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婚約破棄された日、氷の公爵の妻になりました

作者: 緑山ひびき

R15版です

 エリアナ・アルトリアは、鏡の中の自分と目を合わせて、静かに息を吐いた。


 鏡の中には、亜麻色の髪をきちんと結い上げ、翡翠色の瞳で前を見据える自分がいた。


 三年前に誂えたドレス。素材も仕立ても良い——ただ、いま夜会に集う令嬢たちのきらめきと比べれば、どうしても”昔のもの”に見える。胸元の飾りは控えめで、宝石と呼べるものはもうない。指輪も、ネックレスも、手元に残っていない。


 それでも、姿勢は崩さない。


 アルトリア伯爵家の名は、まだこの国に残っているのだから。


「お嬢様」


 背後から、メイドのマリーが声をかけた。幼い頃から仕えてくれている、数少ない味方。


「馬車の支度が整いました」


「ありがとう、マリー」


 振り返ると、マリーは唇を噛んでいた。言い淀んだ末に、そっと言う。


「……本当に、行かれるのですか」


 エリアナは一瞬、目を伏せた。


 行きたくない。行けば、何かが終わる気がしていた。けれど——それでも。


「婚約者から呼ばれたの。行かない選択肢はないわ」


 婚約者。フェリックス・ブラウン。


 成り上がりの男爵家の嫡男で、金はあるが家格が低い。アルトリア伯爵家の”名”に目をつけた。


 王国建国時から続く名門——その誇りだけが、いまのアルトリア家に残っている。


 父の事業失敗で財産は失われ、残ったのは古い家名と屋敷、そして支払いの期限だけ。


 フェリックスが望んだのは家名。エリアナはそれを知って婚約を受け入れた。家を守るために。


 最近、フェリックスからの文は途絶えていた。そして今日、久しぶりに届いた一通。


『今夜の夜会に来てくれ』


 用件も理由もない。


 それでも——愚かな期待が生まれてしまった。


 婚約者なのだから、助けてくれるのではないか。


 エリアナはその期待を胸に、夜会へ向かった。


 王宮の夜会は、まばゆいほど華やかだった。


 シャンデリアの灯が降り注ぎ、音楽が流れ、笑い声が弾む。ドレスの裾が擦れ、香水の匂いが混ざり合い、宝石が光をはね返す。


 エリアナは、その中心から半歩だけ外れた場所に立った。


 誰も話しかけてこない。視線だけが刺さる。


「あれが、没落した伯爵家の令嬢……」


「お気の毒にね」


 同情の言葉ほど、刃になる。


 エリアナは視線を逸らさず、背筋を伸ばした。慣れている——そう思い込むことで、自分を保った。


 探すのは一人。


 ホールの中央に、フェリックスがいた。


 その隣に、見知らぬ令嬢が立っている。豪奢なドレス。胸元の宝石が燃えるように輝いている。


 嫌な予感が、はっきりと形を持った。


 フェリックスがエリアナに気づき、口元を薄く歪めた。


「来たか、エリアナ」


「お呼びでしたので」


 フェリックスは、わざと周囲を見回した。

 

