04 恋澄綾
いつも通りに学校を終えた。
恋澄綾は鞄の中に教科書を入れる。この場所に思い残すことはないかを考えている最中、目の前の座席から声が飛んできた。
「ねぇ、綾。今日は空いてる? 映画でも観に行こうよ」
彼女の声は弾んでいた。金曜日の放課後を実感するための予定作りだ、気分も浮くだろう。
綾は申し訳なさそうに笑って、
「ごめんね。今日は予定があるの」
「えー。つまんなぁい。…………あ、もしかしてカレ?」
『カレ』という言葉に綾の耳が反応する。
「ち、違うよぅ! マナくんとはただの……」
よせばいいのに、ムキになって否定しようとする。それが墓穴を掘る態度だとわかっていても、綾にはどう否定していいのかわからないかった。あるいは、肯定していいのかどうかさえわからなかった。
「あはは、まったく正直だなぁ。誰のことかなんて言ってないのに。うん。わかってるって。じゃあね、綾」
「……う、うん。気をつけてね」
綾が告げる頃には、彼女はもう向こうの友達に走っていた。「映画行こぉよぉ!」の声が学校中に響いている気がして、綾はくすり、と笑った。
何気なく、空を見る。
夏が近づく空の青はとても濃い。そこに浮き出るような白い雲がぽつり、ぽつり、と漂っている。とても気持ちよさそうに流れていた。
「あッ」
校門の向こうに視線を落とすと、綾は嬉しそうに声をあげた。
もう来てる、と微かに残して綾は教室を出た。
背中まで伸びる彼女の黒髪がほのかに甘い香りを残す。
改造のない清楚な制服の彼女は、まるで無邪気な子供のようだ。
世界を疑うことを知らない。
自分を取り巻く環境を信じきっている。
駆ける彼女の胸元には、丸い銀のペンダントが揺れていた。
学園は森の中にあるように見えた。
敷居に塀のような高さの柵を立てている。その外側には木が植えられていた。校舎の周囲を囲うようにぐるっと。
ひとつ前は、そこには満開の桜がひしめいていた。綺麗としか言いようのない光の粒子は、ひとつひとつが息をしているかのように揺れて、いつの間にか散ってしまう。
散る姿もまた、美しい。
真鶴は桜の木のひとつに背中を預けていた。腕を組んで目を瞑っている。
何を考えているのか、傍目からはわからない。何も考えていないのかもしれない。
真鶴は、春までこの学園の生徒だった。今は『一身上の都合』と言って離れてしまったが。
彼は昼と同じ格好をしている。
高校生の制服のようなYシャツ。紺色のスラックス。夏の近づくこの時期は彼には暑いのか、Yシャツの長袖を肘まで捲り、ボタンは三つ開けて、中の黒いシャツが見えてしまっている。
開いたシャツの間には銀色のペンダントが存在を主張していた。
「マナくん」
真鶴のもとに、少女が駆けてきた。
改造のない清楚な制服。
背中まで伸びる黒髪を無邪気に揺らす彼女は、恋澄綾だ。
声をかけられた彼は「よッ」と掌を見せた。無表情だが、心なしか笑っているようにも見える。
「もしかして、待っちゃったかな」
「いや、三十分程度だ」
「三十分って……まだ授業中じゃない。そんなに早くからいたの?」
呆れた、と息をつく彼女に対し、真鶴は不機嫌そうに悪かったな、と返した。
「別にいいだろ、これくらい。お前に迷惑をかけた覚えはないぞ」
「迷惑じゃないけど……。あんまりここに突っ立ってると、怪しまれるよ?」
「ああ。さっき守衛がやってきたぜ。いや、歩いて来たんで見返したら、さっさと校庭に戻って行っちまった」
「…………」
それだけ聞くと、綾は眉間をつまんだ。
「マナくん。君、それはもしかして、見返した、じゃなくて、睨み返した、じゃないのかな」
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺だって、前まではここの生徒だったんだ。おかしなことはない」
その言葉で、綾は黙り込んだ。
沈鬱な表情は真鶴にも読み取れる。
瞳を伏せる綾は、あの夜のことを思い出しているのかもしれない。
雨の音だけが自らを覆い隠す夜を……。
「戻ってきては……くれないんだよね…………」
「ああ……すまない」
「謝ることなんてないよ、仕方がないんだよね。ちゃんと、理由があるんだよね……」
ああ、と、そう言うしかなかった。真鶴は木に預けていた背中を戻して、綾の肩に触れた。
「行こうぜ。ここでずっと話し込むのも嫌だろ」
「……うん」
二人は歩きだした。
カラッとした空の下を、いつもの街が過ごしている。
学園の正面にある喫茶店。コーヒーカップを口に運びながら窓の外を見つめる少年の姿があった。
「仕事だ」
高校生風の少年は席を立った。