14 幸福
未だ夜も明けぬ月光の下。
男は自分の家へと帰ってきた。息を切らしながら、地響きでも起こすような足取りで、彼は自身の机へと両手をつく。
静かな夜だった。
ただ、前のめりになった男の荒い呼吸音のみが大きく響いている。
――やってしまった……また。
暗い笑みが、彼の顔に浮かんだ。
自分はやってしまった。人間の生命に干渉した。
息の根を止めた。この手で……少年の胴体、その主要部分にナイフを突き刺した。
少年は声を上げなかった。なぜかはわからない。驚いて声も出なかったのかもしれない。
男はベッドの中から少年の体を引きずり出した。胸元から絶え間ない血潮を噴き出す少年は服を着ていなかった。ベッドを見ると、同じく一糸まとわない少女が眠っていた。
男はそれで、完全に意識を奪われた――己自身に。
自身の、本能という怪物に。
男は少年の胴体からナイフを取り出す。いっそう、間欠泉のような血液の流動が男を襲った。
一瞬にして血まみれになった室内。男は再度、少年の喉元を突き破った。
掌には肉の柔らかいものを貫通する感触。喉笛がヒューヒューと、か細い音を鳴らしていた。
少年の目玉と目が合う。
見開かれたそれの大きさは桁違いだ。与えられた痛みの絶叫もできずに、喉元から血を噴き出すばかり。
その上、男は少年の腹部を切り開いた。小さな刃物で広がった身体の中身をぐちゃぐちゃにかき回した。
少女を奪った少年の身体を……蹂躙しつくした。
「フ……フフ……」
切れた息を整えた後に聞こえてきたのは――。
「クッ……フフフ……フッハハ…………フハハハハハハハハハハハハハハハハハハァッ――!」
「楽しそうだな、センセー」
別の声が耳に届いた。
ハッとして、男が振り返る――と、そこには……。
「き、君は誰だ!」
声の主には影がかかっておりよくわからない。しかし、それは高校生の制服のような格好をしていた。Yシャツを暑そうにまくり、両手をポケットに突っ込んでいる。
「知ってるぜ。お前が三嶋彰子をストーキングしてたってことは……」
一歩、男へと歩む。
それだけで、主は全貌を露わにした。
それは少年だった。
男には見覚えのない少年。
ただ少年の印象的な点と言えば……三つ目まで開けたシャツから覗く銀色。
月光を受けて光り輝くそれは、綺麗な形をしたペンダントだった。
暁烏真鶴は男を追い詰めていた。
男は体を起こし、こちらを見つめている。鬼気迫る瞳の彼は、以前会った時とは印象がまったく違って見えた。
しかし逆光に浮かぶ影は、明らかにどこか震えている。中指の先で眼鏡を動かすが、それが冷静を装った行動だということはわかりきっていた。
「お前はずっと以前から彼女のことを知ってたんだろ? センセー。ストーカーとして彼女の精神を蝕んだ」
草薙修が体を固くさせた。彼は目を逸らしながら答える。
「何を言っているのかな、さっきから。私がストーカー? 冗談も大概にしたまえ」
とぼける態度を見て、真鶴はクッと微笑した。
「血まみれのスーツでそんなこと言われてもな」
草薙は目を見開いて自分の姿を見た。
たしかに、男のスーツは赤黒く濡れている。
「外科医でもないあんたが、普段着ているそれで血まみれってのは、普通じゃねえだろ。被災地で救命活動したわけじゃあるまいし」
「…………」
息を呑む音がする。というより、そんな格好のままで逃げ切れるつもりだったのだろうかと、真鶴は嘆息する方が大きかった。
「まあ、あんたが誰を殺そうが知ったことじゃないけどな。しかしまあ、あんたも災難だったな。やっと彼女が両親の手を離れたってのに、再び出会った時には、今度は恋人がいたわけだ」
「な、何のことだ……」
真鶴の言うことに、草薙は再び息遣いを荒くする。だんだん落ち着かなくなってきた。
「もう隠す必要はないぞ。全部わかってるんだ、草薙修」
そこまで言ってから彼はひと呼吸置き、いや、と続けた。
「――支倉周と言った方がいいのか」
草薙が一歩退いた。真鶴の言葉は正鵠を射ていたのだ。
草薙は焦っていた。
なぜこんな少年が知っているのか。自分は完璧に身分を偽ってきたはずなのに。あの少女に気づかれることさえないままに……。
草薙の混乱とは裏腹に、落ち着き払った声で、真鶴は続ける。
