1-3 変化倏然たる回憶の日に
両手で受け取る。ずっしりとした重さ、慣れ親しんだ感触に、不思議な安心感を覚える。
軽く一振……といく程の広さはなかったので断念。
「これをどこで?」
「どこでも何も、あなたのそばに落ちてたんだよ。ランドる自然公園ってとこ」「知らない場所だな」
「うーん、まあそうだとは思ったけどさ」
軽く頬をかいて困り顔を浮かべる。
自分より少し背の高い少女が浮かべるには、ややあどけなく、それでいて妙にしっくりとくる仕草だった。
「んー、そうなるとどう手を付けたものかな……。とりあえず、そこの窓開けてくれる?」
「これか」
「そーそれ」
桃色の布を端まで追いやり、手を添える。
軽く力を込めて押す。開かない。
横へスライド。開かない。
手前へ引──取っ手がない。
「あー、まじかぁ」
「まあまて…………魔法でもないな」
「何やってんのさ」
隣に立ち、おもむろに交差部分の金具を下す。カチンと、澄んだ音色が響く。
そのまま少女が横へ引くと、あっさりと空間が開いた。
「記憶と一緒に常識ごと吹き飛んだってわけじゃないよね……」
てことはひなの予想があたりかぁ、などと、一人頭を抱えていた。
「閂みたいなものか」
「んまぁそうなんだけどさ?今時閂なんて言う人そういないからね」
「俺も初めて見たからな。全体が金属なのに開く窓なんて」
開閉式の戸や窓というものは、木製の枠に硝子板をはめ込む形が一般的である。理由としてはいろいろあるのだろうが、資材である金属系統は、防具や武器、また製造設備というように、消耗品としての需要が高く、民間の家屋に配備する余裕がない。
さらに言えば、金属だろうが木材だろうが、耐久面ではどちらも風を防げるのだから、取り換えのききやすい木材で組むのがコストを抑えられる。
壁全体を石で固めようと、金属で固めようと、壊れるときは壊れるものだ。耐久力を上げたいのであれば、魔晶石を買うか、整備魔導士に頼んで防壁を張ってもらうしかない。
閂に金属棒を用いる場合もなくはないが、それなら防衛設備にその資材を用いたほうがよっぽどいい。
「とりあえず常識のすり合わせは後回しにして、外見てみて」
何やら色々と諦めのついた様子で、先を促す。
逆らう理由もないので、言われるがままに枠から外界を望む。
──視覚を疑った。
大きな石や鉄の塔が無数に聳え立ち、目下で鉄の塊がなかなかの速度で動いている。
別にそれ自体は──風貌としては圧倒されるものであったが──常識離れというほどの景色ではない。間違いなく都市として栄えている証拠であるが、ありふれるほどではないにしても、それなりに見る機会のある風景だ。
痛む頭を無視して、魔力視をつかう。
これは魔力の流れを見る技術だ。物や人に流れている魔力流を、視覚に重ねて知覚する。
まあ、学問や論理を全て投げ打つならば、『魔力があるかないか』を確認するものだ。
反応はない。導かれるのは、この風景すべてが機械仕掛けで動いているという結論。
なんなら、恐らくこの世界自体に、魔素という概念が存在していないのだろう。科学や物理学といった分野が、魔法学から独立して進歩した結果がこの景色になっているということ。
ついでにと見回したあの送風機も、この景色を映し出した"窓"も。
なにも、反応がない。
「……ここは、そもそも俺のいた世界じゃないみたいだな」
「そだね」
「記憶のあるなしじゃない。常識から異なっている」
「そりゃね」
「なんか、随分淡泊な反応だな」
「まぁ、予想もしてたし、色々諦めてたし」
なるほど、感慨を覚えたのは自分だけか。
人と感覚を共有できなかったことに、どことなく孤独を感じる。
──ああ、いや。この世界の住人ではないということは、正しく自分は孤独なのか。この感覚は正しく機能している。
「そういうことでさ、異世界から~とかっていうのが事実だと仮定してさ、これからどうしたいの。なんかやりたいこととか、ある?」
「やりたいことといってもなぁ」
なんせ記憶がないのである。今まで何をしてたかも、これから何をしたらいいかも不明瞭。霧の濃い森の中で「どっちに行きたいですか」と聞かれるのと近い感覚。
自身の記憶に手を伸ばす。あなたはどこの誰ですか、何をしていたんですか、何をしたいんですか……。
──空を包む月光。
「……っ!?」
──光り輝く暗雲。
──沈み滴る九十の刃。
──朱色に染まる大地の産声。
触れようとした瞬間、無数の光景が流れ込む。
いや、光景と形容するのはやや見当違いだったかもしれない。入り込んできたのは、ひとつひとつでは何も伝わってこない、言語の羅列。
それらの見えた言葉の数だけ、頭痛が増していく。鈍く、重く、響く。
僅かに見えるのは闇。ただただ何もなく続くかのように沈殿する底に、金属片が見える。複数の金属片が繋がるそれは、何かを縛るもの……。
触れるな、近づくな。そう言われているように拒まれ続ける。
そのことに僅かながら憤りを感じ、対抗心が芽生える。
それは俺の記憶だ、邪魔するんじゃない。
人体の危険信号など知ったことか。自分を見失って何が人か。
そう諭して手を伸ばし、
──昏く揺蕩う少女が、眦から一滴の雫をもたらした。
「大丈夫!?ねぇ!」
目を見開く。急に引き戻された現実は、打って変わって白く眩しかった。
視界いっぱいに少女の……先ほど見知ったすみれの顔があった。
「……ああ、うん。大丈夫」
「どこがよ?!すごい汗……今の一瞬で何があったの」
ふらつく肩に手を添えられる。お陰でまた地面に突っ伏す羽目にはならずに済んだ。
白色に眩んだ視界が元の機能を取り戻すまで、数秒かかった。
そこに広がってるのは言語ではない。物質で構成され、それらが光を反射することで色づき、知覚することのできる現実だ。
「いや、何でもない。それで、何かしたいことはないか、だったか」
「え」
息を吸う。吐く。明確な思考のもとに下された結論とは言えない。
ただ、これが今自身の抱く感情であり、やるべきだと思うことだ。
どこからやってきたかもわからない、この奇妙な使命感が、原動力そのものだ。
「元の世界に、帰りたい」
「──そっか」
目前の少女は何を思ったか。
「素性がどうであれ、君のことを疑うつもりも、今更投げ捨てるつもりもないよ。ひなが、君の事を助けるって言ったんだから、私はそれに付き合う」
「……ありがとう」
「あはは」
ただ一人、感情の読めない声と表情で、曖昧に、笑った。