1-2 変化倏然たる雨上がりの日に
自分はあの時、何を考えていたのだろうか。
何を思って、立っていたのだろうか。
平和とは何か、約束とは何か、信頼とは何か、希望とは何か、そして、日常とは何か。考えても考えても、答えは出てこない。
結局、自分は何も守れなかったのだ。
使命も果たせず、全てを失った者には、存在価値などない。
なのに、それなのに。
──何故自分は。
***
白が広がる。
体が、重い。
状況を把握しようと思い、首を巡らす。
見知らぬ部屋、見慣れぬ色合い、カーテンが閉められた部屋は薄暗く、若干光が漏れている。
天井の壁につけられた機械が、静かに心地良い冷風を送ってくれている。 そして今、自分はベッドに寝かされている。
ゆっくり体を起──落ちる。
何度か起こそうとしても、もれなく墜落する。
体に魔素が足りていないようで、全身が重い。
寸刻で重圧を無理矢理振り切り、ようやく上半身だけ起こして、辺りを見回す。
まず、ここは何処か。見覚えのあるものは無いし、そもそも見たことも無いものもある。涼しい風を送ってくれている冷房は、魔晶石が使われていないようだし。
とりあえず、自分が知らない部屋であることは確かだ。 まあ、それだけでなにかある訳でもないのだが……。
「気がついた?」
不意にかけられた声に肩が跳ねる。
同時に視界に映った声の主を見る。
長い黒髪と、同じほどに黒い瞳。
肌の色は色白の少女──魔力形質がどこにも見られない上に、練度の高い戦士のような風貌もない。角や翼がないところを見ると、種族は恐らく人間族。
なのに、気配を感じなかった。
「そんなに身構えなくてもいいと思うんだけど。って言うか、言葉。分かる?」
「……えっと、あぁ、多分」
咄嗟に腰へと伸びていた手を引き剥がして応答する。
確信ないなぁ、と曖昧に笑う。
毒気の抜ける、もの柔らかな少女。それが、今感じた第一印象。
「そっか、良かった。 えと、君名前は?」
「ああ、俺の名前は……」
名前……は。
記憶を探る。思考が止まる。過去を振り返ろうとする手が、凍てついたかのように動かなくなる。
自分に繋がる情報が、殆ど見つからない。
名前だけじゃない。生まれた区域はどこかも、大切な友人の名前も顔も、なんの為に自分が──
「あー、えっと、無理しなくていいよ?」
黙っていたからだろう、気遣うように覗き込まれる。
チリチリとした焦燥感が背筋を登る。
名前だけではない。全てではないものの、記憶が殆どない。
その事実が、喪失感を埋め合わせるかのように黒いものを淀ませる。
現在に囚われすぎていたのか、それとも現在に支障がなかったからなのか。どちらにせよ、今まで自分の記憶の欠落に気がつかなかった。
「気分悪くさせちゃったかな。 ごめんね」
「……いや、気にしないで」
首を振って、自身の不調を否定する。
分からないものについて考えていても仕方が無い。
奥底の記憶を引き出すには、きっかけという名の取っ手が必要なのだ。無い物ねだりして思い出せるなら、こんなに虚無感に纏わり憑かれているはずがない。
「聞いといて言わないのは不公平だよね。
私は純恋。今はこの家でほぼ一人暮らし。よろしくね」
「……すみれ?」
「そう、すみれ!」
嬉しそうに微笑む。
──どこか、懐かしい表情だなと。
とりあえず、引っ掴みやすいものを引きずり出す。
「……ここはどこなの?」
「んー?私の家だよ。」
「いや、それはわかるんだけどさ」
「えと、じゃあ、私の部屋?」
「いやそれでもないんだけど」
すみれが小首を傾げる。
先程辺りを見渡した時も、見たことの無いものが多い。
文字は読めるのに、家具類は仕組みが皆目検討もつかない。目の前の少女はといえば、魔力形質が出てる訳でもないのに服装が軽装すぎる。
筋力に乏しい女性であるし、甲冑鎧のようなものまでなくとも、せめて鎖帷子や武器程度は自室に置いとくものではなかろうか。
あるのは筆記具や書物、華やかという程ではないものの、可愛らしい色合いの斜光布やぬいぐるみ。それらには種も仕掛けもない。
整理された部屋に見えるのはそれらだけ。ただそこに存在し、視界に入ることが一番の役割であるそれらを見ても、身を守る物が無さすぎるのだ。
「あ、そういえばなんだけど」
思い出したかのように呟き、一方的にちょっと待っててと言い残すと、すたすたと部屋を出て、開かれた扉の奥に見える階段に姿を消した。
声をかける暇もなくいなくなった。
「これこれ……ひゃっ!?」
悲鳴とともに、ガシャンと金属質の耳障りな落下音が響く。
何をしているのだろうか。
軽装帯剣のような音ではないし、筋力賦活出来そうにない彼女の武器類ではないだろう。同じく防具類も候補から外れそうだ。
……となると、想定出来るのは外部からの侵入等だろうか。
上流階級とまでは行かなくとも、綺麗で無警戒な一人娘しか居ない家である。盗賊からしたら格好の獲物なのではなかろうか。
そう考えると不安になってきた。
自分って言わずもがな、この家に目をつけられる理由筆頭では。
なにせ記憶喪失の身である。無様に這いつくばる前に、何をしていたのかなど知る由もない。
厄介事を招き入れたとすれば、自分しかいないし、タイミングも正しく寝起きである。
「よっとっと。 はい、これあなたのでしょう?」
不穏な想像をかき消して、とととっと大きな金属塊を抱えて階段を駆け上がってくる。
「これは……」
精巧な鉄片が組み合わさり、ひとつの大剣の形となっている。
いや、正確には一振りの剣に多数のパーツが纏わりつき、大剣ほどの重圧をもつようになった、一つの芸術品というべきか。
自身の身長とさほど変わらない大きさに彩られた、空のような青色や、稲妻のごとき黄色が、儀礼用の剣かのように彩っている。実用性よりも見栄えを意識した。そう思える一振だが、直感で断言出来る。
これは、自分の剣だ。