 貴族たちがこちらを見ている。好奇心と残酷さが混ざった目。


 フェリックスは、その視線を楽しむように声を張った。


「エリアナ。今夜、君に伝えておきたいことがある」


 音楽が、ふっと遠のいた。会場のざわめきが薄まり、視線が集まるのが分かった。


 フェリックスは淡々と告げた。


「君との婚約を、解消する」


 やっぱり。エリアナは動かなかった。手袋の下で指先が小さく震えたが、握り込んで隠した。


「……理由を、伺ってもよろしいでしょうか」


 声が震えないように、言葉を一つずつ選ぶ。


 フェリックスは鼻で笑った。


「君の家は、もう終わりだ。金もない。家名だけでは価値にならない」


 痛いほど分かっていることを、改めて言われる。


 フェリックスは続けた。


「俺は、イザベラ様と婚約することになった」


 隣の令嬢を示す。


「ボーモント伯爵家の令嬢だ。金も家名もある。君とは大違いだ」


 イザベラが、口元に笑みを作った。優雅に、そして露骨に。


「ごめんなさいね、エリアナ様。でも、フェリックス様は私を選んだの。この場にいるみなさまが証人だわ」


 ざわめきが広がる。


「捨てられたのね」


「当然だわ、没落しているんだもの」


「でも、こんな場でなんて……」


 フェリックスが近づき、エリアナにだけ聞こえる声で囁いた。


「彼女はおまえと違って、勿体ぶらずに夜も共にしてくれるしな」


 エリアナの頬がカッと熱くなり、喉が痛くなった。涙がこみ上げて、目が潤む。


 たしかにエリアナは、フェリックスの求めを何度か断った。あまりに性急すぎて心がついていかず、拒むしかなかったのだ。


 それを勿体ぶった、と。悔しい。


 泣けば楽になるのかもしれない。けれど、泣いた瞬間に”見世物”になる。


 エリアナは息を吸い、ゆっくり吐いた。


「……承知いたしました」


 自分でも驚くほど、声は静かだった。


 フェリックスの眉がわずかに上がる。


「泣かないのか?」


 エリアナは、真っ直ぐに見返した。


「泣いても、何も変わりませんので」


 フェリックスの顔に苛立ちが走った。


「君は今、婚約を破棄されたんだぞ。恥ずかしくないのか」


 エリアナは、丁寧に微笑みさえした。


「そのご判断は尊重いたします。ですが——場の選び方は、いささか軽率かと存じます」


 息を呑む音が、いくつも重なる。


 フェリックスの頬が赤くなった。


「……何を」


 エリアナは一礼した。礼節は守る。それが最後の矜持だ。


「ごきげんよう」


 踵を返し、歩き出す。ゆっくりと、堂々と。囁きが背中を追う。


「あの令嬢……崩れなかったな」


「気高い……」


「アルトリア家の血か」


 出口が見えた。その時。


「待て」


 低い声が空気を切った。

 エリアナは足を止め、振り返る。


 そこに立っていた若い男は、夜会の灯を受けて煌めいて見えた。背が高く、肩幅が広い。月光のような銀髪に、切れ長の青い目。視線は冷たく、感情の読めない面差し。


 ——見たことがある。


 遠くから何度か。貴族たちが距離を取る、あの男。


 名が喉の奥に引っかかったまま出てこない。


 男はエリアナを見つめ、短く言った。


「君は折れていない」


 誉め言葉なのか、断定なのか分からない声だった。


 エリアナは眉を寄せた。


「……何のご用でしょう」


 男は一歩だけ近づく。周囲の空気が固くなる。誰もが息を潜めた。


「名を」


「……エリアナ・アルトリアです」


 男は頷いた。


「エリアナだな。覚えた」


 その一言が、なぜか熱を持つ。


「俺の名は、ルシアン・ヴァレンティア」


 男が名乗った瞬間、会場がざわめいた。


「……氷の公爵」

「この方が……」


 エリアナの目が見開かれる。


