11 兄妹
病院から抜け出すと、陽は既に落ちかかっていた。
この分だと到着する頃には闇に包まれるだろう――真鶴がそう考えていると、公園が見えた。
住宅街の狭いスペースにもかかわらず、公園は充実しているように見えた。
砂場、滑り台、ブランコなどの遊具が所狭しと並べられている。
ふと、立ち止まった。
何か珍しいものがあったわけでもはない。だが、引っ掛かりを覚えた。
公園をしきりに見つめるが、その違和感に気づくことができない。
「公園……」
公園の入り口付近に立つ真鶴は、後ろを振り返った。
そこにあるのは何の変哲もない住居。現代風の一戸建てだ。
表札には『三嶋』と刻まれてあった。
珍しい苗字ではない。どこにでもある、何の変哲もないものだ。しかしそんな真鶴の意識は、新聞を詰め込まれたポストに集中する。
「偶然だな」
二階の一室には、ピンク色のカーテンが引かれてあった。中には人の気配がない。きっと閉めたままで忘れているのだろう。
「それとも現場保存か。あそこは自殺未遂事件が起こった場所だからな」
断定する。
ここは、三嶋彰子の現在の住所だ。
すると彼女が言っていた公園というのは、今、真鶴が背にしているものなのだろう。
彼女は数日前までここに一人だった。そして、そこに介入してこようと迫る人物がいた。彼女は彼の精神的な圧迫に耐え切れず……手を落とそうとした。
命を落とそうと考えた。
ふと見かけただけだが、事情を知った上で見ると、周囲とはひときわ異彩を放っているようにも感じた。
しばらく、見つめることしかできなかった。
不幸の続きを演じ、不幸の終わりまでがこの建物内で果てていくことに、かけられる言葉もない。
と――。
真鶴は視線を感じた。
どこからともなく見つめられている気がする。
意識をそちらへ向けると、そこには電柱があった。等間隔に置かれた電柱の一本は、公園のすぐ脇にある。
「気のせいか」
それだけ言って、真鶴は歩みを始める。
電柱のすぐ翳が、朱に濡れていることにも気づかずに。
朝からの晴れ間が嘘のように崩れ落ちてきた。
「雨……?」
屋根を叩く音に気づき、綾はカーテンを開けた。もうすっかり夏の兆しが差していたはずだったが、今では何も照らすことのできない闇が広がっていた。
闇は濡れていた。
しとしとと窓に当たる雨粒は小さい。
すぐに晴れるようだ。やはり夏が近いのだろう。
再びカーテンを引くと、ドアが鳴らされた。
アパートのドアはよく響く。彼女が気づかないはずのない音が部屋中に広がった。
途端、綾は顔いっぱいに笑みを浮かべて玄関へ向かった。
そこで、彼女は自分の格好を見る。キャミソールに柔らかな素材のホットパンツ。比較的露出度の高い部屋着だったが構わない。
もう一度ノックが響く。いつもチャイムを鳴らしてくれと言っているのだが、彼は直してはくれないらしい。
「はぁい。今開けますー……って、わぁ! どうしたの!」
扉の向こうに立っている真鶴はずぶ濡れだった。この雨に打たれたのだろう。彼はそのままの格好で、濡れたスラックスに手を突っ込んでいる。
「もう、びしょびしょじゃない。どうしてこうなるかなあ、マナくんは」
「仕方がないだろ、さっきまでは晴れてたんだから。ま、たまには濡れるのもいいと思ってな」
口元に、微妙に浮かんだ笑みから、彼が強がりを言っている風でないことは伝わる。しかし、彼女からしたら心配でたまらなかった。
「もー、こんな時期に風邪なんか引かないでね。待ってて、タオル持ってくるから」
「いらないよ。俺はこのままで……」
言い終わる前に、綾の顔は真鶴の顔に接近した。
ずい、と身を乗り出す綾に対し、真鶴の方は身を引いていた。
「それだと私が困るの。びしょびしょのままで入るなんて、非常識だよ。私だって一応女の子なんだから、お部屋は綺麗にしたいの」
「わ、悪い」
待っててねと念を押して、綾は小走りで奥へと入った。引き出しからタオルを一枚と、念のためにバスタオルも持つ。玄関へと戻る頃には、真鶴は手持ち無沙汰にドアへと体を預けていた。
「すまない、気を遣わせて」
謝罪の弁を述べる真鶴。その表情は心の底から反省しているようだった。
綾はピンク色のバスタオルをいっぱいに広げ、彼を上から覆った。
驚いて声も出ない真鶴。そんな彼をよそに、彼女は彼の頭をわしゃわしゃと拭き始めた。真鶴よりも一段上に立つ綾。彼女とは対照に靴を履いている彼だが、それでも身長は勝てなかった。
「お、おい。自分でするから、放せ、よ……」
ピンクのバスタオルに揉まれながら、真鶴は懸命に顔を出した。
すぐ目の前では彼の頭に手を当てている綾がいる。彼の心情とは裏腹に、彼女はにっこりとしていた。思わず、つられて笑ってしまいそうになるほど爽やかなものだった。
「駄目だよ、わがままなこと言っちゃ。ほら、暴れてるといつまでたっても乾かないから。ちゃんとしてて」
真鶴にしてみればこんな羞恥はない。
そんな彼の表情を見るのが、綾には楽しくて仕方がなかった。
嬉しいのだ。いつもはムスッとした彼の弱った姿を見ることが、嬉しい。
されるがままの真鶴は、恨めしく彼女を睨んでいた。
「三嶋さんの家? うん。知ってたよ」
風呂を貸してもらいつつ、着替えた真鶴に問われ、綾はにっこりと返した。
真鶴の服は乾かしている途中だ。エアコンの真正面に陣取っている。しわだらけになることは予想されたが、その時はアイロンでもかけてあげるという魂胆での対処だった。
