1. 序開
八月三十日。午前九時。
朝から蒸し暑く、据えた臭いがこもった狭いロッカールームで、警備員の藤井誠は、眠い目をこすりながら制服を脱いだ。
通称「ニィヨン勤務」と言われる二十四時間勤務の後は、制服から「ぷん」と臭う加齢臭に、我ながら顔をしかめずにはいられない。
「四十も半ばとなりゃあ、当然か……」
藤井はそう独り言ち、紙袋に制服を突っ込むと、ロッカーの扉を閉めた。
「おつカレーライスゥ~!」
背後から掛けられた声に、藤井は思わず首を竦めた。この無駄に元気な声、面白くない冗談は、同僚の渋谷だ。藤井は苦笑しつつ振り返った。
「おつかれ、渋さん」
「おつかれ、おつカレー! 藤井さん、今日は随分と急ぐじゃない」
渋谷は制服の帽子を脱ぐと、薄くなった頭を撫でつけた。同時期の入社のため、一応同期ではあるが、渋谷は今年で六十五だ。とはいえ、この警備会社は定年が七十五歳。引退にはまだ十年もある。
「実は今日、娘の誕生日なんですよ。色々と準備しないと。シャワーも浴びたいし」
「……藤井さん、四十五だっけ? 奥さん亡くなって、結構経つんだろ?」
「五年……ですね」
そう言うと、藤井は「ははは」と、小さく笑った。
妻の恵理子が白血病で亡くなって五年。娘の遥香は、今日で十六歳になった。本来なら難しい年ごろであるはずだが、すすんで家事を手伝ってくれるし、冴えない父親の世話も焼いてくれる。おかげで、こんな不規則な仕事に就いてもやってこれた。
「しかしねえ、五年でしょ?」
渋谷が眉尻を下げる。これは早々に退散した方がよさそうだ。渋谷がこの顔をすると、次に何を言うかなど想像がつく。
「藤井さんさあ、そろそろ、再婚してもいいんじゃないの? お見合いとかさあ。最近は中年の婚活サイトってモンもあるんでしょ?」
ほらきた。
まだ五年。たった五年だというのに、周囲は何かと再婚を勧めてくる。藤井は、ため息をつきながら曖昧に笑って見せると、手早く荷物をまとめた。
「それじゃ、急ぎますんで。また!」
「え? ああ、おつカレー!」
* * *
同日。午前十時。
外は今日も晴天で、勤務明けの、脂の浮いた顔をじりじりと焼く。
夏休みとあって人通りも多く、車道を人気バンドのラッピングカーが通った時には、耳を塞ぎたくなるほどの黄色い声が上がった。確か、娘の遥香もあのバンドに執心していた気がする。
藤井はトラックに張り付けられた、バンドメンバーの写真をスマホに収めると、小走りで商店街のアーケードの下へと入った。続々と開店し始めた店から漏れるエアコンの冷気が、ほてった体に心地よい。
この商店街の中には、遥香気に入りのケーキ屋がある。恵理子がまだ元気だったころから、遥香の誕生日はもちろん、何か良いことがあると、その店でケーキやデザートを買った。言わば思い出の味のひとつだ。
「白桃とイチジクのアールグレイタルトか……」
藤井は店の前の立て看板をまじまじと見た。紅茶を混ぜ込んだタルト台に、さっぱりとしたヨーグルトをベースとしたクリーム。そしてその上に、今が旬の白桃とイチジクが乗っていた。
「期間限定か……。美味そうだな」
不思議とこの季節はケーキを欲しなくなる。おかげで毎年遥香の誕生日ケーキには悩まされた。だが、こんなタルトなら──。
その時、藤井は背後に人の気配を感じた。タルトの写真を見ながらも、自分へ伸びて来る男の手を感じ取る。
その瞬間、商店街の全ての音が消え、背中がキンと氷を当てられたように冷たく冷えた。
「うわっ!」
突然手を掴まれ、男が声を上げた。藤井は、するりと男の背後に回り込んで腕を捩じり上げる。そして、さらに膝を後ろから蹴り、地面に押し付け拘束した。その一連の動きは、まるで踊っているかのようだ。
「いてててて! おい、藤井! 痛えよ!」
「えっ──?」
自分の下敷きになっている男の声に、我に返った藤井は慌てて飛びのいた。
「ってえ~」
男はよろよろと立ち上がると、肩を押さえて唸っている。その顔を見て、藤井は言葉を失った。
「いや、さすが、逮捕術大会で何度も優勝しただけあるな~」
