後編(上)
こう毎日雨が続くと、流石に気が滅入る。
昨日や一昨日に比べれば小雨程度だが、それでも雨には閉鎖的な息苦しさを感じてしまう。
だけど、そんな些細な憂鬱も今はどこへやら。
「すげぇ。今日もめちゃくちゃ美味そう。食っていい?」
「ど、どうぞ!」
「いただきまーす」
生徒で賑わう食堂の隅で、美味そうな弁当を前に小躍りでもしてしまいそうだ。
約束通り、佳苗ちゃんは今日も弁当を作ってきてくれた。
エビフライもミートボールも、母さんの作る冷凍食品弁当とは比べ物にならない。
「美味い! 佳苗ちゃん、本当に凄いな」
「え、えへへ……。わ、私も、いただきます」
小さな弁当箱を箸でつつく彼女は、小動物のようで可愛らしい。
「ああ、そうだ。約束通りシュークリーム買ってきたから後で食べよう。コンビニで買ったのだから、この弁当のお返しには程遠いけど」
「い、いえ、そんな事ないです。わ、私、コンビニの皮が薄いシュークリームが大好きなのでっ!」
「そっか。なら良かった。はい、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
シュークリームを差し出すと、彼女は丁寧に両手で受け取り、そのパッケージをじっと見つめた。
「それと……私は、先輩に助けてもらったことがあるんです。だ、だから、そのお礼も込みというか……。せ、先輩は憶えてないかもしれませんけど……」
「僕が佳苗ちゃんを?」
訊き返すと、彼女はこくりと頷いた。
思い出そうにも、これといった記憶がない。
「わ、私が入学してすぐの頃に、図書室で無理に高いところの本を取ろうとしたら、その棚の本がたくさん落ちてきて……。弁償しなくちゃとか、戻したいけど届かないかもとか、色々考えて泣きそうになってたんです。そ、そこに橘先輩が来て『怪我はない? 大丈夫だよ』って、本を片付けてくれたんです」
「……ああ、あったなそんなこと」
薄っすらとだが思い出した。
あの時は確か、先輩に良いところを見せられたかな、なんて、邪なことを考えていた気がする。
だが、そんな時に限って先輩は倉庫に引っ込んでいて、肩を落としたのだった。
「あれって佳苗ちゃんだったんだ」
「は、はい……私あの時、助けてもらったお礼も言えなくて、ずっと後悔してたんです」
「お礼だなんて、あんなの助けたうちに入らないよ」
「そんなことないですっ!」
「ご、ごめん」
「あっ、す、すみません……」
突然の大声に驚き、思わず謝った。
それは佳苗ちゃん自身も同じだったようで、慌てた様子で頭を下げる。
大人しくて内気なイメージだったから、正直かなり驚いた。
「ま、まぁ、何にしても、図書室でのことを気にしていたなら、昨日と今日の弁当で全部チャラだ。っていうか、こんな美味い弁当を貰っちゃったら、僕の方がお釣りを返さなきゃいけないくらいだよ」
「……あ、あの」
「ん?」
「あの、えっと……」
気がつくと、彼女の顔は真っ赤にして僕を見つめていた。
「もし良かったら、明日も、来週も、毎日お弁当……作ってきても良いですか……?」
「ふぇ?」
思わず、変な声が出た。
「えっと、どういうこと……?」
「あ、あの! せ、先輩って、その……つ、付き合ってる人、います……か?」
「い、今はいないけど……」
「良かったぁ」
今はというか、彼女がいたことはない。
いや、そんなのどうでもいい。
この子、良かったって言ったよな?
