記憶の底
「私はJの妻ですが…」
20年も前のことだ
その当時かまこはクリーニング店の受付をしていて、結婚を考えていた彼がいた。
お互い仕事で忙しくてあまり会えていなかった。
かまこは仕事が好きなほうだったし、彼は自営業だったから、
忙しくて会えないというのは、普通だった。何も疑問を抱かなかった。
ただ、彼の来ているワイシャツの袖口はいつもきれいにアイロンがかけられていたから
ほかに女がいるような気がしていた。
まさか既婚者だとは思いもしなかった。
イケメンでもないし、歳も若くなかった。
ただ、誠実な言動だったから勝手に誠実な人だと思い込んで惹かれた。
「彼にはほかにも沢山女がいるのよ。」
約束をすっぽかす事が多くなった彼に電話をかけたのだが、
携帯に奥さんが出て、かまこの頭はパニックになっていた。
彼を信じるなら、彼に確認をとってから考えるだろうが、
腑に落ちたのだ。
そういう事か。
でも、その一方でかまこの右脳はお花畑だったから、ショックの方が大きい。
「あなたはこれからどうするの?」
奥さんは冷静な声でかまこに問いかける。
不倫は罪だ。
「私は結婚しているなんて知りませんでした。もう会うのはやめます。」
震える声で答えた。精一杯だった。
「そう。」
それ以上の話にはならなかった。
電話を切った後
魂が抜けたようになったのを覚えている。
その後3日ほど体が動かなくなった。
かまこは布団から天井だけを見つめながら
いくら若くても死ぬときは死ぬ。
もっと、やりたいことをやっておけば良かった。
旅行とか行きたかった。
見たこともない事、感じた事も体験したこともないこと、もっとしたかった。
そんなことを思った。
20年経った今と状況が似ている気もする。
その後、かまこはクリーニング会社を辞めて派遣で働きながらやりたいことをし始めたのだが、
何かにとり憑かれたように休みなしで働くか思いっきり遊ぶかになっていった。
ひとりになると彼を思い出してしまうし、どうにもならない現実と騙された自分が情けなくて仕方なかった。
ピーピーピー⋯
スマホのアラームの音はいまだに耳になじまない。
その音とは裏腹にスッキリと目が開いた。
あれ?
かまこは起き上がると身体が軽くなっている事に気がついた。
腰も何もなかったように痛くない。
あれ?
痛みがなくなると些細な心の引っかかりなどどうでもよくなってしまう。
沢山の女性では満足出来ない人なんて
心が貧しいだけの可哀想な人
あんな男に騙されただけでは私は減ることはない。
そう思っていつも立ち上がってきた。
あんな上司の価値観に翻弄されて自分を否定する必要などどうやってもありえない。
そう思ってこれからも立ち上がっていくんだろう。
軽やかに布団をたたみ家事をはじめた。




