1‐7 変化倏然たる渡界の日に
「このドームの横ね。もたれかかる感じで、雨の中泥だらけでさ」
笑いあうのも悪くはないが、この調子ではあっという間に日が暮れてしまうということで、純恋が話を戻した。
指を差す先は、魔力視で視えた円の場所だった。
──魔力視は、使い手の魔力のコントロール力に比例して、視え方が変わる。
今視ている"扉"は、異なる世界を繋ぐ入口だ。
その開通には多量の魔力を喰うし、世界によって魔素の濃度は大きく変わる。繋がる世界同士の魔素の量が離れていれば離れている程、はっきりと知覚しやすくなる。
ましてや、今いるこの世界には、一切と言っていいほど魔素が少ない。
であれば、魔力視で視えるのは、この"扉"のみ。ということだ。
「……ここが、俺が渡った"扉"か」
「なんかあるの?ただの遊具にしか見えないけど」
「んあー、そっか。魔力って概念がないと、感じるのもできないのか」
辺りを見回す。お昼時になってきたからか、先ほどまでいた幾組かの親子舘は、殆どいなくなっていた。
遠くの方に、ベンチに腰掛ける初老の男性が見えるが、まあこの距離ならば問題ないだろうと、青白く視える"扉"に向けて、右手を伸ばす。
軽く手を重ねると、若干の揺らめきを感じる。
──恐らく、かなり動作が不安定だ。
世界と世界を繋ぐという、理を跨ぐ技術には、無論精密な魔力管理、座標指定、出力操作が必要とされる。
故に、動作が不安定、ということは、そのままリスクが跳ね上がる。
公言できないような、開発段階で失われた過去の尊い犠牲の多さたるや、得られた交流や物資などの面を考えても、トントン程度の成果だと言わざるを得ないのだ。
果たして、目の前の扉に魔力を込める。
徐々に魔力が混じり、視覚的な"色"を持ち始める。
青白く渦巻くそれは、自分の背丈と大体同じ程度か。やや耳障りに響く、ビニールを引き裂くような 音が、歪な成り立ちの元に存在するものであると言いたげに主張している。
「……昨日ひなと一緒に、帰り道に響を見つけた時からだけどさ」
静かに目を伏せ、諦めたように溜息を一つ。
「夢でもなんでもないんだね」
「──自分で、見なきゃ、きっと、みんな信じなかった」
「ああ、そうだな。すみれねぇもひなねぇも。嘘を言う人じゃないってわかってるけどさ。見間違いとか、なんかそういう感じのかと思ってた」
神妙な面持ちで、目の前に現れた渦を眺める。
そうだ。あっさり受け入れてくれたのかと思ったが、そんなはずはないのだ。
きっと、自分でも信じられなくて、嘘であることを期待していたんだろう。日常のまま、何も変わらないことを願って、ここに呼んで集まったのだろう。
「────ごめ」
「すごーい渦巻いてる!!」
搔きまわしたことへの謝罪をしようとした瞬間、喜色の声に遮られる。
「ほら、異世界だって!ファンタジーだよ!!」
「……えと、ひな」
「純恋のお父さん、ゲーム作ってるんでしょ!現実でもそういうのがおこるんだよ~!!」
完全に、温度が食い違っている。
「いや、ひなねぇさ。俺もそういうの楽しむ側の人間だけどさ、実際目の前にすると、なんつうかさ……」
「かおる」
「うん。わかってる。ひなねぇはこういう人だって」
中学組が、達観したように目から光を失わせる。
……うん。なんというか、『こういう人』という言葉が、全てを表しているのだろう。
そう認めた時、はしゃいでいる日向を尻目に、純恋がこちらを見て。
「んで、どうするの。元の世界に帰る、って言ってたけど」
他の三人も、こちらを向く。
「深くは聞いてないけど、やりたいこと、あるんでしょ。私たちとしては、あなたが無事に帰れるなら、それでいいしさ」
「──ああ、ありがとう」
ゆっくり息を吸って、吐く。
「無事に帰れるかはわかんないけど、ここが唯一の繋がりだろうし、潜ってみるよ」
大切な何かが、あったはずなのだ。
護るべき何かが、あったはずなのだ。
それらを取り返さないといけなくて。
また笑っていけるようにやらなければならない。
そんな使命が、自分にはあるはずだ。
だから、ちょっとだけ温もりを感じてしまったけど、
「助けてくれたこと、決して忘れない。だから──」
何事もなく、日常に帰れるように。
「──俺のことは、忘れてくれると嬉しいかな」
そう一方的に呟いて。
背中から落ちるように、扉へと身を投げ出した。
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孤独というのは、どうしようもなくまとわりつく闇だ。
徐々に心を湿らせ、光の届かない深い海底へと、揺蕩い落ちていくような。
段々と手を伸ばし、手の届かない深い谷底へと、揺らぎ落ちていくような。
そんな、何もかもが目に入らなくなってしまうほどの、隔絶。
自分から全てを諦めて、投げ出し壊してしまうほどの、虚無。
いつの間にか蔓延り、それらが当たり前のように寄り添ってくる。
一人が気楽な人もいる。独りになりたい時もある。
だけど、独りになる度に、無力でなんにも変えられない自分に、救いようがないほどの絶望が沈殿していく。
全てを失った自分への虚しさ。
全てを奪った事象への怒り。
全てが無くなったあの日への、羨望。
全てが自分を捕らえる過去の憧憬で。
同時に二度と癒えることのない心傷の情景だ。
だから、もう何も失いたくなかったのだ。
たった一つの"大切"も守れず、護るべき人々も置き去りにして。
そんな自分にいったい何の意味があったのだろうか。
自分じゃなければ、もっと零さずに拾いきれたのではないだろうか。
そういう不安ばかり混ぜ合わせた人生だった。
────いつか、心から笑える日が来るのだろうか。
先の見えない闇の中。
たった一人生き残った少年は、過ぎ行く日々に、別れを告げた。