僕に恋人が居ないと聞いて、良かったって。
「あ、あの……先輩」
「は、はい!」
鼓動がうるさくて、顔が熱くなる。
「私、図書室で助けてもらった日からずっと、先輩に憧れてて……」
「あ、あぁ、ありがとう」
分かってる。
こんなシーンは小説や漫画で何度も読んだことがある。
「あ、あの、も、もし良かったら……」
今から彼女が口走るのは愛の告白なんかじゃなくて、もっと突拍子もないことのはずだ。
そうだよ。
春は2ヶ月前に終わってる。
終わってるのに。
「その……わ、私を……えっと……せ、先輩の彼女にして、頂けませんか……?」
「あの、そうか……」
告白されるなんて何度も妄想したシチュエーションなのに、なかなかどうして思ったような言葉が出てこない。
相手は一昨日存在を認識したばかりの1年生で、文芸部の後輩で、可愛くて、優しくて、料理が上手で、正直僕には勿体無い。
これを逃せば、もうこんなチャンスは訪れないかもしれない。
それは分かってる。
だけど。
「ごめん。気持ちは嬉しいけど、付き合えない」
一生縁がないと思っていた台詞は、想像以上に重かった。
「ど、どうしてですか……?」
「僕、好きな人が居るんだ」
「……好きな人って、元図書委員長の篠宮先輩ですよね?」
「え……? なんで知って……」
思わず息を呑んだ。
篠宮花蓮先輩は、正しく僕の片恋相手だ。
だがそれは、仲のいい友人にすら教えたことのない僕にとって最大の秘密である。
「見てましたから、ずっと。篠宮先輩を見つめる、橘先輩を」
背筋が凍るというのは、こういうことなのだろう。
先程まで真っ赤な顔で瞳を泳がせていた彼女が、真っ青な顔で、じっと僕を見つめている。
「でもあの人、3週間前に転校しちゃいましたよ? 知ってますよね?」
それはもちろん知っている。
篠宮先輩は、傷害事件を起こして転校した。
先輩は都市伝説になるほど奇怪な手段で何人もの人を傷つけて、僕もその被害者の1人になった。
だけど、僕が彼女を想う気持ちに変わりはなかった。
「それに、こんな事は言いたくありませんけど、あの人は多分、先輩のこと嫌ってましたよ」
「まぁ、そうだったんだろうな」
「なのに、まだ好きなんですか?」
「好きだよ」
「なら、好きなままでも良いです。あの人を忘れろだなんて言いません。でもきっと、私が思い出にしてみせます。だから、私と付き合ってくれませんか?」
まるで別人の様だった。
少なくとも、僕が可愛いと思っていた佳苗ちゃんとは違う。
まるで能面を被ったかのような変貌だ。
でも、ハッキリと伝えなければ、佳苗ちゃんに対して失礼だろう。
「ごめん。先輩のことはほとんど諦めてるし、偶然再開できるような幸運もないと思う。でも、まだ思い出にしようとは考えられないんだ。だから、ごめん」
これが正直な気持ちだ。
佳苗ちゃんだからダメなんじゃなくて、篠宮先輩が良いんだ。
「…………なんで?」
「だから、僕はまだ――」
「なんでっ!?」
彼女は握り拳をテーブルに叩きつけ、食堂中に響き渡る大声で叫んだ。
一斉に周囲の視線が集まり、生徒たちがざわめき始める。
「ちょ、ちょっと落ち着いて……」
「おかしいよ……なんで……? 天使様がついてるのに……」
「て、天使様って……」
「天使様が導いてくれたのにッ!」
「佳苗ちゃん!」
彼女はテーブルに広げた弁当もそのままに、席を立って食堂を飛び出した。
「待って! 走ると危ないから!」
咄嗟のことで僕も釣られて立ち上がり、暴走車両と化した彼女を止める為に全力で走った。
しかし、意外なまでの俊足で距離は縮まらない。
「か、佳苗ちゃん!」
彼女は小雨が降る渡り廊下を駆け抜けて、校舎の扉を開いた。
一昨日の僕みたいに人とぶつかりそうになる気配もなく、校舎の中に消えていく。
「クソ! 速すぎんだろ!」
僕が校舎に入った時には、彼女の姿を見失っていた。
代わりに、階段を駆け上がる足音が反響している。
しかしその音は、すぐに聞こえなくなった。
2階で止まった?
1年生の教室は4階にある。
2階は僕たち2年生の教室がほとんどだ。
もしかして、僕の教室か?
