エピローグ
あれから1週間が経った。
梅雨はまだ明ける気配がないけれど、少しずつ晴れの日が増えている気がする。
まぁ、晴れでも雨でも、再来週に差し迫った期末テストのせいで、クラスの雰囲気はどんより曇天だ。
市内トップの進学校故の弊害か、赤点を取れば夏休みの半分以上が補習に当てられるのだから、僕も気が気じゃない。
「橘よっすー。今日はソロランチ?」
スマホを弄りながら弁当をつついていると、菓子パンと野菜ジュースを手にした佐伯がやってきた。
「よっす。みんなは僕よりも、委員会や彼女の方が大事なんだってさ」
「なにそれウケる。ま、アタシも逃げられたけど」
そう言って、佐伯は隣の席に座った。
どうやら楽しいソロランチは終わりらしい。
「ってかさ、あの子は?」
「あの子?」
「ほら、あの天使の子」
「ああ」
石森佳苗。
彼女とはあの日から一度も顔を合わせていない。
この1週間は毎日部室に通ったのだが、あの子が姿を見せることはなかった。
まぁ、色々あったから気まずいのだろう。
「あの子とは、あの日以来会ってないな」
「えー? そうなん? 付き合ってるんじゃないの?」
「お前は本当に色恋話が好きだな。ただの後輩だよ。付き合ってなんかない」
「ふーん。つまんないの」
付き合ってはないけど、告白はされた。
なんて言ったら、こいつは大いに喜び勇むだろうが、あれこれ詮索されそうだから黙っておこう。
僕にとっても、あの子にとっても、終わった話だ。
「橘があの子と食堂デートしてたって目撃情報があったから、遂にカノジョかーって期待したのに」
「そりゃ悪かったな。佳苗ちゃんとは色々あって、たまたま一緒に弁当を食ってただけだ」
「いろいろたまたまね。まぁいいですけどー」
佐伯は口を尖らせて、野菜ジュースにストローを刺した。
そして特に何かを言うわけでもなく、黙々と菓子パンに齧り付く。
ふむ。
彼女のおしゃべりは筋金入りで、映画の話がいつのまにか和三盆の話にすり替わっているような、四方山話の擬人化みたいな奴だが、今日はどうにも機嫌が良くないらしい。
黙って飯を食うこいつを見るのも新鮮で悪くないが、どうにも落ち着かず、僕は心地悪い沈黙を破ろうと、ひとつ咳払いをした。
「……今日は午後から晴れそうだな」
「え? 会話下手なの?」
「…………」
「アハハハハッ!」
ぐっさり。
いや、確かに天気の話題しか出ないのはどうかと思うけれど、テストの話題を出したら余計に気分が沈むだろうし、僕なりに気を遣ったつもりなのだが。
まぁ、佐伯の機嫌が直ったなら万々歳か。
「ま、雨はヤダよね。濡れると鬱陶しいし、髪もまとまんないし」
「僕はヘアセットとか気にしないけど、とにかく気が滅入るよ」
「ね。こんな季節じゃ恋心もしけっちゃうか」
「だから違うっての。今日はやたら絡んでくるな」
「絡みたくもなるってぇ」
佐伯はそう言って、僕の弁当箱に手を伸ばし、青いピックに刺さったミートボールを摘み、当然のようにそれを頬張った。
「恋心といえばさ、知ってる? 最近噂になってる新しい七不思議」
「そりゃもちろん。天使様だろ?」
「違くて、もうひとつの方」
「もうひとつ?」
七不思議がハイペースで追加されている。
歴史の浅いこの高校に、そういくつも七不思議があるとは思えないが、たった1週間で2つも増えるのだから、もしかすると3桁はとうに超えているかもしれない。
「『クシナダの口』って言うんだけど、まだ聞いてない?」
「初耳だけど、なんか怖いな」
口とか、耳とか、目とか、顔の一部が付くだけで、かなり不気味な印象をうける。
「アタシも最初はそう思ったけど、ホント全然怖くないから。クシナダって、恋の神様の名前なんだって」
「へぇ。じゃあ恋愛絡みか」
いかにも佐伯が好きそうな話だ。
「そうなんよ。ラブレターをその机の中に入れると、翌日には消えてるんだって。そしてその恋は成就するってハナシ」
「え? 机?」
「そう、机。アタシも見に行ったんだけど、パッと見は超普通の机なんだよね」
机。
さっきは知らないと言ったが、急激に心当たりが生まれた。
「もしかして、特別教室棟の裏の――桜の木の下にある奴か?」