昔と変わらない、暴力団のような風貌に悪戯っぽい笑顔。警視庁・組織犯罪対策部薬物銃器対策課時代の同僚、桑田である。
「桑田……! す、すまん!」
「いや、急に背後から行った俺が悪かった。しかし、元気そうで安心したよ。腕も鈍ってねえ」
桑田は麻のスーツに付いた砂を払うと、豪快に笑う。そして、ふと、顔を引き締め言った。
「藤井──。戻って来ないか?」
その言葉に、心臓がひときわ強く脈打った。忘れたつもりの記憶が、浅く沈んでいた泥のように、静かに浮かび上がってくる──。
それは、恵理子が亡くなる半年前に起きた、証拠品紛失事件──。
組対の刑事として、長い捜査の末に、暴力団・銀星会から押収した大量のコカインを、藤井は本庁に移送する途中で紛失した。いや、強奪されたのだ。
恵理子が搬送されたという連絡に慌て、思わず車両を離れた。その一瞬の出来事だった。
その時、一緒に移送していた相棒は襲われ、一命を取りとめたものの、刑事を続けることが出来なくなった。
自分の身勝手のせいだ。
「藤井。あれは、お前のせいじゃないと俺は思うぞ? 組対の連中だって──」
「いや、いいんだ」
藤井はかぶりを振ると、タルトの立て看板に視線を移した。刑事であり続ける桑田を見るのが辛かった。
「……そうか」
桑田は小さく息をつくと、藤井の二の腕を軽く叩いた。
「戻って来たくなったら、いつでも言えよ。相談に乗る」
警察に戻る──。そんな日は、決して来ないだろう。しかし、藤井はいつの間にか身についた曖昧な笑い顔を浮かべると、桑田に礼を言った。
* * *
桑田を見送り、店に入る。ケーキは、先程の立て看板の「白桃とイチジクのアールグレイタルト」にした。誕生日用だというと、店員が、「はるかちゃん、おたんじょうびおめでとう!」と書いた板チョコを乗せてくれたが、洒落たタルトが、急に子供の誕生会の装いを纏ったようで、藤井は思わず苦笑した。
それでも、不思議と久しぶりにわくわくした気持ちになる。先ほどの、モヤモヤした気分も、どこかへ行ってしまった。
「お気をつけて」
背中に店員の声を聞きながら、藤井は店を出た。商店街を早歩きで進む。保冷剤を入れて貰ったが、早く冷蔵庫に入れたかった。
「──ん?」
尻ポケットをくすぐるように、スマホが鳴った。ラインの着信音だ。藤井は、制服の入った紙袋を地面に置くと、スマホを抜いた。通知には遥香の名前で二件連投されており、表示された文言には「動画を送信しました」とある。遥香が動画を送ってくるとは珍しい。
「一体なん──」
ぐしゃりと、藤井の足元に、買ったばかりのタルトが落ちた──。
ヨーグルトクリームが靴の先を汚し、周囲に飛び出した白桃とイチジクが転がった。
それでも藤井の目は、スマホの画面にくぎ付けとなったままだ。
──九月一日、午前十一時までに、指定の口座に一億円を振り込め。さもなくば、娘の命はない。
遥香のアカウントで送られて来たメッセージにはそう書かれており、添付された動画には、拘束された遥香の姿が映っていた。
『お父さん! お父さんッ!』
髪を掴まれ、無理やりカメラに向けられた遥香は、ただひたすらに震える声で叫んでいる。相当泣いたのか、目の周りは真っ赤になっていた。
「は……、遥香……!」
なにがなんだか分からなかった。何故、しがない警備員の自分の娘が誘拐されているのか。
何故、一億円もの大金を要求されているのか──。
「どうすればいい──」
──戻って来ないか?
脳裏に、桑田の声が蘇った。
「そうだ、桑田に──」
確か、スマホには、桑田の電話番号が残っていたはずだ。
しかし、そんな藤井を見透かすかのように、メッセージが届いた。
──警察に届ければ、即刻、娘は母親の元へ行くことになる。
「そんな……」
時計を確認する。時刻は十時四十五分。タイムリミットまで約四十八時間。
一億円など、用意出来るはずもない。しかし──。
藤井は、繰り返し再生される娘の姿に、突然日常を奪われた事実を突きつけられ、奥歯を噛みしめた。
「遥香……。待ってろ……!」
警察を頼れないなら──。
藤井は、スマホを握りしめると駆けだした。