生きることの意味についての個人的意見
生きることに意味はあるのか?
ない、なんていう偉い人もいるようだがそれは間違いだ。生きていて自死を選択していない以上、「死なない」という意味があるからだ。「死ぬのが怖くて死ねない」というのも大して変わらない。その場合は「死の恐怖を克服するために生きている」という意味がある。今の自分だ。それだけではないが。
僕の人生には悪いことも良いこともたくさんあった。
前者で言えば、交通事故で双子の片割れが死んだ。両親の仲が悪く大学入試のときに離婚した。誕生日に重大交通事故を起こした。酷い鬱病になりオーバードーズで死のうとして妻に捨てられた。鬱のせいで一時期不能になった。FXでそこそこ大きな損失を被った。真剣に交際した女性に何度も裏切られた。
後者で言えば、中学入試も大学入試も最難関校に合格した。今も日本経済をけん引している大企業に就職した。若くして結婚し子供も生まれた。旅行にたくさん行った。国内はほぼ回った。海外はアメリカ中国オーストラリアエジプトロシア欧州モルディブなどに行き美しい風景や遺跡などを見た。たくさんの面白い小説を読んだ。好きな小説はたくさんある。麻雀・ゲームを楽しんだ。ゴルフ、ダイビング、サイクリング、ハイキング、パラグライダーなど色々なスポーツ・アウトドア活動に勤しんだ。鬱になっても仕事で成果を出し昇格した。今は疎遠になってしまったが友人や上司にも恵まれた。美味しいものもたくさん食べた。歳をとってからモテて素敵な女性と付き合った。
つまりサマセットモームが人間の絆で語ったように、オリジナルなペルシャ絨毯を織り上げてきたと自分の人生を前向きに評価している。それなりの歳月を生き、人生の酸いも甘いも存分に堪能し、濃い目の人生だった。
最近は楽しむことができなくなった。金も尽きた。孤独感がきつくなった。気力も体力も勢力も枯れてもきた。これから年老いて若者たちの負担になっていく前に死ぬべきと考えることが増えた。
あとは死の恐怖を乗り越えるだけ、と言いたいところ、なのだが歳をとって若い頃には微塵も抱いていなかった欲求が芽生え、このまま人生を卒業してしまうと死の瞬間まで悔いが残るような気が最近はしている。
具体的に話そう。『マズローの欲求段階説』をご存知だろうか?あれで言う「自己実現の欲求」というやつに今更ながら目覚めてしまったのだ。
なぜなのか?大谷翔平選手のせいだ。と説明するのが一番わかりやすいかもしれない。僕には彼のように若い頃から大きな夢を抱いてその達成に向けて限界まで努力したことがない。やりたいことががなかったし、なるべく苦労しないで楽に生きられればいいとしか考えていなかった。
もう一つの理由は、作られた楽しみを享受することに飽きたことだ。小説、映画、ゲーム、アニメ・マンガ等々。そうしたものを創造し楽しんでもらう側の人間になりたいと思うようになった。
さらには人や社会の役に立ちたいという意識も強くなった。実際に仕事もそういうものを選んでいるしボランティア活動に取り組むようにもなった。若い頃の自分には考えられない。人に認められたい、確固とした自分の居場所が欲しい、といった「自尊と承認の欲求」と「所属と愛の欲求」も強まっているようだ。
今自ら死ななくてもいつか死ぬ時が必ず来る。100%。それならそれまで自分なりの夢を抱き、その実現に向けて最大限の努力をすることが自身の「生きる意味」になり生きる楽しみになる。そんなふうに思えばいい。
生きる意味がないなら自分で作って楽しみながら努力することが生きる意味。異論は認める。これは僕の個人的な現在の結論にすぎないのだから。
なんて、戯言だけど。