後編(下)
天使の正体は神様だった。
いやいや、なんだそりゃ。
そこだけ抜き取ると神話の一節かのようだが、委員長の様子を見るに、状況は芳しくないらしい。
「神様ならいいんじゃないのか? むしろ天使よりご利益がありそうじゃんか」
天使というのは神の使いだったはず。
なら神様ご本人に登場してもらった方が、部下を挟むよりも手早く恵みを与えてくれそうだ。
しかし、委員長は間髪入れずに「いいえ」と否定した。
「日本の神様は、祟るのよ」
そう言って身震いする彼女には悪いが、個人的には今ひとつ納得できない。
触らぬ神に祟りなし。なんて言葉があるのだから、祟ることもあるのだろう。
でも今回は、特に悪さをした訳でもないのだから、祟られるというのは話が飛躍している気がする。
「僕たちは祟られるようなことをしていないだろ?」
「そうね、あなた達は大丈夫よ。祟られるのは私だけ。でもまぁ、仕方ないわ」
いつも通りの口調で、覚悟を決めたかのような物言いだ。
しかしその表情を見るに、それは覚悟ではなく、諦めの言葉にも聞こえてしまう。
「いや待てよ。委員長だってそうだろ? お前は何も悪いことなんかしてないし、祟られるような真似をする奴じゃない。僕でもそれくらい知ってるつもりだ」
宥めるように話した僕に、委員長は「馬鹿ね」と笑った。
「私は見ちゃったから、多分アウト」
「見ちゃったって、それだけで祟られるのか?」
「そうなのよ。日本の神は見る事自体が禁忌だもの」
そう言って、委員長は深く息を吐いた。
見ただけで祟られる?
その話が本当なら、日本の神様ってのはかなり滅茶苦茶じゃないか。
「神は慈悲深いんじゃないのか? 見ただけで祟るなんて、そんなのほぼ妖怪だろ」
「そうね、別に間違ってないわよ。私達のご先祖様は、妖怪も、悪霊も、疫病ですら神として崇め奉っていたんだから」
「なんだそれ。ご先祖様は馬鹿だったのか?」
「狡いのよ。敵わないなら下手に出てお願いするしかないでしょ」
「いや、まぁ……そういうもんか」
科学も医療も発展していない時代なら、そうするしかなかったのかもしれない。
勝てない奴には逆らわないというのは、現代でも同じことが言える。
それにしても見ることが禁忌だなんて、まるで鶴の恩返しだ。
「なんとかならないのか? っていうか、最悪死んだりするのか?」
「知らないわよ。祟られた事なんてないもの。それに姿形は見てしまったけど、あくまでもイラストだから案外なんともないかもしれないわ。だからまぁ、そうね、多分大丈夫よ」
女の言う『大丈夫』は、大丈夫じゃない。なんて聞いたことがあるが、今回ばかりはその通りだろう。
依然として青ざめたまま冷や汗を垂らす彼女が大丈夫なら、僕は金輪際弱音を吐くことができなくなる。
元はと言えば、委員長を巻き込んでしまったのは僕が原因だ。
どうにかして彼女を祟りとやらから救いたいが、委員長にも分からないことを、僕がどうこう出来るのか?