 辺境を守る戦争の英雄。冷酷無比と噂され、笑わないと言われる男。彼が、こんな場所で、こんなふうに人前へ出ること自体が異様だった。


 ルシアンは、エリアナだけを見て言った。


「俺の妻になれ」


 一瞬、言葉が理解できなかった。


「……は?」


 ざわめきが、遅れて押し寄せる。


 氷の公爵が、公開婚約破棄されたばかりの令嬢に——プロポーズ。


 ルシアンは周囲など見ない。まるで、最初から彼女だけを狙っていたように。


「返事は後でいい」


 言い放った声音は冷たいのに、視線だけが不思議と柔らかかった。


 ルシアンが従者へ命じる。


「馬車を回せ。この令嬢を送る」


「そんな……結構です」


 エリアナが口にした瞬間、ルシアンの目が細くなる。


「断るな」


 命令だ。けれど、突き放す響きではない。——拒めないほど、確かな強さ。


 ルシアンは懐から白いハンカチを取り出した。公爵家の紋章が、控えめに刺繍されている。


「これを持て」


 エリアナの手に、それを握らせる。


「考えがまとまったら、ヴァレンティア公爵邸へ来い。これを見せれば通す」


 エリアナは震える指で、ハンカチを受け取った。


 ルシアンは、エリアナの手の甲に口づけた。

 そして——そのまま、手首へ唇を這わせる。


 エリアナは息を呑んだ。熱い。


 ルシアンは顔を上げ、エリアナを見た。


「待っている」


 エリアナは言葉を失ったまま、導かれるように馬車へ乗せられた。


 窓の外のルシアンは、最後まで視線を外さない。


「無事に帰れ」


 それだけ言って、背を向けた。


 馬車が動き出す。王宮の灯が遠ざかる。


 エリアナは膝の上で、ハンカチを握りしめた。


 手首に残る、唇の感触。


(……何が、起きたの)


 窓越しに聞こえるざわめき。


「氷の公爵が……!」


「求愛の印だ!」


 冷たいはずの夜が、なぜか少しだけ、柔らかかった。




 馬車の中で、エリアナはぼんやりと膝の上を見つめていた。


 白いハンカチ。柔らかな布。公爵家の紋章。

 手首には、口づけの感触がまだ残っている。


(……何が起きたの)


 公開の場で婚約を破棄された、その直後に。

 氷の公爵が、妻になれと言った。


 理由が分からない。


 窓の外で夜の街が流れていく。揺れの少ない馬車。柔らかな座席。

 アルトリア家の古い馬車とは、何もかもが違っていた。


(公爵が、私を……?)


 一目惚れ。

 そう考えて、すぐに否定する。


 ルシアン・ヴァレンティアは冷酷だと聞く。戦争の英雄。感情を見せず、笑わない男。


 そんな人が、なぜ。


 答えが出ないまま、馬車は屋敷へ着いた。



 その夜、エリアナは眠れなかった。


 目を閉じると、夜会の光景がよみがえる。

 フェリックスの冷たい声。イザベラの嘲るような笑い。周囲の囁き。


 そして、低く落ち着いた声。


『俺の妻になれ』


 枕元のハンカチを握りしめる。月明かりに、紋章がはっきりと浮かび上がった。


(なぜ、私を)


 考え続けて、辿り着く答えは一つだった。


(……家名)


 アルトリア家は建国時からの名門だ。没落しても、名だけは残っている。

 結婚すれば、その名が公爵家に入る。


(それで、私を)


 胸の奥が、きしりと鳴った。


 また家名目当て。フェリックスと同じ。


 ただ、公爵には金がある。欲しいのは名だけ。

 そう思うと、逃げ道がなくなる気がした。


 結婚すれば家は守れる。屋敷も、使用人たちも。


 それでも——

 家名のための結婚だと思うと、悲しかった。



 数日後。


 エリアナは決めきれないまま、屋敷で時間を過ごしていた。

 荒れた庭を眺め、父と母の姿を思い出し、息を吐く。


(……行くしかない)


