10 夢想―現実
自動ドアを抜け、吹き抜けのロビーを足早に通過する。病室への道のりはなぜか気がはやった。
今日も彼女は無事だろうか。鬱向いたり、堕ち込んだりしてはいないだろうか。
不安感のみが胸を締め付ける。
患者らしき子供や老人、医師や看護師を見受ける。背景と一緒に流れる。
背景は時に笑っている。時に苦しんでいる。
皆、多様な症状を見せていたが、そんなことに興味はない。
彼はやがて目当ての病棟に到着した。
芝生が敷かれた中庭の見える廊下。彼は突然に歩みをやめた。
中庭では多くの患者が憩いの時を過ごしている。
子供はボールで遊ぶ。
老人は看護師に手を引かれて歩く。
少女はその中で、ベンチに座っていた。
中庭の木を見ているのか、空を眺めているのか、それとも未だ見えぬ明日を望んでいるのだろうか、彼女はただ中空を見つめる。
少女の元へと向かおうとした時、少年は、自分と同じく廊下で彼女を見つめる人影を発見した。
それは自分のよく知った人間だった。
「草薙先生」
彼をそう呼んで、少年は駆ける。
人影は男性だった。すらりとした長身に、がっしりとした頼りがいのある体躯。医師らしい神経質そうな顔と、医師らしくない長髪を持った白衣の男だ。
白衣の医師は銀縁眼鏡に触れ、少年の方を見た。
「ああ、高崎くん。お見舞いかな」
優しげな声を漏らす医師に、少年は頷いた。
「はい。……あの、彰子の状態は、大丈夫なんでしょうか」
「うん。容態の方はね、もう大丈夫だよ」
にこりとして、白衣の男は言う。
「入院して、もう一週間以上になるね。精神の方も安定してきたみたいだ。先から言っているように、すぐに退院できるよ」
そうですかと慶喜は胸をなでおろす。
それだけ聞いて満足したのか、彼は中庭の方に出ることにした。出口を見つけて陽の下に飛び込み、彰子の元へと駆け寄る。
草薙医師は、その光景を見つめていた。中空を見つめる彼女は、駆け寄った少年に反応して、今では楽しそうに会話を弾ませている。
心療内科医である草薙医師に近づく少年がいた。高校の制服風のYシャツとスラックスを着た彼の胸元には、銀色のペンダントが提がっている。
「三嶋彰子、ですか――」
髪の長い草薙修の横に並ぶ彼は、誰にともなく言う。
「たしか、心を追いつめられたのだとか……」
「ああ、そうだよ」
2人とも中庭を見つめたまま、互いの顔を見ずに会話を続ける。
誰に語りかけているのかも知らずに。
おそらくは三嶋彰子の知り合いなのだろうという予測のもとで話している。
「彼女は傷つくべきではないのにね。結果、彼女は傷ついてしまっている」
彼女を見ているような、それよりもっと向こうを見るような目の草薙医師は、悼むように続ける。
「彼女は夢見がちな少女だよ。人間は死ぬという現実を幼い頃に知っておきながら、それでも人間という夢にすがりついて生きている。彼女を守ってくれる者は誰もいない。彼女は自分から一方的に守ってくれと懇願しているだけで、その実彼女をかばってあげられる人間はいないんだ。誰かが守ってあげるべきなんだよ、彼女は……」
それは昔の友人を思い出すような重さを孕んでいる声だった。
眼鏡の向こう側は淡い光を放っている。
相も変わらず、三嶋彰子は楽しそうだ。時折口元に手を当てて笑っている。彼女らしい上品な笑みだった。
「……あ、ところで君は――おや?」
草薙医師は隣を見る。
と、そこには誰もいない。
先ほどから聞こえていた声の主は、もういないようだった。
「こんなところにいやがって」
いらいらした声を出す札差京斗は、病院の自動販売機の前まで来ていた。彼の目前で悠々とココアを購入している彼を睨みつけている。
ガゴン、購入したココアを一口飲み、真鶴は京斗を振り返る。
「なんだ、欲しかったのか? たかが100円くらい持ってないのかよ。たしかに最近は不景気だからな。さすがにワンコインとまではいかないか。そうかそうか。じゃあ……あいよ、少しだけだぞ」
「ささやかな飲み意地を発揮してくれるのはありがたいんだけどな、だがしかしいらねえよ」
近くに設置されたベンチに、2人とも腰掛ける。
話題は当然、三嶋彰子のことだった。
「真鶴。知っていたのか、三嶋彰子のことを」
ココアをあおる真鶴は目を閉じて、一つ、頷いた。
京斗の言葉に同意を示したのか、それともココアの味に満足しているのか。とにかく、京斗のいらだちは尽きない。彼の感情など汲み取る気配も見せない真鶴は、そうだと短く言った。どうやら前者だったようだ。
「彼女のことなら昨日、綾に聞いた。入院していると言っていたからな」
朴訥と話す彼の言葉。危うく流してしまいそうになったそれを、京斗は強制的に脳内へと反芻させた。
「ちょっと待て。真鶴。お前、まさかそれだけで病院に来たのか? 今回の依頼に彼女が関連している保証などないだろうが」
「そんなことないだろ。お前は今朝『依頼者は私立光奏学園の生徒、高崎慶喜』と、そう言った。
高崎のことは知っていた。いつも隣のクラスから幼馴染を訪ねてくる男だったよ。思い出したのは、三嶋彰子に会った後だったけどな。
幼馴染が入院している状況で、その彼が依頼をしてきた。となると依頼内容は……三嶋彰子に関する事だろうと推測できる。まさかこの俺に、ボディガードが舞い込んでくるとは思ってなかったけどな」
ココアを飲み干す真鶴。
表情も変えぬままに言った彼の横顔を、京斗は唖然として見ていた。
正直、信じられるものではなかった。
暁烏真鶴という少年は、それだけの情報で今の状況に一番適切な行動をとって見せたのだ。
断片が少々重なっているだけだというのに、それをいとも容易く編纂してしまっている。
例えるならば、幾万ものピースで構成されたパズルを、手に取った一つから順に当てはめていくようなもの。
ピースは角を取れるとは限らない。ぴたりと当てはめられる位置だとも限らない。ただ『手に取った』という所縁のみで、判断した位置に置いていく。
合致する確率など万分の一だ。
背景を正確に見通さなければ、配色を正確に見通さなければ一生成し遂げられない。
この少年は依頼の全体像を、微細な情報のみで掴んだのだ。
現実離れした彼の能力に、ただ呆気にとられる京斗だった。
「なんだ、お前。俺は男に見つめられる趣味はないんだがな」
「いや、まあいい。それよりも真鶴、お前、ちゃんと三嶋彰子のことを把握しきれているんだろうな」
「あの女の一生なんて俺は興味ない。ただ……」
小さく言いかける彼に、京斗は首をかしげる。
真鶴の心中にはあることのみが引っ掛かっていた。
「夢と現実とを行き来する、と……。そう言っていたな、三嶋彰子は」
「夢? 行き来?」
意味の捉えきれないことを言う真鶴を不思議そうに見つめる京斗。彼の胸の内ではある言葉が蘇っていた。
今朝方、事務所で告げられた一言――。
「そういえば。彰子はおかしなことを言っていました。たしか……ここが夢なのか現実なのかわからない、って……」
三嶋彰子の幼馴染、高崎慶喜の言葉だった。
「夢想と現実が循環する……ということか」
京斗は顎に手を当てる。
しかし、その思考時間が仇となった。
はっと気付き、京斗は周囲を見渡す。
ベンチには、空になったココアの缶のみが残されていた。