「ね、ねぇ。さっきからなんの話してるの? 委員長先輩祟られちゃうの? 嘘だよね?」
「大丈夫だよ美也。神様とか祟りとか、そんなの迷信なんだから。橘先輩、そうですよね?」
「…………」
そうだよ。
なんて、簡単な言葉すらも出てこない。
怯える後輩を励ますことすら、今の委員長の前では憚られ、部室は静寂に包まれた。
「……ふふっ」
しかし、そんな笑い声で沈黙は破られた。
「なんちゃって」
委員長は不敵に笑い、おどけたようにそう言った。
その言葉に後輩達はポカンとしている。
「鎌田さんの言う通りよ。神様なんて居ないし、祟りなんてただの迷信。狭山さんの反応が可愛かったから、少しからかってみたの」
微笑みながら、悪びれる様子も無い委員長に対して、狭山さんは肩の力が抜けた様子で椅子にもたれかかった。
「や、やめてよぉ。私本当に怖いの駄目なんだからぁ」
「あら、ごめんなさいね。これに懲りたら、今後はしっかり敬語を使うのよ」
「それとこれとは関係無いよ!? 敬語苦手なんだもーん」
すっかり調子が戻った狭山さんは、わざとらしく口を尖らせた。
しかし、その様子を眺める鎌田さんの顔には未だ不安の色が浮かんでいる。
「じゃあ、言葉遣いは見逃してあげるから、ひとつお願いしても良いかしら?」
「え、なになに?」
「私はこの子、石森さんに聞きたいことがあるのよ。だから少し席を外してもらえない?」
「私たちは一緒じゃダメなの?」
「駄目よ。盗み聞きも、覗き見も駄目。私が声をかけるまで部室には入らないで欲しいの。良いかしら?」
「私は良いけど」
その時、鎌田さんと目が合った。
彼女も僕と同じで、何かを察したらしい。
「なら、あたし達は教室に戻ります。石森さんのことよろしくお願いしますね。美也、行くよ」
「あっ、理瀬ちゃん待って。じゃあ先輩たち、またね」
2人は手早く弁当を片付けて、そそくさと部室を後にした。
そういえば佳苗ちゃんの弁当、食堂に置きっぱなしだな。なんて、ついさっきの出来事が白昼夢のようで現実感がない。
当の佳苗ちゃんは、寝息を立ててスヤスヤと眠っている。
「なにしてるの? あなたも出てって。それとも何? まさかとは思うけど、さっきその子を抱えていた時に感じた胸の感触を思い出して興奮しているのかしら?」
「ちがわい! 僕はあの状況で胸を意識できるほど図太くないぞ」
「あら、ごめんなさい。目の前にお尻があったんだもの。橘くんはそっちで手一杯よね」
「ち、違うっての!」
違くはない。
佳苗ちゃんを支える都合上、心苦しかったが仕方なく、本当にどうしようもなく、彼女の太腿を触ることになったので、色々意識してしまって大変だった。
「ふーん。まぁ、そういうことにしておいてあげるわ」
「……そりゃどうもありがとう」
「じゃあ八つ当たりも済んだし、早く出て行ってくれないかしら?」
「八つ当たりだったのかよ!? 本当に良い性格してるな!」
「あら、褒めても手しか出ないわよ」
「さっきエグい当て身を見せられてるから笑えねぇよ」
「あら残念」
そう言ってクスクスと笑う委員長は、気づけば顔色がだいぶ良くなっていて、目に見えて落ち着きを取り戻している。
八つ当たりとは言っていたが、彼女なりに平常心を取り戻そうとしていたらしい。
彼女はスマホをテーブルに置くと、ぐっと背伸びをした。
「なぁ、委員長」
「なに?」
「もしかしてそれ、佳苗ちゃんに見せるのか?」
「場合によってはね」
「でも、祟られるかもしれないんだろ? それでも見せるのか?」
「見せるわよ。それくらいしなくちゃ分かってくれないかもしれないし」
「…………」
言っていることは理解できる。
だけど神とやらに翻弄された佳苗ちゃんは、言わば被害者だ。
