弐、種も仕掛けも見えません
能力を悪用している話。
「勿体無い、非常に勿体無いですよ」
態々家に来た教師は、今日が折角の休みである母に詰め寄った。
「簓君は非常に頭の良い生徒です。中学に遣らないなんて、彼の為にならないと思いませんか」
「でも、先生⋯⋯うちにはそこまでの余裕はありません。中学校だなんて⋯⋯」
父が存命ならばいざ知らず、簓の家は母との二人暮らしだ。裏手にあるアパートの家賃収入が有るとは云え、安い家賃に管理費なんかはこっちで持たねばならない。唯一頼れる祖父もつい数年前に亡くなってしまったし、母は食堂の給仕として働き出したくらいだ。
それならばと一家の柱となるべく、簓は小学校卒業後は伝手を頼って新聞社の手伝いをする事になっていた。
「しかしお母さん、簓君は試験の問題を一問も外した事がありません。そりゃァ常はぼんやりしたお子さんですがね」
ぼんやりだと貶しながらも、天才ってのはそう云うものです。と、教師は鼻息荒く力説した。
「兎に角、せめて高等小学校は御検討ください。私の方も支援をしてくれる方を探してみましょう」
母も簓自身も特に頼んでなど居ないのに、教師は恩を売ってやっているとばかりに言うだけ言ってから帰って行った。
「⋯⋯困ったわねぇ。確かにおまえは頭が良いみたいだけど⋯⋯」
隣で正座をしている簓に、母は困った様に小首を傾げた。
「お母さん、ぼくは進学なんて考えちゃいないよ」
「そう、そうね。だけどね簓。せめて中学さえ出ておけば、後々良い所へ就職出来るンじゃ無いかしら?」
簓は唸った。確かに、今後を考えるならばその方が得に違いない。だが、簓には頷く訳にはいかない事情が在った。
それは勿論、母の負担にならない為でもあったが、もうひとつ。これが本当に並々ならぬ事情だった。
***
「⋯⋯それでは、試験の時間はきっちり一時間ですよ」
そう言って、教師は壁に掛かった時計を指し示す。教室の生徒達は、それぞれ机の上に広げた問題用紙と答案用紙に、鉛筆で解答を書き込んでいった。全員が全員、着々と解答している訳では無い。何せ教科は算術。算盤が苦手な生徒には非常に厳しい教科だ。
勿論、簓も算術は苦手だ。算盤が脇に有るなら、頼ってしまうくらいには苦手な部類である。だが、簓は試験で点を落とした事は一度も無い。それは何故か。
どうしても解けない問題があれば、その箇所を空けておき、後でゆっくり解こうと考えるだろう。簓の場合、其処からが違う。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯第四問、答えは三十八である」
何時もの様に、ふわっと解答が耳に入って来た。簓は何時も通り、聞こえた解答を空けていた欄に記入する。
そう、つまりはそう云う絡繰だ。
試験時間になると、頭の偉い誰かが試験の問題を盗み見て、一緒に試験を受けて行くのである。それが誰かは分からない。何故なら教科毎に複数人居る為、誰が誰かは判別出来ないのだ。
少なくとも簓の知る彼等は、試験を受けながら時々自身の思想だったり、問題に対して議論を白熱させる。それは非常に高等な内容であり、簓には欠片も理解出来ない。勿論、祖父の言い付け通り知らぬ振りはするが、如何してもこの聞こえて来る答えを書き写す事は止められない。圧倒的に楽だから。
つまりはそう、お分かり頂けるだろう。もし進学しても、その教室に彼等の様な存在が居る保証は無く、成績のガタ落ちは必至。援助なんて受け様ものなら、母共々如何なるか分かった物では無い。それに、簓はただ聞こえるだけの人間なのだ。
仮に中学にも彼等の様な存在が居たとして、簓は絶対に外国語で壁に突き当たる。何を言っているのか判らないのに、用紙に答案が書ける筈も無い。それに、
(大体ぼくみたいなずるいのは、進学しちゃいけないよ)
本当なら進学し、彼等の声を聞いてこの国を発展させる手伝いをするべきなのだろうが、如何しても「ずるい」と感じてしまい、後込みをしている事も事実である。
それならば新聞社に入って、激論する彼等の思想を記事にした方がずっと良いと、簓は思えるのである。
案外この人達は、簓の事に気付いて居るかもしれません⋯⋯何せ頭が良いですからね。
念仏の様に議論をしているのも、簓の脳髄にその思想を植え付けようとしているのかもしれないですね。