第四章 香雨 2
バスの時刻表を眺めるハルさんが「けっこう待つんだね……。よかったら、私の家に来ない?」と、振り返りながら問いかけてくれた。
今日はハルさんが一緒にいたけど、雨の日はバスの時間を迎えるまで、スーパーの中をナメクジのように緩歩している。
誰かに塩をかけられるわけでもなく、商品のパッケージを見て時間を潰していた。
「えっと……め、迷惑じゃないかな……」
「そんなことないよ。嫌だったら、誘わないよ」
「――うん。じゃあ……」と言ってから、ハルさんの後ろをついて、水溜りの歩道に歩みを進めていく。
目的地には、数分で着いて「ここだよ」と声がしてから傘を後方に向ける。
大きな一軒家が存在感を醸し出していた。
重厚さが感じられる建物だけど、色合いが綺麗で新しい感じの家。
門扉を開けると、玄関に続く石畳のアプローチと整えられた庭園が裕福という言葉を表していた。
雨に打たれている樹木も手入れがされていて、潤いは緑の宴を盛り上げている。
「今、誰も家にいないから、気にしないで大丈夫だよ」と、玄関を開けたハルさんが気遣ってくれた。
「お邪魔します……」
室内に入ると、広い玄関に掃除の行き届いた三和土があって、眼前には広い階段がそびえている。
靴を揃えていると「私の部屋、二階だから」と階段を上がっていくハルさんの背中を追いかけていく。
外観から判断できたように、一階も二階も豪邸と呼ぶに相応しい空間を持ち合わせている。
案内された長い廊下の角がハルさんの部屋だった。
部屋は白と黒を基調とした、大人のような雰囲気に魅力があって調度品も高級感に溢れている。
部屋の広さに驚いたけど、扉から見て右端に真黒い塊が鎮座していた。
その正体はピアノだ。
「ちょっと……適当に座っていて。飲み物でも持ってくるよ」と、ハルさんは鞄を置いて階下へ去っていった。
ピアノの隣に設置された棚に目を向けると、クラッシック関連の楽譜などが丁寧に収められている。
ピアノ……クラッシック音楽をやっているのかな。
クラッシックは、再現の芸術と聞いたことがある。
もちろん、それだけではないんだろうけど。
ピアノに近づくと、塵一つない黒光りした楽器が、音を出せと言っているようにも思える。
私は弾けないから、楽譜の題名だけを眺めていた。
モーツァルト、バッハ、ベートーヴェン、ショパンなど、音楽の授業で習ったことのある名前しかわからない。
小学校の頃、彼らの肖像画が音楽室にあったけど、みんな怖い顔をしていて、私は目を合わせることを避けていた。
「――おまたせ。あ……座っていてよかったのに。はい、麦茶」
透明のグラスに氷が入って、よく冷えた麦茶を渡された。
お盆の上には、もう一つの麦茶と先程のスーパーで購入したぶどうが水滴を纏いながら横たわっていて、綺麗なガラステーブルへと置かれた。
「……ありがとう。ピアノ……弾いてるの?」
「うん。小さい頃からね」
「あの……聞いてみたい……な」
「えー、どうしよう……」
「あっ……ごめん。無理に……じゃなくて」
「――冗談、冗談。聴いてくれる人に弾いてと言われたら断る理由がないよ。一応、ピアニストの端くれだから」