彼女はさっきも『天使様』と言っていた。
なら、彼女がAIの天使を撮影した僕のクラスに行ってもおかしくない。
「AIの天使ってなんなんだよ!?」
階段を駆け上がり2階の廊下に出ると、一気に生徒の数が増えたが、その中に佳苗ちゃんの姿はない。
だが。
「天使様ッ! どうしてなんですかッ!?」
廊下中に、佳苗ちゃんの叫びが響き渡っていた。
そして僕のクラスの前には、教室内を覗き込む人だかりが出来ている。
「ごめん! 通してくれ!」
生徒たちを掻き分けて教室に飛び込むと、クラスメイト達の視線の先に佳苗ちゃんは居た。
「天使様ッ! 天使様ぁッ!」
「お、落ち着きなよ! アタシは天使じゃないって!」
菓子パン片手に僕の席に座る佐伯に向かって、佳苗ちゃんは発狂したかのように叫んでいた。
「佳苗ちゃん!」
「橘!? この子なんなの!?」
「僕の後輩だ! 佳苗ちゃん落ち着け!」
「天使様ッ! どうして私を裏切ったんですか!? どうしてこんなッ!」
「だからアタシは天使じゃないってば! 橘なんとかしてよ!」
「わ、分かった!」
返事をしたはいいが、話を聞いてくれそうにない。
ならば力づくで引き離そうと肩を掴んだが、彼女はその小柄な外見からは想像もできない力で僕の机にしがみつき、引き剥がすことが出来ない。
「私を裏切らないでッ!」
「ダメだクソッ! 佳苗ちゃん頼むから落ち着いてくれ!」
「橘くん、どいて」
突然そんな声が聞こえて、言われるがまま佳苗ちゃんの背後から身を離した次の瞬間、見逃しそうな速度の手刀が彼女のうなじを捉えていた。
そして狂乱していた佳苗ちゃんは、崩れるように床へ伏した。
「全く、どうして橘くんの後輩は問題ばかり起こすの? やっぱり先輩が悪いのかしら?」
そう言って溜息をついたのは、相変わらず冷めた顔をした委員長だった。
「お、おい。これ大丈夫なのか?」
「安心して、気絶してるだけよ」
「助かったけどさ、当て身とか最近は漫画でも見ないぞ」
「まぁ素人には無理ね」
「いいんちょありがと〜! マジ怖かったんだけど!」
「気にしないで。一度やってみたかったのよ」
「お前も素人じゃねぇか」
「そんなことより、この子を運ぶわよ」
確かに、落ち着いている場合じゃない。
クラスメイト達は困惑している様だし、何より僕も混乱している。
「とりあえず保健室か?」
「いえ、この子に話も聞きたいし、よく考えたら暴力沙汰だから、出来れば先生に見つからない所がいいわね」
「よく考えなくてもそうだろ」
委員長は冷静沈着に見えて、時折り突拍子もない行動を起こすことがある。
でもまぁ、こんな事で委員長が停学にでもなれば目覚めが悪い。
「なら、うちの部室はどうだ?」
「文芸部だったわね。それがいいかも。じゃあその子をお願い」
「ああ。分かった」
抱き上げた佳苗ちゃんは、想像以上に軽かった。
とは言え、お姫様抱っこは僕の筋力的に無理なので、肩に担ぐ形となった。
「山賊みたいでウケんね」
「うっせ」
佐伯に茶々を入れられながら、委員長と2人で教室を出た。
他のクラスメイトやすれ違う生徒達にも山賊と言われて注目を集めたが、先生とはすれ違う事なく、特別教室棟に繋がる連絡通路に辿り着いた。
ここまで来れば、生徒の数もぐんと減るからひとまず安心だ。
「その子よ。教室の写真を撮った1年生」
「ああ、やっぱりそうか」
例の写真を撮ったのが佳苗ちゃんだと聞いた時から、そうじゃないかと思っていた。
「それにしても、いくら佐伯が金髪だからって、あの天使と区別も付かなくなるなんてな」
「それは違うと思うわよ。佐伯さんは偶然あなたの席を使っていただけ。その子は佐伯さんじゃなくて、橘くんの机しか見てなかった」
「確かに僕の机だったけど、なんでまた」
「気づいてなかったの? 昨日見せてもらったイラスト、天使がいたのは橘くんの席だったじゃない」
「言われてみれば……そうかも」
なぜ気が付かなかった?