 家を守るため。

 使用人たちを守るため。


 そう決めた、その日の夕方だった。


 門の外で馬の音がした。

 駆け込んできたマリーが息を切らす。


「お嬢様! 公爵様が!」


 窓の外には、公爵家の馬車。

 降り立ったのは、ルシアン・ヴァレンティア本人だった。


 迷いは一瞬だった。


「……案内して」



 応接間は古いが、きちんと整えられていた。


 ルシアンは部屋を見回し、静かに振り返る。


「エリアナ」


 名を呼ばれただけで、背筋が伸びる。


「公爵様。お越しいただき……」


「待ちきれなかった」


 短い言葉。冗談には聞こえない。


「返事を待っていた。来ないから来た」


 逃げ場はない、とエリアナは悟った。


「……その前に、伺いたいことがあります」


「何だ」


「なぜ、私を?」


 一拍置いて、迷いなく答えが返る。


「君の家名が欲しい」


 胸が、静かに痛んだ。


「アルトリア家は建国時からの名門だ。結婚すれば、俺の家の格が上がる」


 理屈は通っている。

 だからこそ、言い返せなかった。


「……承知しました」


 そう言ってから、続ける。


「ただし、条件があります」


「聞こう」


「契約結婚にしてください。一年後、望まれるなら離縁して構いません」


 お互いに干渉しない。

 本当の夫婦である必要はない。


 短い沈黙の後、ルシアンは頷いた。


「……わかった」


 安堵とともに、胸の奥が少しだけ冷えた。


 ルシアンはエリアナの手を取り、手の甲に口づける。


「よろしく頼む、エリアナ」


「……こちらこそ」


 家名のための結婚。それでいいはずなのに、手首の寒さが、妙に気になった。


 ⸻


 ルシアンは屋敷を出た。


 馬車へ向かう直前、執事のセバスチャンが並ぶ。


「公爵様……よろしいのですか。契約結婚など」


「彼女がそう望んだのだ……俺とは、本物の夫婦にはなりたくない、と」


「それは……『家名のため』と仰ったからでは?」


「……元の婚約者を忘れられないのだろう。二人の様子では、深い関係だったように見えた」


 ルシアンの声が、少しだけ沈む。


「矜持のある、凛としたお方だと存じます。公爵様と大変お似合いの」


「俺は、二番目だ」


「公爵様……」


「いい。二番目でも構わない。エリアナの隣にいられるなら」


「ですが、それでは」


「いい。今はこれで。まずは」


 ルシアンはそれ以上何も言わなかった。


 セバスチャンも口をつぐむ。

(戦場ではあれほどお強い方が、初めてお気に召した女性に対してこうまで後手に回られるなど……なんとも不器用でいらっしゃることだ)

 

 ルシアンには、セバスチャンの考えも見えていた。だが、今はどうにもなる気がしない。


(俺はまさか……断られるのを、恐れたのか)

 

 馬車へ乗り込み、窓の外を見る。


 屋敷の窓辺に、エリアナが立っていた。


 ルシアンは一度だけ手を上げる。


 少し遅れて、小さく手が振り返された。


 馬車は動き出す。


 ⸻


 その後、契約は整い、エリアナはヴァレンティア公爵邸へ移った。


 豪奢な屋敷。行き届いた使用人。新しい部屋。

 すべてが整っているのに、どこか落ち着かない。


 ルシアンは変わらず無口で、優しかった。

 視線が合うたび、言葉を交わすたび、胸がざわつく。


(私は、公爵の妻)


 そう言い聞かせるたびに、違う何かが胸に積もっていく。



 数日後、王宮から夜会の招待状が届いた。


 封を切った瞬間、あの夜がよみがえる。


 ルシアンが言う。


「俺と行く」


 有無を言わせない声。


 エリアナは頷いた。


「……はい」


 手を取られ、抱き寄せられる。


「君は、俺の妻だ。誰にも傷つけさせない」


 その言葉が、温かくて、苦しかった。


(……どうして、こんなに)


 答えはまだ、分からなかった。



 

 夜会の日。


 エリアナは鏡の前に立った。


 淡い青のドレス。ルシアンが選んでくれたもので、首元にはサファイアのネックレスが下がっている。


 メイドのアンナが嬉しそうに言う。


「公爵様が、朝からずっと悩んでいらっしゃいました。『エリアナに似合う色は何だ』と」


 胸が温かくなる。けれど、すぐに打ち消した。


(……妻として、大切にしているだけ)