「お前は昔の彼女を知っていたんだ。3歳の頃、両親を交通事故で亡くした時にな。その時の名前は『草薙修』ではなく、『支倉周』だったわけだが。
お前は三嶋彰子の幼少時代、兄のような存在として彼女と遊んでいた。彼女は本当に楽しかったのだろう。だがその頃ともなれば、お前もただ小さな子供と遊んで楽しい年頃ではないだろう。惚れてたんじゃねえのかな、三嶋彰子という3歳の女の子に。
しかし――両親の事故をきっかけに、彼女は住んでいた家を離れてしまう。その時からだったな、お前が行方不明になったのは」
草薙は答えない。ただ沈黙して、真鶴を見ているのみだ。
「そして10年以上が経った今になって、彼女への恋慕が再燃した。……お前、病院にも顔を出しながら、今はスクールカウンセラーとしても活躍してるんだってな。善意の協力者からの情報だ」
『――スクールカウンセラーの先生? この間話した人? 名前かあ……たしか、草薙修とか言ってたと思うけど……。それがどうかしたの、マナくん?』
善意の協力者の言葉を思い出し、真鶴は口元を歪める。
「おそらく三嶋彰子は全校集会の際に紹介されたスクールカウンセラーを見た。イケメンカウンセラーとして学校中の注目を浴びたお前を、彼女は友達とともに会いにいったのだろう。彼女は憶えていなかったが、しかしお前の方は憶えていた――14年前、自分のもとから消えた女の子を」
そして、彼は言うことができなかった……自分が14年前まで遊んでいた『お兄ちゃん』であることを。離れ離れになってからも、自分はずっと胸のうちに想っていたことを……。
結局、彼は伝えられないまま、気がつくと彼女の姿を追いかけていた。彼女の帰り道を、現在の自宅まで。
そうだ。
こうして見守っているだけで幸福だったはずだ。
昔も、遅くまで遊んで、夕方には家まで送って、バイバイして別れた。
それだけのことで自分は幸せを噛み締めていたはずだ。
今度もそうだった。彼女が家に帰り、部屋に照明をつける。それを遠くから眺めただけで、自分は安心してしまっていた。彼女が自分を知らなかろうがどうでもいいことなのだという気さえした。
「それからお前は、彼女のあとをつけるようになった。それがストーカーと騒がれる行為であろうともお構いなしに、だ」
草薙は口をつぐんでいた。噛み締めていたのだが、その力はゆっくりと抜けていき、彼は沈黙を破った。
「……あの男が、いけないんだ。高崎……慶喜……」
三嶋彰子がたとえ自分のことを知らなくても、彼はどうでもよかった。彼女の姿を見ているだけで幸福なのだから、それ以上を望む必要はない。草薙修になったことも、それでよかったのだと思えた。
しかし――。
「彼女が他の男に関心を持つことだけは嫌だったんだ。彼女は、私にだけ――それがたとえ昔の私であろうとも――好感を抱いてくれていればよかったのだ。だがあの男が……高崎が……当然のように彼女の隣にいた! 私は、それが許せなかったのだ……!」
高崎は、三嶋彰子を好きになったしまった。
たとえ幼馴染という殻を破れなかったとしても、おそらくは満足していたのだろう。
そして、草薙がストーキングを続けていたことが、かえって彼らの情愛の念を強めてしまった。強く惹かれあうようにしてしまったのだ。
「皮肉なもんだな……」
呟くように、真鶴はひとりごちた。
その声は草薙に届かなかったらしい。
「しかし、お前は今までただ彼女を見守ってきただけのはずだ。彼女を苦しめるようなことをしなかったお前ならわかるだろう。高崎を殺せば、彼女が苦しむだろうことを」
もちろん、真鶴は高崎慶喜の死体を見ていない。
しかし、退院して初めての日に、高崎が三嶋を一人にするわけがない。
高崎と三嶋が一緒の家に入る姿をこの男が見たら……どんな行動に走るのか、真鶴に想定できないわけではなかった。
そしてその予感は当たっていた。
「……そこまで知られていれば、もう隠すこともあるまい」
草薙はクフフ、と嗤い……真鶴を見返した。
その笑みはまるで悪魔のようで、見るだけで悪寒が込み上げてくような……気色の悪い嗤い顔だった。
化け物じみた表情のままで、草薙は言った。
「彼女の両親を殺したのは……私だ」
彼は内ポケットより、カバーのついたナイフを取り出した。
カバーを外したところでそこに反射性はない。ただ泥のような赤色で染まっているだけだ。