イラスト化されて少なからず全体像が変わっていたとはいえ、天使がいた窓際の席は、僕の席と大体一致するじゃないか。
「でもなんで、僕の席に天使が居るんだ?」
「それが分からないのよね。昨日の放課後に教室の写真を撮ってみたけど、それらしいものは写らなかったわ」
あのイラストの元となった写真にも天使は居なかったのだから、というか、そもそも天使が写らないのは当然だ。
「委員長は、本当に天使が居ると思うか?」
「思わないわよ。大方AIの誤認識でしょうね」
「まぁ、そうだよな」
「でも私は、全否定するほどリアリストでもないわ」
「まぁ、そうだよな」
そうしているうちに、僕たちは部室へと辿り着いた。
「あ、鍵借りてこなきゃ」
「閉まってるの?」
「多分――あれ、開いてる」
ダメ元でドアノブに手をかけると、部室の扉は音を立てて開いた。
それと同時に、コーヒーの香りが鼻をつく。
「あ、橘せんぱーい! ってうわっ、どういう組み合わせ!?」
「こら美也、うわとか言わない」
部室には狭山さんと鎌田さんが居て、仲良く弁当を食べている最中だった。
そこへ突然山賊スタイルの僕と、先日一悶着あった先輩が訪ねてきたのだから、狭山さんの反応は正常だろう。
「とりあえず入って下さい」
「お、おう」
「お邪魔するわね」
委員長が並べた椅子に佳苗ちゃんを寝かせると、2人は訝しげに顔を見合わせた。
「上級生に逆らうとこうなるよって、見せしめ?」
「違うから……。ちょっと色々あってさ」
「それで済ませるのは無理があると思いますけど、一旦それは置いておきます。先輩、昨日は失礼な態度をとってすみませんでした」
「あっ、私もごめんなさい」
2人に頭を下げられた委員長は、相変わらず冷めた表情のまま「別に怒ってないからいいわよ」と答えた。
少し声のトーンが高くなっていたのは、彼女なりに気を遣ったのだろう。
2人は顔を上げると、安心したように表情を緩めたのだが、鎌田さんは再び険しい顔で僕を見た。
「それで、どうして石森さんはそんな状態に?」
「確かに、佳苗ちゃんどうしたの?」
まぁ、そうなりますよね。
「話すと長くなるんだけど……」
「それより、パソコンを貸してくれないかしら。ここのパソコンで写真をイラストにできるって橘くんから聞いたのだけれど」
「え? 構いませんけど、それより先に石森さんの事を聞きたいのですが」
「出来れば早くしたいの。お願いできる?」
「は、はぁ。じゃあ美也、教えてあげて」
「はーい」
委員長は狭山さんのレクチャーを受けながら、スマホからパソコンに写真を取り込んだ。
教室の四隅から撮影した4枚の写真には、クラスメイトの男子が数名映り込んでいる。
「あー! ウチらには写真撮っちゃダメって言ったのに〜」
「私はちゃんと声をかけたから良いの」
「むぅ」
「それで、どうすればいいの?」
「えっとね、そのアイコン開いて――」
狭山さんの指示通りにパソコンを操作して、委員長はあっという間に4枚のイラストを作成した。
「居るわね」
「あぁ」
全てのイラストに天使がいた。
多少デザインは異なるが、いずれも金髪と真っ白な翼を生やし、僕の席からこちらを見て微笑んでいる。
つまりAIの誤認識じゃなく、本当に僕の席には天使が居るらしい。
「やっぱり天使は居たんだね!」
「そうだな。僕もビックリだよ」
「いや、ちょっと待って下さい。これ、おかしくないですか?」
嬉しそうにはしゃぐ狭山さんとは対照的に、鎌田さんは不信感を露わにした。
「どうした? まぁ、天使が居る時点でおかしいけど」
「そうじゃなくて、こっちです」
そう言って彼女が指さしたのは天使ではなく、こちらにピースサインを向ける女子生徒だった。
「さっきの写真、男子しか写ってませんでしたよね?」
「確かに、なんで女子になってるんだ?」
元の写真に写った男子達には、女子と誤認識する要素が見当たらない。
「それなら別に変じゃないよ。誰が写っても可愛い女の子になるように設定されてるの」
「誰が写っても? なんでまたそんな設定なんだよ」
「部長の趣味だよ。これ契約してるの部長だから」
「あー。なるほどな」
美少女を描くことに命をかけてる部長なら、確かにそんな設定にしかねない。
あの人、どんな漫画も男が出てくるだけで駄作扱いするからな。
「その設定消せないかしら? 出来るだけ原型に近い方が良いのだけれど」
「部長なら出来ると思うけど、このサイト全部英語だから、私は無理かなぁ」
「あたしも使ったことがないから分かりません。でも絵にするだけなら、無料アプリでもできると思いますよ」
「そうなのね」
そう言うと、委員長はすぐにスマホを操作し始めた。
よほど天使の素顔を知りたいらしい。
「そんなに気になるのか?」
「ええ。気になるわ。橘くんは気にならないの?」
「まぁ気にならないこともないけど」
天使というのは元々男の子のイメージもあるし、性別は特に気にならない。
「どちらかというと、どうして僕の席に天使が居るのかが気になって仕方ないよ」
「そうでしょうね。鎌田さんだったかしら? アプリはこういうのでいいの?」
「はい。大丈夫だと思います」
「そう。ありがとう」
委員長はそう言って、ダウンロードしたアプリを開いた。
一瞬見えたホーム画面の壁紙が、可愛い猫の写真だったのは少し意外だ。
「ちょっと、人のスマホ画面見ないで」
「あっごめんごめん。つい」
たまに忘れそうになるけど、委員長も思春期の高校生だ。
見られたくない画像が入っててもおかしくないだろう。
「橘先輩」
「ん?」
「ニヤニヤしてないで、そろそろ説明してくれますか? 石森さんがどうしてこうなったのか」
「あっ、えーっと……本当にどこから説明すればいいのか……」
「最初からすればいいよ。まだまだ時間あるし」
「そう言われてもな……」
佳苗ちゃんに告白されて、振ったら半狂乱になっちゃった!