「公爵様の瞳の色に、とてもよく映えますね」


「え……?」


 エリアナが問いかけようとした、その時。ノックの音がして、ルシアンが入ってきた。


 エリアナを見て、一瞬止まる。氷のように澄んだ青い瞳が、彼女を捉えた。


「……美しい」


 エリアナの頬が熱くなる。


 ルシアンは何事もなかったように手を差し出す。


「行こう」

 

 ⸻


 王宮の夜会。


 馬車を降りると、視線が一斉に集まった。囁きが走る。


「氷の公爵の妻に……!?」


 ルシアンが腰に手を添える。


「大丈夫だ」


 二人はホールに入った。


 エリアナはこの場所を覚えていた。ここで婚約破棄された。


 ルシアンが手を握る。


「俺がいる」


 エリアナは頷いた。


 その時——


「エリアナ……!?」


 振り返ると、フェリックスとイザベラが立っていた。


 イザベラが近づいてくる。


「あら、エリアナ様。お久しぶりですわ」


 見下ろすように笑う。


「あなたは、古い家名だけが取り柄ですものね。公爵様も、家名目当てで結婚なさったんでしょう?」


 視線が集まる。エリアナは言葉を失った。胸が痛い。


 その時——ルシアンが一歩前に出た。


「違う」


 冷たい声だった。


 ルシアンはイザベラを見た。


「俺はエリアナが好きで妻にした。家名は関係ない」


 周囲がざわめく。


 ルシアンはエリアナを抱き寄せた。


「俺の妻への侮辱は、俺への侮辱だ」


 イザベラが震える。フェリックスが真っ青になった。


 ルシアンがフェリックスを見て、冷たく言い放つ。


「エリアナとの婚約破棄、礼を言う。貴公が妻にしたこと、忘れないでおこう」


 囁きが波のように広がる。明日には王都中に広がるだろう。


 ルシアンはエリアナへ視線を戻した。


「大丈夫か」


 エリアナは小さく頷いた。


 ルシアンが手を差し出す。


「踊ろう」


 エリアナは導かれるまま、ダンスフロアへ向かった。


 ⸻


 ダンスフロアで、ルシアンが腰に手を添えた。


 踊りながら、ルシアンが言う。


「……あんな男のことは忘れろ」


「え……?」


「おまえが初めての男を忘れられないのはわかる。だが……もう忘れても良いだろう」


「……初めて……って、あの」


「あの男のことを、もう思い出すな」

 

 ルシアンの声が震える。

 

「お前があいつを見る度に、俺は——」


 エリアナの顔が熱くなる。公爵は何かとんでもない誤解をしている。


「あの男とは……何もありませんでした。気持ちも残っていません」


 ルシアンは踊るのをやめ、エリアナの顔を見つめた。

 青い目が驚愕に見開かれている。


「公爵様……」


「ルシアンと呼べ」


 エリアナは繰り返した。


「……ルシアン」


 ルシアンは頷いた。


「帰ろう」


「え……?」


 そのままルシアンはエリアナの手をとって、夜会を後にする。


 ⸻


 馬車の中。


 揺れに合わせて、ランプの灯が淡く揺れていた。


 ルシアンが静かに口を開く。


「今夜、言ったことは本当だ」


 エリアナをまっすぐに見つめて、続ける。


「俺は、お前が好きで妻にした。あの夜、折れずに立っていた君を見て——俺は、君を隣に置きたいと思った」


 ルシアンの青い目がエリアナの翡翠の目をとらえて離さない。

 

「いや、違うな。俺が君の隣にいたいと思った。家名など、どうでもいい」


 エリアナは小さく息を吐いた。


「……ですが、公爵様は、家名が欲しいと」


「違う」


 きっぱりと否定してから、ルシアンは少しだけ視線を落とした。


「家名の話なら、お前は逃げないと思った。……だが、本当は怖かった」

 

 エリアナは目を見開く。

 

「断られるのが、怖かった。だから、逃げ道を塞いだ」


 エリアナの胸が、どくんと鳴った。


「ルシアン……」


「……もう、我慢できない」

 

