16 夢見がちな少女―最期の夢
『面会謝絶』と書かれた扉を開けると、白が眩しく反射してきた。
部屋は個室。
ベッドの上の少女は上体を起こし、細い手を反対の手で握りしめていた。
恋人の死を目前で目の当たりにした少女。
床は薄汚れた朱が溢れ、壁までもが鮮烈に濡れていた。
彼は濡れた中で動かない。
そこに埋まっているのだとさえ思えた。
動かない彼はもはや人物とは呼べない器物だ。
仰向けのままで、ざっくりと開いた喉元に腹部は、家畜の解体場を連想させる。
あまりのショックで、三嶋彰子には、その死体が高崎慶喜だという決断ができない。むしろ「彼だ」などと思いたくなかったのだ。
そのモノの顔は見えない。彰子の方へは向いていなかった。
「彰子……彰子オォォ…………――」
そんな声が、彼の喉笛から鳴いているのみだった。
彼女は真鶴の姿を目にし肩を震わせた。
「暁烏真鶴……の名前は覚えているか?」
ベッドの横に立った真鶴が冗談めかして言うが、三嶋彰子は震えながら首肯する。目を泳がせる彼女には、何を言ってもまともな返事が返ってくる様子はない。
「私を殺して……。こんな不幸な気分で生きなくちゃいけないなんて……耐えられない。死にたい……。早く慶喜のもとに行きたい……」
「行きたいのなら行けばいい。あいつならおそらく、もう数日後に葬式が行われる。明らかな殺人の跡だからすぐには対面できないだろうが……それでも、あいつの顔なら見られるぞ」
「違う……慶喜の身体じゃない。彼の心と隣り合っていたいの。彼の心が天国へ行ったのだとしたら……私は自分でこの心臓を突き刺してでもそこに……。慶喜のいないここになんて、いる意味がない……」
顔を覆う彼女の両手から隙間を縫って、大粒の涙が伝わった。
白で統一された殺風景な病室には、彼女の泣き声のみが、壁を叩くこともなく無残に消えている。空気に溶けるような声は、それからもずっと止まなかった。
しばらく沈黙した末、真鶴は右手を胸の高さまで上げた。そして握り締める。まるで見えない魂でも掴むかのように強く。
「死にたいのか……」
両手を外す彰子。
彼女は濡れた瞳を上げ、真鶴の方を見る。瞳の奥に宿るのは淡い懇願のみ。
消えそうな灯が、しかしはっきりと息づいていた。
濡れた暗の奥にある緋を見て、真鶴は頷いた。
「わかった。お前を殺してやろう……」
握っていた右の拳を開いて、少女の方へと伸ばす。
少女は、彼のする動作を見逃さなかった。決意に満ちた瞳でじっと見つめる。
真鶴は、睨むような目の少女へ伸ばした手を、そのまま彼女の頭にぽんと置いた。ちょうど撫でるような形だ。
彰子は意外な彼の行動に訝しむ視線を投げたが、なんの反応を示すこともない。
すると彼は、ふっと笑んだ。子供にでも向けるような、優しげな微笑み。
周囲へのぶっきらぼうな態度からは想像もつかないその微笑は、彼女の頭の中を真っ白にさせた。
殺してくれないのかと思った。
自分は、このままではもう生きていくことができない。
両親を失い、義兄を失い、彼を失い……もう、己を喪うことしかできない罪深き自分を、彼は赦してくれないのか、と。
しかし。
「大丈夫」
と、彼は呟く。
「――三嶋彰子は死ぬよ。今、楽になるから…………」
右腕は天使の憂愁か。
それとも悪魔の微笑か。
三嶋彰子は目を瞑った。
彼女の視界は闇に閉ざされる。
脳内までもが暗に満ちたその時――刹那のような閃光が彼女を襲った。
彼女の記憶は白く還り、隅々まで透き通ってゆく。
黒い霧が澄んでいくような爽快感……心地のいい風が吹き抜けていく気分だった。
中を侵し尽くす高揚感が満ちみちた時、
三嶋彰子は――空になった。
「彰子!」
一気に入室した二人の人間たちを、ベッドの上の、上体を起こした少女が視認した。
声を上げたのは女性だった。背は低いが、痩せた線の細い女性だ。しかしそれは痩せたというより、痩せ細ったと言った方が適切かもしれない。
彼女の後ろについたのはスーツを着た男性だ。どこか彰子に似た目の、どこか彰子に似た顔の男性だった。
彼女らは早足に彰子へと近づく。
「彰子……大丈夫なの?」
焦燥の募った声を抑えられない女性は、少女の手を、自らの両手で握った。まるで卵でも包み込むようにやんわりとした温もりが、少女の手を覆う。
それだけで気持ちがよかった。
だが――
澄みきった黒の瞳で、少女は女性を見上げた。
後ろには一連を見守るような表情の男性もいる。
不安もなく疑問もないような声で、少女は問うた。
「あなたたちは、誰ですか……?」
微笑んで……
少女の幻像は……
白に消え入った……。
「ねえ、マナくん」
彼のことをそう呼ぶ人間がいるとすれば、それは恋澄綾しかいない。
「あの子……三嶋さんだけど、また入院したって…………それに、高崎くんが……」
「なあ、綾――」
不安そうに震える彼女の声に、真鶴が返した。
黒い陰と白い陽の入り混じる店内で、二人は向かい合っていた。
日曜の昼。
暁烏真鶴は恋澄綾を呼び出した。誘った、の方が合っているのだろうが、真鶴本人はそんな呼び方を否定することにこだわっていた。
青空は濃厚な透明感を醸している。
ざわざわと風に揺れる青葉は見ているだけで清々しい。
春の陽気が過ぎ去り、梅雨の湿気までもが別れを告げた街で、夏の兆しだけが足音を立てて近づいていた。
店の奥にある、窓に面した席。
横顔を晒す彼は雲を見ていた。澄んだ青色の中ではっきりと存在感を浮かせた白を眺める。
視線を外に向けたまま、真鶴は続けた。
「――葬式に行く格好って、どんな感じがいいんだ?」
右手で首元をいじる彼へ向けて、綾は言う。
「そうだね。とりあえず、銀のペンダントはしちゃ駄目だと思う……」
真鶴は右手の先で弄ばれていたペンダントを見る。綾のそこに光るものとまったく同じデザインのそれを、彼はまじまじと見つめてから、もう一度、外へ目を向けた。
そうだな、と呟く。
「あいつらが見てるか……失礼なことはできねえな」
「あいつら?」
小首を傾げる彼女に対し、少年は告げた。
「今頃は手に手を取って隣り合ってるだろうよ。高崎慶喜と、三嶋彰子は……」
いなくなった二人へ、祈りでも捧げるように。
長々と説明もなしに連載しました第一章の終幕です。
NOTEと申します。
さて、今回は私の以前書いた『虚無の識閾』というお話をよりわかりづらく改編したものです。
未だに、意味のわからないことをするNOTE性は変わっておりません。
以前書いていたものでさえ、最後まで書いていない始末ですから。皆様もさぞ、第一章最終話を「このまま更新することはないのではないか」という目で見ていたと存じます。
こうして無事、第一章を終えることができました。
何これ、と思う設定が多々ございますが、引き続き次章の公開をお待ちしていただけたら幸いです。
以上。
NOTEでした。




