5. 背信
「片岡……」
ぼんやりとした視界の中、次第にはっきりしてくる元相棒の顔。
藤井はゆっくりと体を起こした。後頭部がずきずきと痛い。
「大丈夫か」
「ああ……。どうしてここへ?」
不思議に思い藤井が聞くと、片岡は、送られて来た暗号を解析したのだと言った。
「このコンテナは一体何なんだ?」
片岡に言われ、藤井は慌てて周りを見渡す。そして、そこに有った筈のものがすっかり消えている事に気が付いた。
「そんな! ここに! ここにコカインがあったんだ!」
「コカイン……?」
「コカインだ! 五年前、俺たちが移送していた──」
片岡の顔色が変わった。
「俺が来た時にはそんなもの何も……」
消えた──。
藤井は愕然とした。遥香に辿り着けなかっただけでなく、あのコカインすら──。
「何か覚えている事は」
片岡に促され、藤井は記憶をたどった。
後頭部を何かで殴打され、このコンテナで気を失う瞬間。一瞬だが、立ち去る男たちの中に腕に大きな傷が見えた。だが、それだけだ。
自分は泳がされていたのだろうか。だとしたら──。
「片岡……。奴らの目的は金じゃなく、あのコカインじゃないだろうか」
* * *
八月三十一日。十三時。
藤井は絶望の中、片岡の事務所にいた。
タイムリミットまで、あと二十四時間を切っている。
片岡は湿布を買いに行くと言って出て言った。
「どこまで行ったのかな……」
近所にもドラッグストアはあった筈だが、もう一時間以上戻って来ない。片岡は足を引き摺っている。それで健常者に比べて時間が掛っているのだろうか。
片岡の身も心配だったが、藤井は遥香とタイムリミットが気になり落ち着かなかった。
部屋のテレビに電源を入れる。
ワイドショーでは、クレイジー・パワースイッチのシュウジの死を悼むニュースが報道され、先日行われた「デビュー五周年記念」のライブの様子が流れていた。
物販には長いファンの行列が出来ている。遥香が言う通り、このグループはかなりの人気を博していたようだ。
その時。その画面に、信じられない人物が映った。
「片岡……?」
足を引き摺っている。間違いない。
テレビでは、タトゥーシールが人気で、飛ぶように売れていたというナレーションが入っている。
まさか──。
藤井は何とも言えぬ不安に駆られた。
自分を襲った人間に、このタトゥーがあったと言う話はしていたが、グッズを手に入れているなら、遥香の監禁動画を観た時に話が出てもいいはずだ。
藤井は片岡のデスクの引き出しを片っ端から開けた。
「倉庫の……賃貸契約書……?」
日付はつい最近の物である。
確固たる証拠はない。しかし、元刑事の勘が騒いだ。
藤井は契約書をポケットに突っ込むと、事務所を出た。
* * *
八月三十一日。十五時。
その倉庫は、東京の外れの山の中にあった。外壁はプレハブで、あちこちが錆びついており、入り口に見張りらしい男が立っている。
鬱蒼と茂った木々と雑草に身を隠しながら、藤井は倉庫の裏側へと近づいた。
窓から中を除く。
「遥香……」
そこには、縄で括られた娘の姿があった。そして──藤井は奥歯を噛み締めた。
「片岡……」
足を引きずりながら遥香の横へと歩み寄り、何やら話している。遥香はただじっと片岡を睨みつけていた。
すぐにでも中に押し入りたい。遥香を直ぐにここから出してやりたかった。しかし、確認出来るだけでも、片岡を含め敵は三人いる。藤井は断腸の思いで日が暮れるのを待つことにした。
* * *
八月三十一日。十七時。
「人殺し!」
遥香の声に、藤井ははっとして中を覗き込んだ。
「シュウジを殺したの、あんたたちなんでしょ!」
遥香は泣き腫らした目を片岡たちに向けている。どうやら、シュウジの死を知ったようだ。
「遥香ちゃん、彼は残念だったけど、俺たちではないよ」