 ルシアンがエリアナを強く抱きしめた。

 

「離すつもりだった。契約通り、距離を保つつもりだった。でも、無理だ」


 ルシアンが耳元で言う。


「愛している、エリアナ」

 

 エリアナは目を潤ませながら答える。


「……私も、ルシアンが好きです」


 その言葉に、ルシアンの目が見開かれる。


「夜会のあの日から、ずっと……私も、愛しています」


 ルシアンは、エリアナを抱きしめる腕を強くした。


「エリアナ……」


 そして、そっと腕を緩め、エリアナの顔を真っ直ぐに見て言った。


「……お前を幸せにしたい」


「ルシアン……」


 唇に、静かな口づけが落ちる。


 耳元で、低く囁かれた。


「屋敷に着いたら……少し、休もう」


 エリアナは頬を染めて頷いた。


 馬車は夜の道を、静かに走っていった。



 屋敷に戻ると、使用人たちは何も言わず、深く頭を下げた。


 ルシアンはエリアナの腰に手を回したまま、執事に告げる。


「今夜は、もう休め」


 一瞬ののち、皆が心得たように下がっていく。


 静まり返った廊下で、ルシアンはエリアナをエスコートし、部屋へと入った。


 後ろ手で扉を閉めると、ルシアンはエリアナに向かい合った。


「触れていいか」


 ルシアンの手が、エリアナの頬に触れる。震えている。

 

「ずっと、触れたかった。だが、嫌われると思って——」


 エリアナは、自分の鼓動が大きすぎて部屋に響き渡るように思った。

 ルシアンの手の上に、自分の手を重ねる。


「これからは、契約ではない」


 ルシアンは、噛み締めるようにゆっくりと言う。

 

「お前だけを、愛する。本当の、夫婦として」

 

「……私も、あなただけを」


 エリアナの目から、静かに涙がこぼれる。


 ルシアンは、エリアナの涙を指でそっと拭って言う。


「もう一度、キスをしていいか」

 

 エリアナが頷く前に、唇が重なる。

 

「……すまない。待てなかった」


 そのまま、ルシアンは何も言わず、ただ強く抱きしめた。


「もう、離せない」


 その腕の中で、エリアナは幸せに震えながら目を閉じた。



 翌朝。

 

 エリアナは、隣の温もりで目を覚ました。

 

 穏やかな寝顔のルシアンが、すぐそばにある。

 そっと頬に触れると、青い目がゆっくりと開いた。

 

「……エリアナ」

 

 そして、微笑む。

 氷の公爵が滅多に見せることのない、柔らかな笑顔だった。

 

「おはよう」

 

 エリアナも笑みを返す。

 

「おはようございます」

 

 ルシアンは彼女を抱き寄せる。

 

「もう少し、このままでいよう」

 

 エリアナは小さく頷いた。

 ルシアンが、エリアナの髪を指で梳く。

 

「……もう、どこにも行かせない」

 

 低く囁く声が、耳元で震える。

 

「お前は、俺のものだ」

 

 エリアナの頬が熱くなる。

 

「……はい」

 

 ルシアンは、エリアナの額に口づけた。

 

「これから毎朝、こうして目を覚ます」

 

 頬に、唇に、もう一度口づけを落とす。

 

「お前だけを見て、お前だけを愛して——」

 

 ルシアンの腕が、さらに強くエリアナを抱きしめる。

 

「二度と、離さない。いいな」

 

 エリアナは、その腕の中で幸せに震えた。

 

「……私も、離れません」

 

 ルシアンは満足そうに微笑んだ。

 

 朝の光の中で、ふたりは寄り添ったまま、静かな時間を過ごしていた。

 

 

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― 新着の感想 ―
待てなくなるところ、最高です。大好物です。 ありがとうございます。ありがとうございます。 あの、R15版とわざわざ書いていらっしゃるのは、もしかしてまさか、こちらのR18版があったりするのでしょうか?…
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