2. 相棒
八月三十日。十一時半。
藤井が駆け込んだのは、ひび割れだらけのビルの一室にある探偵事務所だった。
黴臭く、がらんとした室内にあるのは、スチールの机とノートパソコン。そして、穴だらけのソファー。生温い扇風機の風を受けながら、そこで横になっていた部屋の主は、突然の訪問者に驚いて飛び起きた。
「片岡……! 助けてくれ! 頼む……!」
汗でシャツを濡らし、肩で息をしながら、絞り出すように発した声。片岡は、僅かに左足を引きずりながら、憔悴しきった元相棒に歩み寄った。
* * *
「すまん……」
片岡から渡されたミネラルウォーターを握りしめ、藤井は頭を下げた。謝ることが多すぎて、一体何に謝っているのか、自分でもよく分からない。
藤井は、片岡の左足に目をやった。
あのコカインを強奪された時、片岡は犯人に何度も刺された上に、左の膝蓋骨という、いわゆる膝の皿を叩き割られ、アキレス腱を切断された。その怪我が原因で、片岡は刑事生命を絶たれたといっていい。
自分のせいで──。そう思うと、藤井は片岡に顔向けできず、これまで顔を合わすどころか、連絡すら取らずに来た。
この町で探偵をやっているというのも、風の噂に聞いたに過ぎない。
片岡の眼鏡のレンズは鈍く光り、その奥の表情は読めない。しかし、連絡のひとつもせずにここまで来て、急に現れたと思ったら「助けてくれ」とは、随分と勝手な奴だと思っているはずだ。
やはり、片岡を頼ってはいけなかったのかもしれない。藤井は肩を落とした。
「もう一度、見せてくれ」
藤井は驚いて顔を上げた。
「いい……のか?」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう。しっかりしろよ!」
そう言って藤井の背中を叩く。バカだなと言わんばかりのその顔は、昔となにひとつ変わってはいなかった。
* * *
八月三十日。十二時四十五分。
一時間──。いや、一時間と十五分。片岡は繰り返し動画を見て、そして黙々とスチール机の上に置かれたノートパソコンを操っていた。
その時間、藤井は落ち着かなかった。残された時間は、もう四十八時間を切っている。秒針の音が、まるで爆弾のカウントダウンのように耳の奥で鳴っていた──。
その焦りに気付いたのか、片岡がパソコンのキーを叩きながら話しかけてきた。
「遥香ちゃん、いくつになった?」
「……十六」
口を動かすのも億劫だったのに、いつのまにか藤井は、今日が誕生日で、妻にそっくりに育ったことなどを話していた。促されるままに話しているうちに、そういえば片岡は尋問が上手かったななどと考える。
「──そういうことか」
ため息交じりに言うと、片岡は椅子の背に体を預けた。
「なんだ? 何が分かった?」
片岡は、忌々し気に「コカインだ」と言った。
「コカイン……?」
「俺たちから盗んでいった、コカインだよ」
藤井はポカンと口を開けたまま、思考が止まったように立ち尽くした。それが一体何の関係があるのか。大体なぜ今なのか──。あれから五年以上たっているのだ。
意味が分からないと頭をかく藤井に、片岡はパソコンを向けた。ポータルサイトのニュース記事。その見出しに「銀星会の坂井、出所」とあった。坂井は、藤井たちが麻薬取締法違反で摘発した男だ。
「坂井と、その腹心たちの復讐が始まったのかもしれない。──藤井!」
突然、足元が崩れたような感覚に、藤井は思わずその場で膝をついた。最後に見た、坂井の憎々し気な目が思い起こされる。
「クソ!」
藤井は何度も拳を床に打ち付けた。自分のせいで、大事な娘が命の危機に晒されている。そう思うとやり切れなかった。直接自分を狙えばいいではないか。何故──、何故遥香を──!
