさに襲われる。
「そんな感じかな。近々、退院するけど」
深く嘆くでもなく、綾は顔を上げる。
「親友ってほどの仲じゃないけどね、クラスの友達だし。気遣いはするよ。だって、心の傷は癒えないからね……」
「心の傷?」
時が経てば癒えるものじゃないのか、と言いたい。しかし、彼が続けるその前に、綾は割って入った。
「彼女、ストーカーに遭ったらしいの」
ストーカー。
真鶴は、その重大さを知ることに欠けた。
妙な圧迫感がつきまとうその威圧は……時間の経過では養生することができない傷を作る。
「怖いよね……何をされるかわからないんだもん」
知らないという恐怖。
無知の哀しさ。
「お前につきまとわなくてよかったじゃないか」
「そうだけど……そういう問題じゃないでしょ。マナくん、本当にわかってないんだから。女の子の気持ち」
知らないということは弱いということ。
真鶴は、そんなことすら知らないでいた。