4. 暗号
八月三十日。十六時四十分。
「はい……」
見慣れない番号を不審に思いながら応答すると、暫しの無言の後、小さく「コウです」と、発信者は名乗った。
「コウ……」
藤井の脳裏に、指先を震わせる、黒髪の青年が浮かんだ。クレイジー・パワースイッチのコウだ──。
「コウ! 大変だ。君のバンドの──」
「……知ってます。さっき知りました。こっちも大騒ぎになってて──。それより……」
コウは更に声を潜めた。自分のバンドメンバーの死よりも大事な事などあるのだろうかと思ったが、余程大事な要件なのだろうと、藤井は良く聞こえるように人込みから離れた。
「なんだ? 何かあったのか」
「ちょっと気になる事があって……。ひょっとしたら、その、娘さんの事件にも関係していたらと……。でも俺、みんなの前で言えなくて」
すみませんと謝るコウの声は、ますます消え入りそうだ。藤井は「有難う」と礼を言い、先を促した。
「実は最近、シュウジの様子が変だったんです」
コウとシュウジは、子供の頃からの付き合いだという。それもあり、コウは、ここ最近のシュウジの不穏な様子に気が付いた。
「口には出さなかったけど、やたらとまわりを気にしたり、びくびくしてた。あれ程不穏な様子を見せるのは五年前……」
「五年前?」
スマホの向こうで、小さく肯定するコウの声が聞こえた。しかし、その時もシュウジは何も言わず、原因は分からずじまいなのだと、溜息まじりに言った。
「でも──、一週間くらい前に、シュウジが俺にメモを渡してきたんだ」
「メモ?」
* * *
「コウ。これ、預かっててくれないか」
つい一週間前に行われたライブをのあと、新宿の焼き肉屋でメンバーとマネージャーの松田で打ち上げという名の食事を摂っていた時の事だ。突然、シュウジは周りを気にしながら、財布の中から、小さく折りたたんだ一枚の紙きれを出した。
「なにこれ?」
「……宝物の隠し場所」
「宝物?」
シュウジは「ドラッグ」でも手にしているかのように、周りをきょろきょろと見回しながら、そっとコウへと差し出した。そして──。
「コウ。もし、俺に何かあったら──。いや、なんでもない。とにかく持っててくれ」
妙だとは思ったが、その時のシュウジの目が真剣そのもので、コウは断ることも出来ず、メモを受け取った。
* * *
「それを、君は今持っているのか」
「うん」
コウは、それが楽譜なのだと言った。しかし、あまりに短く、一小節半くらいのものが上下にふたつ並んでいるだけだという。
「正直、意味が分からない。だけど、シュウジが誘拐に関わってるとかって聞いて怖くなって……。ひょっとしたら、シュウジの言う宝物って、アンタの娘かもしれない。しかも──」
──もし、俺に何かあったら。
ぐっとコウの喉が鳴る。その後に聞こえて来たのは嗚咽だった。
藤井は、コウにそのメモの写真を送ってもらった。確かにそれは楽譜のように見える。というより、藤井にはそうとしか見えなかった。
上の段にはN、下の段にはE。そして、それぞれの五線譜に音符が書かれている。
N:ミ ソ ミ シ ミ (休符) ソ
E:ド ミ レ ファ ソ ミ ド ソ
藤井は頭をひねった。
「なんだろう。暗号かな……」
すると急にコウの電話口が慌ただしくなる。どうやらマスコミを避けるために、これから事務所に缶詰めになるらしい。
「なんとか俺も調べてみます。何か分かったらまた」
そう言うと、コウは慌ただしく通話を切った。藤井も、メールを片岡に転送し、解析を依頼する。
「頼む──。探偵の底力を見せてくれ──!」
ふと背後を見れば、マンションの前は未だに人でごった返している。藤井はその中に、桑田の姿を見つけた。
「桑田!」
思わず声を掛ける。桑田は驚いて振り返ったが、人垣の後ろに藤井の姿を見つけると、人波をかき分けてこちらへとやって来た。
「藤井! 今朝ぶりだな」
桑田はそう言うと、あの悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「なんか、大変なことになってるな」
「あ~。有名人らしいからな」
「桑田がいるって事は、薬絡みなのか?」
「いや? 俺は通りがかりの刑事だ。お前こそ何でここにいる」
──警察に届ければ、即刻、娘は母親の元へ行くことになる。
「あ、いや……。俺も、通りすがりだ」
それだけ言うと、藤井は怪訝な表情の桑田と別れた。
* * *
八月三十日。二十時。
未だ蒸し暑い公園のベンチに腰を下ろし、藤井は焦燥感に駆られていた。
つい今しがた、遥香の写真と共に、また犯人から「残り三十九時間」とだけ書かれたメッセージが届いた。
分かっている。でもどうしたらいいのだろう。一体何が起こっているのか。
藤井はスマホの写真フォルダを開いた。
恵理子と遥香の写真がいくつも並ぶ。その中に異質な写真があった。今朝取った、クレイジー・パワースイッチのトラックの写真だ。
藤井はその写真を拡大してみた。テレビ局で見た、メンバー。そして腕にタトゥーのあるこの男──。
「ん?」
ふと、違和感を感じた。何かが違う。
気になって、動画を再生した。片岡気付いた、窓も拡大する。
「ない──。別人だ──」
その時、手の中のスマホが着信を告げた。
「コウ!」
藤井は応答するなり、呼びかけた。
「シュウジには、腕のタトゥーの傍に、黒子があるのか!」
「そうだけど……それより、暗号が解けたんだ!」
そう言うと、コウはあの暗号は緯度経度をドレミに置き換えたものではないかと、興奮気味に言った。
1 → ド
2 → レ
3 → ミ
4 → ファ
5 → ソ
6 → ラ
7 → シ
8 → ド (高いド)
9 → レ (高いレ)
0 → 休符
それらを楽譜に当てはめると、「N:3537305」、「E:139453135」となり、それぞれを緯度経度に当てはめると──。
「品川コンテナ埠頭の、特定のコンテナを示したんだ。地図を送る!」
藤井は既に走り出していた。
タクシーを捕まえ、品川コンテナ埠頭へと向かう。目当てのコンテナは、易々と見つかった。
しかし──。
「クソ! 鍵が──」
そこにはチェーンが掛けられており、頑丈なナンバー錠が付いていた。四桁とはいえ、組み合わせは一万通りにもなる。
「何か、シュウジにとって特別なもの──」
藤井はハッとして、クレイジー・パワースイッチのトラックの写真を開いた。
そこに書いてあるのは、「結成五周年記念アルバム」の文字。そしてそれは──。
「九月一日……。〇九〇一!」
カチャリとロックが外れ、藤井はコンテナの扉を開いた。
ぷんと漂う、錆の臭い。それを吸い込みながら、藤井は呆然と立ち尽くした。
そこに有ったのは娘の姿ではなく、大量のコカインだった。
「これは──」
スマホのライトを点け、白い粉の山を検め、見覚えのある認識番号に藤井は愕然とした。
そこに有ったのは、藤井が五年前に移送していたあのコカインだったからだ。
「なんでこれがここ──ッ!」
後頭部に走る強烈な痛み──。藤井はその場に崩れ落ちた。