「しっかりしろ!」
そう言うと、片岡は藤井の前に、遥香の動画を差し出した。
「見ろ!」
「やめてくれ!」
「いいから!」
片岡は動画を一時停止すると、拡大した。それも、なぜか遥香の頭上の窓ガラスをだ。
「……思い出したんだよ、こいつを」
一体何のことか分からず、しかしその答えを探そうと、藤井は画面を死にもの狂いで観察し、そして、「あっ」と声を上げた。
窓には、ぼんやりとだが、男の腕が映り込んでいた。そして、その腕には刺青と思われるものがある。
藤井はそれに覚えがあった。
* * *
「当たったー! 見て見て、お父さん!」
ちょうど一週間ほど前の事だ。学校から帰るなり、遥香はスマホを掲げて台所に駆け込んできた。夕飯の支度をしていた藤井は、何事かと目をぱちくりさせる。
「ほら、クレイジー・パワースイッチのライブ! 今回、結成五周年の記念ライブで、めっちゃ倍率高かったんだから」
「なんだ、あの電源マークか」
藤井はキャベツを刻みながら眉尻を下げた。宝くじでも当たったのかと思えば、ライブのチケットとは。
「ああもう、最高! 今日はお祝いだー!」
遥香は、跳ねるように藤井の周りを飛び跳ねて喜んだ。こんなに嬉しそうな顔は、恵理子が亡くなって以来初めてだった。
「よし、じゃあお祝いに、遥香には特別にピーマンをひとつ追加してやろう」
「えーッ? それ罰ゲームじゃん!」
そう言いながらも、遥香は満面の笑みを浮かべていた。なにせ、クレイジー・パワースイッチは、遥香が夢中になっているロックバンドだ。遥香の部屋の壁には、彼らのポスターが隙間なく貼られており、あのバンドの名前を口にするたび、娘は目を輝かせた。
そして、特別な秘密を知っているかのように、得意げに遥香が語っていたのが、丸に棒が刺さったかのような電源マークの下に「Crazy」の文字が入ったロゴだ。クレイジー・パワースイッチのメンバーは、体のどこかしらにその刺青が入っているという──。
* * *
「なんでこれが……」
藤井は唇を戦慄かせた。あのバンドの刺青と同じものが、窓に映り込んでいる──!
「藤井も知ってるのか」
「ああ。遥香の好きなバンドのマークだ。俺もポスターで何度も見たことがある。腕に、これを入れている奴がいた」
必ずしも本人とは言えないかもしれない。ひょっとしたら、ファンが真似ている可能性もある。
「なるほど……。実は、俺もこれを見たことがある」
「片岡も……?」
片岡は、足を引きずりながらソファーに向かうと、静かに腰を落とし、膝に手を置いた。
「あいつの腕にも、同じものがあったよ。俺の脚をこんな風にした──」
藤井の脳裏に、覆面パトカーの横で、血まみれになって倒れていた片岡がフラッシュバックした。ずきりと、胸が痛い。本当は「大丈夫か」と声を掛けたかった。だが、自分のせいだと思うと、かえって何も言えなくなった。
しかし、それとは別に、なにか喉の奥に詰まったような、ボタンを掛け違えたような、奇妙な引っ掛かりがある。これはなんだろう。そう、何かがおかしい。
藤井の釈然としない様子に、片岡は「何か気になることでもあるのか」と眉を顰める。
藤井は、考えを整理しながら口に出してみた。
「ええっと……。そいつがそこにいるってことは、銀星会の人間なんだよな? しかも、片岡に暴行をして……、コカインを盗んだ奴だ。そうだ。だったら……だったら、コカインはあの時点で銀星会の所に戻っているんじゃないのか? こんな事する必要がどこに──」
「でも、坂井はぶち込まれた」
確かにそうだ。しかし、あのコカインは時価一億円と言われていた。それが戻ってくるのなら、五年やそこら、臭い飯を食ったところで、安いのではないだろうか。そんな考えを片岡に話すと、片岡は頷くも、「だが」と言葉を継いだ。
「こいつが、銀星会を裏切っていたとしたら?」
「えっ?」
「藤井。たった五年でそんなことも忘れたのか」
片岡が放った一言は、拳で胸を殴られたような衝撃だった。自ら刑事を辞めた癖に、未だに刑事だった頃のプライドが捨て切れていない自分に気付いたせいだ。
「こんな話、ごまんとあったろう。俺たちが現役の刑事だった頃も、そんなの日常茶飯事だった。ひょっとしたら、デビューを餌に、どこかの組がこの男を使ったのかもしれない。そう考えると、筋は通る」
なるほど。坂井の手元にコカインは戻らず、ワッパをかけた俺たちへの恨みにまみれているに違いない。
「いいか。残された時間は長くない。闇雲に走ったって駄目だ。先ずはこいつを調べるんだ。ひょっとしたら、繋がりがあるかもしれない」
「分かった」
藤井は力強く頷いた。
遥香救出の光が見えた気がした。