ということで、彼は今ジャージ姿である。当然ながら女ものしかないここにある中では、それが一番いいようにとられた。
彼としてもまさかスカートなど穿くわけにはいかなかっただろう、丈の短いジャージを目にしても迷わず手に取った。綾の思惑は彼の凄まじい察しの良さに敗れることになった。
テーブルの向こうで綾の作ったパスタを食べる真鶴は、手首まで見えてしまっているジャージを更にまくっている。
「三嶋彰子とは親しい間柄なのか?」
「うーん。そんな言い方をされると、そこまで親しくはないんだけどね。でも、話すことはあるよ。何気ない世間話とか、真面目で事務的な話まで。仲は良いもの」
「じゃあ高崎のことにも詳しいか?」
「高崎? 高崎慶喜くんのことね。うん、知ってるよ。詳しくはないけど。なんでも、三嶋さんがこっちに引っ越してきた時からの仲だったんだって」
こっちに引っ越してきた。
それは両親が亡くなり、傷心のままの彼女が歩んで新しい場所を見つけた時の話。
「なるほどな。おそらく、高崎は三嶋の過去のこともすぐに知ったんだろう。その上での付き合いってことか」
「なんだか、理想的な気がする。相手のことを全て知った上で向き合える、って……」
「理想か」
たしかに、言葉にするとそんなものなのかもしれない。
だがそれはそのまま理想論でしかない。
記憶は消せない。実際に植えつけられたものは忘れることができない。身内の、一番近い存在である両親のことともなればなおさらだ。
現実は消えない。いくら夢を見ようと、夢想と現実とは、どうしても相容れないものなのだから。
「それはそうとマナくん。もう夏だからってびしょびしょになったりしないでね。体を冷やすと病気になっちゃうよ」
「お前こそ、そんな薄着でよく生活できるな」
「私は、家の中だもん。それに、お風呂だってこれから入るところだったし。一番風呂はとられちゃったけどね。誰かさんのおかげで」
「悪かったな。じゃあ早く入れよ、楽しみは減ってるんだろうけど」
「女の子のお風呂を楽しみにしているのは、どっちなんでしょうかねー」
「お前なあ……」
呆れる真鶴に綾は、あははと笑った。
「冗談だよ。……なんだかお兄ちゃんみたいだな、マナくん」
いきなり飛び出した発言に真鶴は目を丸くする。その様子を見てとってか、彼女は笑いを含みながら続けた。
「なんだろう。普段しっかりとしてるのに子供っぽさが抜けない、お兄ちゃん」
「それは弟の間違いなんじゃないか。それとも、ガキくさいとバカにしてるのか」
「ううん、違うよ。マナくんには、とってもお世話になってるもん。マナくんといると心が安らぐ。だから、やっぱりお兄ちゃんだよ」
彼からすると、どこか釈然としない物言いだったが、これ以上追及しても得られるものがなさそうだったので、あえて言及も追求もしないことに決めた。
「そう言えば、三嶋さんにもお兄ちゃんがいたって話だったなあ」
「三嶋に……兄がいたのか?」
それは初耳だ。ということは、三嶋彰子は交通事故の際、両親と共に兄まで亡くしていたのか。たった一度の事故で、彼女は、2人ではなく3人の身内を奪われたというのか。
1人の違いは大きな差だ。
数字の問題ではない。
彼女は家族を全員失ってしまったのだから。
いや。
もしかすると、その交通事故の以前から亡くなっていたという可能性もあるのか。
真鶴が思案していると、綾は大仰に手を振って否定する。
「あ、ごめんごめん。言い方が悪かったね。その人は、本当のお兄ちゃんじゃないの」
「何? それじゃあ、養子ということか?」
「ううん、それも違う。なんかね、近所に住んでる優しい人だったみたい。年齢が少し上で、よく面倒を見てもらってたから『お兄ちゃん』だったんだって」
「ふうん、なるほど。『お兄ちゃん』ね……」
「でも、こっちに引っ越してからは全然話してなかったらしいけど」
身内ではない。
そのことは、あまり事件に関係性はないようだと、真鶴は思考をやめた。
「その影響かな、高崎くんとの関係も」
ぽつりと呟く綾。真鶴はその言葉に反応した。
「高崎くんってね、とても面倒見がいいの。両親を亡くして、知らない土地に迷い込んだ三嶋さんのこと、すごくよくしてくれたんだって。それは、なんだかお兄ちゃんみたいな感じだった、って……」
そんなのがとても似合う気がしていた。
綾はそう言った。
「誰かが支えてあげないと、三嶋さん、なんだか折れてしまいそうで」
「折れる?」
「純粋なんだよね、彼女。心が透き通ってる分、薄いの」
その吐息はとても儚げで。
叶うことのない夢を見ているようで。
敵うことのない現実を見ているようで。
とても他人のことを言っているようには見えなかった。
服が乾くのを待って、彼女の家を出た。
半ば無理やり持たされた傘を見る。やはり迷惑だったのだろうか、と彼は反省した。真鶴にとっては珍しい心境である。
しかし彼女の気遣いは無駄だったのかもしれない。
公園に着く頃には、雨はやんでいた。真鶴はたたんだ傘を片手に持っている。
彼が帰るのは京斗や命里のいる事務所だ。
そこへ行くまでには、この公園を通らなくともいいのだが、夕方の視線が気になったためか、彼はこうして、再びここにいる。
小雨だったためか、真夜中の路面はうっすらと潤いの膜を帯びている。
ふと歩きながら、公園の正面にある家に目がいった。
柵で閉められた門の向こう――玄関の扉までに続く飛石がある。
その一つに、真新しい泥の跡が付着していた。