普段の委員長なら、被害者を追い込むような真似はしない。
「なんか、委員長らしくないな」
「あのね橘くん。これは普通、机に居るようなものじゃないのよ」
「じゃあどうして居るんだ?」
「どこかの誰かが呼び出したのよ」
佳苗ちゃんを見下ろし、委員長は目を細めた。
その時ふと、昨日委員長に言われたことを思い出す。
『知らない子が1人で教室にいて、橘くんの席あたりで何かしてたのよ』
それはつまり、佳苗ちゃんが僕の席に何かをしたということだろう。
故意にしろ、偶然にしろ、それが原因で僕の席に神様が現れたのだと委員長は考えているらしい。
佳苗ちゃんは被害者ではなく加害者だと、そう言っているのだ。
「で、でもさ。神様はずっと僕の席に居た可能性もあるだろ?」
「いえ、これはそういうのじゃないわ」
「だとしても、佳苗ちゃんは天使だと思ってるじゃないか。仮に佳苗ちゃんが何かしていたとしても、神様を連れてきたなんて、多分気づいてないと思う。だから――」
「だから分からせないと。そう言ったでしょ?」
「いや、もっと穏便に対処できないのかよ」
「私はただの高校生よ。無茶言わないで」
「それは……そうだな。ごめん」
落ち着け、僕は何を言ってるんだ。
ただでさえ、また委員長を訳の分からない事に巻き込んでしまったというのに。
「そういえば橘くん、その子のこと『佳苗ちゃん』って呼ぶのね」
「あ、あぁ。それが?」
「別に、少し気になっただけ。橘くんって女子のことは名字でしか呼ばないでしょ? それに、さっきもこの子を追いかけるように教室に戻ってきたし、一体どんな関係なのかなって」
「えっと、それは……」
本来なら、惚れた腫れた、振った振られたの話は大っぴらにするものじゃない。
佳苗ちゃんにも申し訳ないから、出来れば隠しておきたかったが。
「実はさ――」
僕は、事の成り行きを説明した。
パンをあげたこと、弁当を作ってきてくれたこと、以前僕が彼女を助けていたこと、そして、告白されて断ったこと。
簡単にだが、それを聞いた委員長は「なるほどね」と、納得した様子だった。
「何か分かったのか?」
「ええ、繋がったわ。石森さんが教室で何をしていたのか」
「本当か? 佳苗ちゃんは僕の机に何をしたんだ?」
「…………」
至極当然の疑問だと思うのだが、委員長は急に黙り込んだ。
「お、おい」
「……まぁ、橘くんは気にしなくて良いわ」
「僕が一番気にしなくちゃ駄目じゃない?」
そう言うと、委員長は黙って廊下を指差した。
いいから出ていけ、という事らしい。
「僕に出来ることはないのか?」
「ないわね」
「……分かったよ。じゃあ僕は外で待ってるから。あ、暴力は無しだぞ」
「善処するわ」
「あと、何かあったら呼んでくれよ」
返事を待たずに、僕は部室を出た。
「祟りか……」
今日の佳苗ちゃんは、やっぱり異常だった。
委員長のことだから佳苗ちゃんを上手く説得してくれるかもしれないが、もしも神とやらの影響で佳苗ちゃんが不安定になっているのだとすれば、早く解放しないと今後どんな影響が出るか分からない。
とは言っても、僕にできることは邪魔をせずに廊下で待つことだけらしいが。
「あ、橘先輩」
「うおっ! って、鎌田さんか。びっくりした」
廊下に出たところで、壁に寄りかかる鎌田さんに声をかけられて飛び上がった。
弁当を持っている所を見ると、ずっとここで待っていたらしい。
「教室に戻ったんじゃないのか? 狭山さんは?」
「美也は教室に帰しました。あたしは、やっぱり気になっちゃって」
まぁ、気にするなと言う方が無理だろう。
狭山さんは上手く言いくるめられていたが、さっきの委員長の反応を見れば、大抵の人は異常事態だと気がつく。
「っていうか先輩、石森さんのこと振って良かったんですか? 結構可愛いのに」
