閑話 才能が欠点になった少女
成績はいい方だった。
テストは大半が満点。 通知表はオール五で、授業では率先して発言した。 素行もよく小学校の先生達からは特に気に入られていたし、行事では小さな彼女には少しばかり多いと言える仕事を難なく請け負ってこなして来た。
運動はずば抜けていたわけではなかったが、筆記は誰にも負けていなかったし、そもそも実技も平均にはいた。
彼女は、それが普通だと思っていた。
事実、特別な努力をしていた訳では無い。
「あっ、それ日直の仕事だよね、手伝おうか?」
「ここの問題はね、ここの式をこれに当てはめて──」
テストは授業で聞いたことを紙に書くだけ。
授業で発言するのは先生に、分かる人は、と聞かれたから。
先生に気に入られたのも、通知表がオール五なのも、『出来ることを普通にこなしたらついてきた結果』それだけの事でしかない。
だから、彼女は始め理解が出来なかった。
その判断力も思考力も知識も、どれひとつとして働いてくれなかった。
「あんたさ、私達のこと見下してるんでしょ」
「──え?」
「いっつも自分が目立とうとして、人を馬鹿にして楽しい?」
三年生のとある日。 突然放課後、数人の女子にトイレへ呼び出された。
彼女には、目前の少女達が何に腹を立てていて、何を伝えたいのか全く分からなかった。
私は特に何かをしてきた訳では無いのに。
何をそんなに憤っているというのか。
「えっと、どういう事? 私、何かしたかな?」
「とぼけないで! あんたがそうやって可愛こぶって先生に気に入られようとしてたり、色々と気に触るの」
おずおずと声を出すも、ばっさりと切り捨てられる。
「と、とぼけてなんか」
ばしゃりと、弾けるような音と共に何かが降ってきた。
一瞬にして濡れた全身、喋りかけていたこともあり思わず咳き込む。
クスクスと聞こえる笑い声。 突き刺さるような視線。 嘲笑うかのような目。 凍てついた世界。 ガラガラと耳障りな音をたてるバケツ。 ずぶ濡れの私。
へたりと凍てついたタイルに座り込む。
一瞬にして冷たくなった頬を、暖かな雫が一筋伝う。
寒い。 寒い。
「確かに、私たちにはあんたみたいな才能がないの。 あんたのせいで私達は──いえ、そうやって自分を見せびらかして見下すあんたが許せない」
痛い。 なぜ? 何もしてない。 理解ができない。
何処で、間違えたのだろうか?
普通にやってきた。それだけで何もかもが上手くいってきたのだ。
才能? 私が? どういう事なんだ、何をしたからこうなっているというのか。
脳がエラーを吐き出し、歯車が致命的に狂った。
たった一度の衝撃は、彼女を歪ませ、壊した。
彼女は、間違えたことがなかった。
いや、実際は彼女が間違えた訳では無い。
そして、呼び出した彼女のクラスメイト達は、行動はズレていたが、幼い彼女等が、他人と比べられることに対する怒りや悔しさと言った悪感情を自己完結させる解決策を取れなかったのは、致し方のないことだ。
今日も、教室の座席は一つ、空いていた。
*****
暗く燃える昏れ、とぼとぼと帰路を歩いていた。
ここ暫く瑠璃を見ていない。 家に行こうと思っても、病気だと聞いては行っても迷惑だろうと、不安を押さえつけるばかりの二週間だった。
しかし、流石に長すぎる。 そう、知識のない小学生だった彼ですら思うだけの時間と違和感があった。
そして、彼は冒険に出た。
目の前にあるまっ白い壁と、青い屋根。
訪れるのは初めてな訳では無い。 むしろ良く見慣れた、何度も潜った親しい扉のはずなのに、とても重く、二度と開くことは無いのではないかと思わせる程の重圧感。
──ピンポーン。
…………。
──ピンポーン。
……………………。
震える手で押したベルに反応は無く、空虚な静けさが彼を突き刺した。
緊張なのか恐怖なのか、高揚なのか探求なのか。
扉に、手をかけた。
実際に触ってみると、扉はあっさりと開いた。
その先にあったのは記憶の中にある風景とは違い、怪しげな──いや、不気味な闇が、家内を包み込んでいた。
「……すみません、新宮さん、いますか」
自分で思っているより怯えているらしい、とようやく知覚する。
出てきたか細い声では届かなかっただろうと思い、息を吸い込む。
「すみません、新宮さん居ますか!」
恐怖を払い、力を込めて呼ばわったが、反応はやはりなかった。
勝手に入って良いものなのか、と。 彼は内心で葛藤していたが、結局内から湧き出る心配や好奇心といったものには逆らえなかった。
玄関を入り、薄暗い階段を静かに上がる。
何度も遊んでいた仲であることもあり、瑠璃の家の間取りは把握している。
階段を上った二階の突き当たりの部屋。 そこが、彼女の自室だ。
コンコンコン。
返事を待つが、玄関の時と同じく物音ひとつしなかった。
静寂の中に響く自分の鼓動は、どこまでも時間を引き伸ばした。
度重なる極度の緊張感は、薫の思考能力を根こそぎ削いでいた。 先程までの苦悩はもはやなく、幼馴染への心配や不安といった感情で押し潰されそうだった。
そして、彼は結局。 扉を、開けた。
広がってるのは同じく見慣れていたはずの部屋。
なのに、暗い。 家全体がどんよりと、暗い。
カーテンは締め切られ、ただでさえ昏れで入ってこない光を、徹底的に遮断している。 見回しても清潔な部屋で、変わりはないように思えた。 部屋の隅にあるベッドが、こんもりと膨らんでいるのを見るまでは。
「……瑠璃?」
返事はない。 動きもしない。
ランドセルを落とし、ベッドへと躙り寄る。
知らない誰かがいるのではないか、とか。
なにか飛び出して来るのではないか、とか。
自然と身構えてしまう体を無理矢理前に引っ張り続ける。
ベッドのすぐそば、手を伸ばせば今にも届く距離。
そこまで来ても、どうしようもなく届かない遠さのように感じて、どうしようもない浮遊感に苛まれながら。
布団に、手をあてた。
温かな感触は、自身を急激に現実へと引き戻す。
「瑠璃?」
返事はない。 軽く叩いてみても、揺すってみても。
温かいのに、死んでいるのではないか、などと。 根拠の無い不安が湧き上がってくるのは止められない。
意を決して布団をめくる。
「……起きてるか?」
白いシーツの上で、反対側を向いて包まり寝ている彼女がいた。
声をかけても反応はなく、まるで空っぽになってしまったかのような表情のまま、ぼんやりとうつつを抜かしていた。