なんて言えるわけがないだろう。
「死んではなさそうですけど、ただ居眠りしてるわけじゃないですよね?」
「ああ、委員長が気絶させたんだよ」
「こわっ! なんで!?」
「なんていうか、天使絡みで暴走しちゃったみたいなんだ。うちのクラスでちょっとした騒ぎを起こしてさ」
「天使絡みで暴走……ですか?」
「今はそうとしか言えない。そういう訳で、委員長が当て身で気絶させたんだよ」
「あてみってなに? っていうか委員長先輩やっぱりヤバいね」
「失礼ね、ヤバくないわよ。大体あなた、狭山さんだったかしら? 先輩には最低限の敬語くらい――」
――カツン。
委員長が言いかけた所で、そんな音が響いた。
それは委員長のスマホが床に落ちた音であり、落ちたスマホは滑るように僕の足元へ移動した。
「大丈夫か? 画面割れてなきゃいいけど」
「触らないで!」
手を伸ばした僕に叫んだのは、委員長だった。
彼女のそんな声を聞くのは初めてで、スマホを拾おうと曲げた体がピタリと止まる。
「ご、ごめん。僕はただ、スマホを拾おうとしただけなんだ」
「分かってるわ。それより、教室の写真と絵は、まだスマホに保存してあるわよね?」
「あ、あぁ。保存したままだけど」
「今すぐに消して」
「どうしたんだよ? らしくないぞ」
「いいから、早く消すのよ」
委員長はそう言うと、再びパソコンを操作して、画像フォルダから教室に関する画像を削除し始めた。
「あなた達も、保存しているなら消しなさい」
「あ、あたし達は保存してないですけど。ね?」
鎌田さんの問いかけに、怯えた様子の狭山さんはコクコクと頷いた。
血気迫る委員長に気押され、僕もスマホから2枚の画像を削除する。
「ほら、消したぞ。なぁ委員長、本当にどうしたんだ?」
「天使じゃなかった」
「え?」
パソコンの画像を削除し終えたのか、委員長は慎重な手つきで、僕たちには画面が見えないようにスマホを拾い上げた。
そして、その画面を見る委員長の表情は強張り、ブラウスから伸びる白い腕には、目に見えるほどの鳥肌がびっしりと立っている。
「待てよ、天使じゃなかったら何が写ってたんだ? 幽霊とか……もしかして妖怪か?」
「な、なんなんですか? 妖怪なんて居る訳ないじゃないですか。美也が怖がりますから、冗談でもやめてください」
「いや……」
僕はつい最近、妖怪が存在することを知った。
厳密に言えば僕は見ていない、いや見えなかった。
だが少なくとも、僕の目の前で妖怪に襲われかける人間の姿を2人分も見てしまったのだ。
だから、天使の正体が翼の生えた妖怪である可能性は十分にあると考えたのだが、委員長は首を横に振った。
「これは妖怪じゃないし、ましてや幽霊なんかじゃないわ」
「じゃあ、なんだったんだ?」
すると委員長は、震える唇でこう答えた。
「多分、神様」
「はぁ?」
神様。
それは予想から外れた、斜め上の言葉だった。