「なーに盗み聞きしてんだっ!」
「あはは。聞こえちゃったんですよ」
「お前なぁ……。絶対誰にも言うなよ?」
「言いませんよ。そもそも橘先輩の恋愛事情とか誰も気にしてませんし」
「委員長の次は僕と喧嘩するか!?」
「冗談ですって」
悪戯っぽく笑って、鎌田さんはその場に座り込んだ。
はしたないぞ。とか、注意するべきなのだろうが、なんとなく僕も座りたくなって、扉を挟んだ反対側に腰を下ろす。
「でも、ちょっと意外でした」
「そりゃ僕だって驚いたよ。まさか告られるなんて思っても見なかった」
「あ、違くて。橘先輩って案外喋りやすいんだなって。もっと寡黙で怖い人だと思ってました。目付き悪いし」
「目付きのことは気にしてるから言わないでくれ……」
食堂で佳苗ちゃんに指摘された通り、僕は篠宮先輩に嫌われていた。
死んでも構わないと思われるほどにだ。
その理由の1つが目つきの悪さだったと知り、最近は少しずつ改善しようと心掛けていたのだが、そう簡単に直るものでもないらしい。
「ってか、怖いって言う割に昨日は喧嘩腰だったな」
「敵だと思ったので」
「お前の方がよっぽど怖いわ……」
「あはは。すみません」
しかしまぁ、なんというか。
昨日はあんなに険悪な雰囲気だったのに、まさかこうして談笑できるとは思わなかった。
今までは部室で出会した時も挨拶するくらいで、自分から話しかけたりせず、話しかけられても積極的に会話を続けていなかった。
先輩後輩というよりは、部室にいる知らない生徒くらいの感覚だったのかもしれない。
それでも昨日、委員長と口論を繰り広げる中で鎌田さんが僕に助けを求めたのは、僕を自分の先輩だと認めてくれていたからだろう。
「先輩か……」
今更になって、先輩になったんだなと実感が湧いてくる。
「すみません、なんて言いました?」
「え? あぁ、別に。神様ってどんな奴なんだろうなってさ」
「……先輩は本当に神様が居ると思いますか?」
「まぁな。委員長は面白半分で嘘をつくような奴じゃないし、居るって言うなら居るんだろ」
それに、超能力者や妖怪が実在するのだから、神様がいてもおかしくない。
けどまぁ、篠宮先輩の件がなければ僕も信じていなかっただろうし、なんなら中二病だと小馬鹿にしたかもしれない。
「鎌田さんはどうなんだ? 神様、信じるか?」
「えー、どうでしょう。神社にお参りする時は真剣に拝んでますし、日常的な運勢の変化に人知の及ばない力を感じることもあります。でも頭の中では、神様なんて存在しないと思ってるんです。だから、意識的には信じてないけど、感覚的には信じてる……って、よく分からないですね」
「いや、そんなことないよ」
むしろ、そういう人は多いと思う。
僕だってそうだ。
神様なんて信じていないけど、常に薄っすら気配を感じている。
信じていないはずの神に願ったり、感謝したり、恨んだり……珍しいことじゃない。
「でも『祟り』って言われると、途端に胡散臭いというか、フィクションっぽいと思っちゃいますね。委員長さんがイラストを見せてくれたら、心の底から信じられるかもしれませんけど」
「やめとけやめとけ。たぶん碌なことにならないぞ」
「冗談です。あたしこう見えてもホラー映画とか好きなんですよ。だから、こういう時に興味本位で近づいたらどうなるのかは分かってるつもりです。神様がどんな姿なのか、気にならないと言えば嘘になりますけどね」
「案外汚いのオッサンだったりしてな」
「あはは、祟られますよ。それに、本当に神様かどうかも分かりませんしね」
「それは……いや、そうだな」
実際はどうなんだろう?
委員長は見ただけで神様だと分かったみたいだし、如何にも神様っぽい奴なのか?