「うそ!」
「噓じゃないさ。だた、因果応報だったのかな」
そう言うと、片岡は笑った。
俺たちが移送していたコカインを奪ったのが、腕にタトゥーのある男だった。これが本当なら、奪ったのは間違いなくシュウジなのだろう。そしてシュウジはコカインをあのコンテナに隠した。しかし、あのコカインは消えてしまった。まさか、片岡が──。
「でも片岡さん。コカインはどこに行ってしまったんですかね。このままじゃ俺たち、銀星会に……」
片岡にそう話している男の腕を見た藤井は目を見開いた。あのタトゥーがある。恐らくシールであろうが……、あの動画に映っていたのは、シュウジではなくあの男だったのだ。
あのタトゥーが、クレイジー・パワースイッチの物だと気付いた片岡は、あのタトゥーを利用して藤井をシュウジに接近させた。
コカインの在処を調べさせるために。
だが、コカインはまたも忽然と消えてしまった。
となれば、彼らの他にも、あのコカインを狙っていた者がいたという事だ。それがシュウジを殺害し、藤井をコンテナで昏倒させた。
あの、腕に傷のある男──。
「いてッ! このアマ! 蹴りやがった!」
片岡と話していた男は突然憤慨し、遥香の頬を打った。
「遥香──!」
もう、耐えられなかった。
藤井は窓ガラスを突き破ると、中へと突入した。
「藤井……!」
「片岡……」
信じていた。ずっと。なのに、全てが嘘だった。
藤井は怒りに全身を震わせた。
「遥香を開放しろ」
「お父さん!」
遥香がそう叫ぶのと同時に、タトゥーの男が鉄パイプを振り上げた。
「黙れ! ジジイ!」
藤井の耳元を、鉄パイプが掠める。回り込み、男の背中を捉えようとするも、直ぐに横っ腹に二発目が飛んできた。鈍い音が体を伝って脳みそに届く。直感的に、肋骨が折れたと分かった。だが、藤井の身体中を駆け巡るアドレナリンが、その痛みの伝達を阻んだ。
そのまま打ち付けられた鉄パイプを体で受け、引っ掴む。そのまま回転させると、男は堪らず手を離した。その横っ面に回し蹴りを見舞う。男は白目を剥いてその場に倒れた。
「行って下さい」
そう言って片岡を背に庇い、入り口で見張りをしていた男がナイフを出した。藤井は奪い取った鉄パイプを、背後に放り投げる。重たい得物を使うより、素手の方が戦いやすかった。
男は間合いを取っている。藤井はあえて男に近付き追い込んだ。そうすることで、男と遥香の間に距離が出来る。
突如、じりじりと藤井との距離を図っていた男の手が伸びた。真一文字に空を切る音と遥香の悲鳴が重なり、額にチリリと焼くような痛みが走る。
「どうした、オッサン……。かかって来いよ!」
つっと垂れて来る血に、視界を奪われる。藤井は目をしばたたかせた。
「こねえならこっちから行くぞ!」
「お父さんッ!」
倉庫内に轟音が響いた。
藤井はシャツの袖で目元の血を拭い、顔を上げる。
舞い上がる砂埃。目の前には、倉庫に突っ込んで来たスカイライン。そこから、銃を構えた桑田が下りて来た。
「──待たせたな。藤井」
* * *
「もっと早くに連絡してくれりゃ良かったのに」
桑田はそう言うと眉尻を下げた。
藤井はこの倉庫に辿り着き、遥香の姿を確認した時に桑田に連絡を入れていた。
「片岡は……」
「手配をかけてる」
「そうか……」
隣の救急車では、遥香が手当てを受けていた。擦過傷程度で、大した怪我はないようだ。
「とにかく、よく話してくれたな」
桑田は藤井の肩をポンと叩くと、あとは警察に任せておけと、いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ああ、コカインの件も……」
「おう。じゃあな」
そう言うと桑田はジャケットを肩にかけ、後ろ手に手を振った。
その時、藤井はその腕に大きな傷があるのを見た──。