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参、湯気の音

お盆に一話くらい上げたかった⋯⋯


(ささら)君、君も風呂屋か?」


 木桶と手拭いを抱えて歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り向けば、兎耳山(とみやま)家で所有するアパートの住人、牛山芳一(ほういち)が珍しく着流し姿で立っていた。その腕には簓同様、木桶が抱えられている。


「そうです。牛山さんもですか?」

「ああ、良かったら一緒に行こう」


 牛山はこの町に似合わない、長身の美男子だ。常にスーツを着た真面目な人で、新聞社に勤めている。何を隠そう卒業後の口入れをしてくれたのもこの人で、まだ二十を過ぎたばかりだと云うのに社のエリィト街道をまっしぐらな人物だった。

 だからこそ、牛山がこの明るい時間帯に風呂屋に行くだなんて、簓は少し信じられなかった。


「お仕事の方は、今日は良いのですか?」

「ああ⋯⋯うん。少し詰まっていて⋯⋯早く帰して貰ったのだ」


 珍しく歯切れの悪い牛山に、簓は納得した。牛山の事情が聞こえてしまったからである。牛山は隠しているつもりだが、簓はこの耳の所為で牛山の事情なんて丸聞こえなのだ。


「⋯⋯別に、牛山さんの責任じゃないのに」

「何か言ったかい?」

「いいえ、何でもありません」


 簓は素知らぬ顔をして、牛山の袖を引っ張った。早く行かねば、風呂屋の洗い場が埋まってしまうかもしれないからだ。






 ところが、風呂屋の煙突が近付くにつれ、簓は回れ右して帰りたくなってしまった。だって、何だかざわざわと()()()()のだ。無視したくても、厭に気になって耳にこびり付く。


「どうかしたのか?顔色が悪いけれど⋯⋯」


 そんな歩みの遅くなった簓を気遣い、牛山が振り返って尋ねた。


「具合が悪いのなら家に帰ろう。そんな状態で風呂に入ったら、倒れてしまうかもしれない」

「だ⋯⋯大丈夫ですよ。それにぼく、今日は絶対にお湯に浸かりたいんです」


 別に風呂くらい二、三日入らなくても良いが、簓はこの三日、母が親戚の葬式手伝いに行ってしまった為、その間は水風呂すら入って居ない。そもそも簓一人で井戸から水を汲み、湯を沸かし、それを桶に溜めての入浴なんて、時間も労力も無駄だ。その為濡らした手拭いで身体を拭くだけで済ませて居たが、明日の夕刻には母が帰って来る。

 一度も入浴していないなんて事がばれたら、しゃもじで頭を叩かれるだけでは済まないに違い無い。

 それに、牛山は簓に合わせて一緒に帰ろうとしていた。簓としては、牛山にこれ以上色々と背負って貰いたくは無かったので、頭を振って気丈にも顔を上げた。


「平気です、行きましょう」


 簓は音を無視して、牛山の袖を引っ張って暖簾を潜り、見事に引っ繰り返った。


「ぎゃっ⁉︎」

「簓君‼︎」


 猫が踏まれた様な悲鳴を上げ、仰向けに倒れた簓は地面に後頭部を打ち付ける前に何とか牛山に支えられたのだが、綺麗に意識を飛ばしてしまった。






 結局、その日簓は風呂に入る事が出来ず。牛山も簓に付き合って風呂に入る事をせず、細々しく簓にくっ付いて面倒を掛けてしまった。お陰で翌日帰って来た母に、風呂に入っていない事と牛山に迷惑を掛けた事を知られ、矢っ張りしゃもじで頭をしばかれる事になってしまった。牛山が倒れた事を言ってくれたので、一発で済んで僥倖である。

 しかしそれなら、母が帰って来る前⋯⋯夕刻までに何としても銭湯へ向かえば良いだけだったと思われるだろうが、簓はどうしてもそんな気になれなかった。その夜、母が銭湯へ行けと口を酸っぱくしても、自主的にお湯を溜めて土間で体を洗った。あれだけ面倒だった作業も、風呂屋へ行く事に比べれば苦では無い。



 あの時、暖簾を潜った瞬間。

 奥の湯船から洗い場、脱衣所と番頭台までゆらゆらと漂っていた湯気が。大音量で簓の鼓膜を震わせたのだ。



──死にたくない。



 それは、言葉にならない叫び。本能と怨嗟の呪詛。人も獣も入り混じる、正体の判別せぬ魂の声。

 その正体は判然としない。ただその数日後、事件があった。


 風呂屋の営業時間前、男女のどちらかは周知されてはいないが、湯船で人が死んだのだ。

 死んだのはその風呂屋が最近雇った男らしく、風呂釜を沸かす仕事をしていたとか。その男が何故洗い場で死んでいたのかは不明である。

 そんな人死にが出た銭湯、客足が遠退くかと思われたが、風呂は生活とは切っても切れぬもの。誰もが気味悪がったものの、何だかんだ客が居なくなる訳では無く、その風呂屋の煙突からは毎日()()()()と煙が立ち昇っていた。


 そうして毎日煙を吐き出して行く内に、とある日に風呂屋の近くへ仕方無く通った簓は気付いた。


(声がしない)


 きっと毎日天高くまで煙として昇り、釜の中で燃え残った情念も、全て天国へと行けたのだろう。簓はそう納得し、それから風呂屋へ行く事も嫌がらなくなった。









⋯⋯釜で何が燃えていたか。見えない簓には知る由も無い。

見えないから、気にしないで居られる事もあります。知ってしまったが最後、もう気になって気になって⋯⋯大丈夫だと思っていても、如何しても受け付けない。

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