妖怪や悪霊まで神様になってしまうのなら、とてもじゃないが見分けることなんか出来そうもない。
「そういえば随分静かですけど、2人は大丈夫でしょうか?」
「ああ、確かに……ってオイ」
鎌田さんは、おもむろに片耳を扉へと押し付けた。
さっきもこうして盗み聞きをしていたのだろう。
「なぁやめとけって。ホラー映画の教訓はどうしたよ」
「えっと、あれですよ。逆転の発想って奴です」
「適当に喋るなよ……。マジで祟られたらどうすんだ」
どうやら本当にホラーが好きらしい。
僕からの注意には耳を貸さず、この状況に怖がるどころか高揚しているようにも見える。
「あのなぁ。そういうのは本当に――」
そう言って、鎌田さんの盗み聴きを止めようとした瞬間だった。
「いやぁああああああっ!」
部室の中から悲鳴が上がった。
それは紛れもなく佳苗ちゃんの声で、その直後、何かを投げつけたかのような衝突音が鳴り響いた。
「佳苗ちゃん!」
「ちょっ! 先輩! うわっ!」
委員長は、合図をするまで部室に入るなと言っていた。
しかし、佳苗ちゃんの悲鳴を聞いて考えるよりも先に体が動き、僕は部室の扉を開いていた。
「大丈夫か!?」
「……橘くん」
「――――ッ!」
部室の中に争った形跡はなく、2人は向かい合う形で椅子に座っている。
しかし、佳苗ちゃんは頭を抱えて、こう呟いていた。
「天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない――」
佳苗ちゃんは発狂したように、延々とその言葉を繰り返す。
委員長が何をしたのかは、火を見るよりも明らかだった。
「佳苗ちゃん!」
「天使様じゃない天使様じゃない天使様じゃない――」
「おい! しっかりしろ! 佳苗ちゃん!」
肩を揺すっても反応がない。
教室の時と同じだ。
この状態ではまともに会話することも出来ない。
なら――。
「佳苗ちゃん、ごめんっ!」
「…………っ!」
パチン。
と、高い音が響いた。
ついさっき委員長に『暴力は無しだ』と言ったのに、僕は佳苗ちゃんの頬を平手で打ったのだ。
それは一種の賭けのようなもので、下手をすれば更に佳苗ちゃんを混乱させてしまうかもしれなかった。
「たちばな……せんぱい」
だが気づけば、佳苗ちゃんの独り言は止まっていた。
彼女は左の頬を押さえて、両目からポロポロと涙を流している。
「うわっ! か、佳苗ちゃん?」
「ごめんなさい……」
「えっ? だ、大丈夫か?」
「ごめんなさい……た、たちばなせんぱい、ごめんなさい……」
啜り泣きながら謝罪を繰り返す佳苗ちゃんからは、さっきまでの異常さを感じられない。
一か八かの賭けに勝った。と思っていいだろう。
「僕こそ叩いてごめん。痛むか?」
「だ、大丈夫……です。ほんとうに、ごめんなさい……」
「いや、いいんだ。正気に戻ってくれて良かったよ」
しかし、安心するのはまだ早い。
神様を見てしまった2人には、まだ祟りが降りかかる可能性が残っているんだ。
それなのに、当の委員長はいつも通りの冷めた表情で、泣きじゃくる佳苗ちゃんを見つめていた。
「なぁ委員長、これからどうするんだ? 祟りなんて放っておけないだろ? それに僕の席の神様だって、あのままじゃダメだと思うんだけど」
「あ、あの……か、神様? とか、た、祟りって、どういうこと……ですか?」
「あぁ、えっと……」
委員長から聞かされていないのか?
なら、無闇に怖がらせるようなことは言わない方が良いのだろうか?
「橘くん、その事なんだけど――」
と、委員長が何かを言いかけたところで、
「うわっ! なにこれ!?」
鎌田さんが素っ頓狂な声を上げた。
「どうした!? って、お前それ!」
振り返ると、鎌田さんは委員長のスマホ画面を凝視していたのだ。
先程部室内から聞こえた衝突音は、委員長のスマホが投げ捨てられた音だったのだろう。
「見るな! お前も祟られるぞ!」
「え、いやでも、これって……うわぁ、すっご」
口元を抑えた鎌田さんの顔が、見る見るうちに赤くなっていく。
いくらホラーが好きだと言っても、無謀にも程があるだろ。
「鎌田さん、それを渡せ!」
「え? ええっと……それはちょっと、どうかなぁ……? あはは……」
「ふざけてる場合か! いいからそれを寄越せ!」
鎌田さんからスマホを奪おうと、僕は腕を伸ばして床を蹴った。
「だ、ダメっ!」
しかしその動きは、腰に抱きついた佳苗ちゃんによって阻まれてしまう。
振り解こうにも、その小柄な見た目からは想像できない力によってびくともしない。
「離してくれ! その神様を見ると祟られるんだ! どんな目に遭うか分かったもんじゃないんだよ!」
「か、神様じゃないです! か、鎌田さんもそんなに見ないで!」
「何を言ってるんだ! それは神様なんだよ! だよな委員長!?」
それは別に、委員長から肯定の言葉を引き出したかったわけじゃない。
呑気に座ってないで手を貸して欲しかっただけなのだ。
なのに委員長は全く動くそぶりを見せず、それどころか、肩をすくめてこう言った。
「それ、神様じゃないわよ」
「…………は?」
思わず、固まってしまった。
佳苗ちゃんはそんな僕から手を離し、照れ臭そうに顔を赤らめる。
「いや、なんだよ……それ」
それが神様だから、見ると祟られるから、委員長はあんなに青ざめた顔をして、佳苗ちゃんも影響を受けていたんじゃないのか?
