05 人影
急激に暑くなった夜に目を覚ます。
飛び起きると、周囲は暗いままだった。微かに差し込む月光のみが、自分に外の世界を認識させる。
三嶋彰子はパジャマに触れた。豪雨に打たれた直後かと思うほど、全身がぐっしょりと濡れている。
ジトッとした空気が肌にまとわりつく。サウナの中に放り込まれたかのようだ。
気持ち悪い。
何かに圧迫されているかのような湿度が、悪夢の中の自分を思い起こさせる。
心が塞がっていく気がした。押し込まれていくように痛い。
鼓動がやけに大きく感じる。
息遣いが2倍も3倍も荒い。
瞳は大きく開き、肩は激しく上下しているのがわかった。
「私は…………」
……何をしていた?
ビルの屋上から飛び降りた?
違う。
自分の右腕は……折れていたはずだ。
しかし、今の自分に異常は見られない。腕も折れていない。全身を強打したような痛みも……もちろん、ない。
飛び降りて右腕が折れていたのを、たしかに見た。あれは夢じゃなかったのだろうか。
「……ユメ?」
痛みが生じたから自分は右腕を見た。その腕は間違いなくぐちゃぐちゃに捩れていたのに……それが夢だとでもいうのだろうか。
わからない。
一体何が夢なのか、何が現実なのか……。
ガチャ
音が聞こえた。
自室のドアの向こう――玄関が開いたような音だ。
「誰…………!?」
今この家には自分しかいない。
両親は随分前に死んだ。そんな彰子を引き受けてくれたのは親戚の夫婦だったのだが、最近はどちらも仕事が忙しくて家を空けている。
誰かの気配がすることなどあり得ない。
キィ キィ キィ
階段を……上っている……。
彰子は頭の上まで布団を被った。外よりも暑い密室で丸くなる。体中はガクガクと震えていた。
誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かがいる。誰かが………………………………………………。
カチカチ、と鳴る音。
おそるおそる布団から頭を出すと、時計の針は深夜の2時を差していた。
目を凝らして周囲を見るが、誰もいない。自室のドアが開く音もしなければ、誰かが歩くような音もしない。
「……あれ…………?」
布団をはいでみた。体はというとまだ震えている。
熱帯夜だというのに、額は冷や汗でいっぱいだ。背中を伝う一筋までが気持ち悪い。
勇気を振り絞ってベッドから降りた。
自分の体を抱き、足元を探るように一歩一歩を踏む。
ドアノブに手をかける。その際に触れた手との温度差に驚いたほどだった。
ゆっくりとノブを回して、押す。
開いた隙間から廊下を覗くが、そこに人影らしきものはない。
「……はぁ…………はぁ…………」
気のせいであってくれ。
自分が聞いた音は、ただの錯覚だ――そうとでもいいきかせなければ、自分がどうにかなってしまいそうだった。今も全身がびくびくと震える。鳥肌が立っているのがわかる。
彼女は元々細く色白だが、彼女の腕は青白くやせ細って見えた。
恐くて足元しか見られない。
キィ キィ キィ
階段を下りる。
先程も同じような音を聞いた気がするのだが……。
「夢だ……ゆめ、だ……」
一階の廊下――玄関へは、そこをまっすぐ進めばいい。
先程聞こえた音が勘違いや夢であることを願って、歩む。
玄関につき、素足のままで土間を踏む。無論、冷たい。寒さが背中を昇ってきた気がした。
「…………」
目をギュウと瞑って自分を奮い立たせる。
――大丈夫。私は大丈夫……。
玄関の扉を、開けた。
ドア・スコープを覗いてみるべきだった。
そうしていたなら、彼に見られることもなかっただろう。
彼を見て、彼女は目を見開いた。心臓を鷲掴みにされた気がした。
家の前には――男がいた。
顔は見えない。明かりなどないのだから。しかしその輪郭や体型から男であることは想像できる。
男は黒のコートを身にまとっていた。
闇より深い黒コートは夜に溶けている。
男はフードを被っていた。かなり目深に被っておりその目や全貌はわからない。
しかし、彼女に鳥肌を与えるにはそれで十分だった。
彼が誰なのか…………。
「そんなこと……」
――わからない。
彰子は大きな音を立てて扉を閉めた。制御のままならない手のまま、元来た道を走った。
体中が震え上がる。何もないところで躓きそうになる。思いきり腕を振って階段を上がる。
自分の部屋は…………やっと探し当て、中に入る。その扉に鍵はない。
不安だ。恐い。もう嫌……。
もう一度布団を被った。
恐い。
恐い。
恐い。
「助けてよぉ…………誰か」
震える布団の中で、暗黒のビジョンは、襲い来る誰かの姿を描いて見せた。
すべて夢であってくれ――。
それだけが、彼女の願いだった。