「そうそれ! なに? やっぱ興味津々なの?」
「ちげーよ」
厳密に言うと、興味がないわけではない。
しかしそれは恋愛云々じゃなく、先週運んだ僕の机が、どういう経緯で神の名を冠するようになったのか、という一点だけだ。
まぁ。
その仕掛け人が誰なのかは分かっているのだが。
「…………」
右前方に視線を向けると、いつものメンバーと昼食を食べている委員長と目が合った。
彼女はいつも通りの冷めた表情をしているが、多少ドヤ顔というか、してやった感が見て取れるのは、僕の気のせいだろうか。
「恋の神様ね」
あの天使騒動について、僕はほとんど何も知らない。
僕の机に突如として現れた天使と、それを崇拝する後輩。
しかし天使の正体は、後輩が生み出した悪魔だと言う。
更には、その悪魔は今現在、恋の神様として七不思議のひとつになっていると言うのだから、いよいよ混沌としてきた。
委員長や鎌田さん、佳苗ちゃん本人は何かを察していた様子だったけれど、結局僕には何も教えてくれなかった。
まぁ、それならそれで良いのだろう。
触らぬ神に祟りなしだ。
「あっ! 天使様!」
神と化した机に想いを馳せていると、ふと不意にそんな声が教室内に響いた。
入り口を見ると、数名の1年生らしき生徒たちが、教室の中を覗き込んでいる。
「はぁ……」
佐伯は深く溜息をつくと、気だるそうに立ち上がった。
あの後輩たちの目的が、佐伯杏樹その人であることは、もはや周知の事実である。
これが最近出来た七不思議のひとつ。
「頑張れよ、『天使様』」
「うっさい」
佳苗ちゃんがこのクラスで起こした騒動が話題を呼び、どういった過程を経たのかは知らないが、話に尾鰭や胸鰭や背鰭まで付いて、『佐伯の写真をスマホの壁紙にすると幸せになる』という、至極的外れな噂が広がっているのだ。
初めのうちは勝手に写真を撮ろうとする輩と、それを許さない委員長のバトルが頻発していたが、見かねた佐伯が自ら写真を撮られにいくようになり、以降の昼休みは平和そのものだ。
無論、佐伯に特殊な能力がある訳もなく、その写真に祈ったところで何のご利益もないだろう。
けどまぁ、それは神様でも同じかもしれない。
要は誰かに背中を押して欲しいだけなんだ。
天使であれ、悪魔であれ、自分自身であれ、応援してくれる味方が欲しい。ただそれだけ。
そういう意味では、佐伯は案外『天使様』に向いているかもしれない。
服を着た栄養剤みたいな彼女が背中を押してくれるなら、いつもより少しだけ、物事を前向きに捉えられそうだ。
「あ、橘ぁ」
それに、佐伯はめんどくさそうな態度を取っているが、案外悪い気はしていないらしい。
「どう? 今日もかわいいっしょ?」
佐伯は自信満々に、自分が世界で1番可愛いとでも言いたげにウィンクをした。
「いいからさっさと行けよ」
「照れんなってぇ。まぁいいや。とりま天使してくるわ」
金髪を揺らしながら後輩達の元へ駆け寄る佐伯の後ろ姿を眺め、ふと思う。
もしも佳苗ちゃんが信じた天使が佐伯だったなら、少しは違う結果になったのだろうか。
今は恋の神様をしているという、天使の皮を被った悪魔がどんな影響を及ぼしたのか、やはり僕には分からない。
でもひとつだけ知っていることがあるとすれば、恋は人を狂わせるということだ。
悪魔なんかが出る幕がないくらい。
「まぁ、いいか」
人は祈る。
だけど、その対象をしっかり確認しなければならない。
天使に祈るつもりが悪魔に祈っていた。なんてことが、知らず知らずのうちに起きてしまうかもしれないのだから。
毎年初詣に行っているあの神社も、帰り道で見かけるあの祠も、もしかすると、なにかとんでもないものが祀られているかもしれない。
でも、とりあえず祈るとしよう。
この祈りを聞き届けてくれるのは神様なのか、天使なのか、はたまた悪魔なのか。
正体を知らなければ、きっとどれも同じだ。
僕の可愛い後輩が、楽しく高校生活を送れますように。
――終わり――
ご拝読頂きありがとうございました。
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