「じゃ、じゃあ、そこに写ってるのは……AIの天使ってのは、結局なんなんだよ!?」
「悪魔よ」
「は、はぁ?」
悪魔。
それはなんというか、正しく予想だにしない回答だった。
悪霊と言われた方が、まだすんなり受け入れられるというものだ。
「悪魔ってお前、ここは日本だぞ?」
「仕方ないじゃない。そうとしか言いようがないんだもの。そうよね、鎌田さん」
「えっ? あ、はい。これは……凄いですね」
「も、もう見ないで!」
「あっ、ごめん」
佳苗ちゃんは慌てた様子で立ち上がり、鎌田さんからスマホを取り上げた。
赤面する2人の間には、気まずそうな空気が流れている。
そしてそれ以上に、僕だけが話題について行けていないような、居心地の悪い疎外感があった。
もう、何が何だか分からない。
「委員長、頼むから説明してくれ」
「だから悪魔よ。石森さんが呼び出した……と言うより、石森さんの心が生み出したと言った方が良いのかしら」
「佳苗ちゃんが生み出した……?」
佳苗ちゃんを見ると、彼女は恥ずかしそうに俯いた。
恥ずかしがってる場合じゃないだろ。
僕の記憶が確かなら、佳苗ちゃんは僕のことが好きで、告白までしてくれたはずだ。
そんな彼女が、どうして悪魔なんかを生み出すんだ?
「全然分かんねぇよ。っていうか、それが悪魔なら僕はどうなるんだ? 悪魔祓いとかしてもらう必要があるのか?」
「安心して、それならもう考えてあるわ」
「そうなのか? どうすればいい?」
「とりあえず、あなたの机を持ってきてもらえる? 私はここの校舎裏で待ってるから、先生に見つからないよう急いで」
「あ、ああ。分かった」
結局よく分からないが、とりあえず解決の手段はあるらしい。
「じゃあ僕は机を持ってくる。後でちゃんと説明してくれよ」
「あ、橘くんちょっと待って」
「ん? なんだよ」
委員長は僕を引き止めると、長机の上にあったアルコール消毒液のボトルを投げ渡した。
「持ってくる前に、それで机を消毒しておいて」
「なんでだよ?」
「汚いから触りたくなのよ」
「僕のことをなんだと思ってるんだ!?」
「いいからよろしく。特に、角の部分はしっかり消毒しておいて」
「角? まぁ……分かったよ。でもその前に、簡単にで良いから教えてくれ。どうやって悪魔を退治するんだ?」
そう聞くと委員長は、
「退治なんて出来ないわよ」
あっさりとそう答え、更にこう続けた。
「だから、神様になってもらうの」
そうして僕は部室を後にした。
教室に戻るとクラスメイト達に「山賊」と揶揄われ、委員長の言いつけ通りに消毒した机を持ち出すと、今度は「大怪盗」コールが始まったのだから、なんとも気のいい奴らだ。
集合場所は特別教室棟の校舎裏とのことなので、下駄箱で靴を履き替えていると、昼休みの終わりを告げる本鈴が鳴った。
慌てて校舎を出た瞬間、思わず目を細めてしまう。
「あっちぃ」
神様になる予定の悪魔の机を抱えて、真っ青な水溜りを飛び越える。
数日ぶりの太陽が、世界を明るく照らしていた。