閑話 ユミリアの夢 Ⅱ
この時計塔に入るのは、年に一度のメンテナンス目的の技術者だけ、ということになっている。
なので、足もとは非常に悪い。 上への足場は壁沿いに付いた出っ張りで、到底階段などと呼べるものでは無いし、構造に魔力も使っていないというのに無駄に大きくしすぎたせいで、中は補助用の歯車が入り組んでいる。
一歩間違えば、歯車に熱烈なハグをされ、一瞬で川を渡れることだろう。
まあ、想像すらしたくない光景ではあるけど。
(────けて)
…………。 未だに脳裏に囁かれる声。
多少は鮮明になったが、元が元で、未だに意図も内容も何も分からない。
気にしないことにして、不安定な壁を登る。
結論から言うなら、彼女はあっさりとその頂上部分へ到達した。 この身体はなんなく悪路を飛ぶようにして渡りきり、一片の疲れも見られなかった。
そしてそこから、大時計の裏側をもうひとつ登ると、街全体を悠然と眺められる、隠れに隠れたお気に入りの特等席。
今では眺められるのは赤い家や道と、空を黒く染め上げる焦土の黒煙だろうと思っていた。のだが。
「……黒い逆さ十字」
正確にはそれと鎖に拘束されたなにか。
天使の像とも形容できるそれは、背中にふわふわとした容貌の羽を持った、硬質の石材。
まるで祈るように両手を組み、その輝いて見える白い体は、印象とは正反対の黒い鎖をその身に受けていた。
「…………」
視界に映るだけで胸が騒ぎ出す、締め付けられる。
少しだけ揺らめく足を前へと動かし、石像の前──黒逆十字の前に立つ。
「久しぶり」
何故自分でもそう呼びかけたのか分からない。 ただ小さく呟いたかのように出てきた声に、目の前の像の輝きが、チラリと揺れた気がして。
自然と上がった右腕をそっと逆十字へ当てる。
胸をざわざわとかき乱す感覚。
どろりと、スライムに手を突っ込んでいるような、沼の上を歩くような、沈み込む感触はとめどなく心の中の不安を煽る。
一瞬。
パキンと砕ける音がして、液体に触れているかのような手触りは、すぐさま現実の硬質感の塊に引き戻された。
いつの間にかあの黒い逆さ十字架は割れて転がっており、鎖は引きちぎられたかのようにバラバラの残骸へと成り果てていた。
そして更に現状に付け加えるならば、天使の像の胸部に亀裂が入り、ボロボロと表面が崩れてきている。
「……なにが、起きたの」
問いに答える声はない。 ただ目前の物質が変質を遂げるだけ。 身体が硬直していて、思考も何倍にも伸ばされて。 ゆっくり剥がれていくそれを、数分と感じる程度には眺めていた。
頭の先とつま先が同時に剥がれると同時に、生身になった天使が、膝を折り落下──するのを咄嗟に飛ばした両腕でポスンと受け止める。
サラサラとした金色の髪、人形を彷彿とさせる真っ白とした肌。 肌とさほど変わらない純白の まるで人ではないような、という比喩が見事に当てはまる容姿をしている。
あなたはだれ? どうしてここにいるの?
そんな自分にも跳ね返ってきそうな問いがどんどん浮かんでくる。
「あ、あの、すみません、生きてますか?」
軽く声をかけて揺さぶってみる。
最重要な項目だけ聞いたのだが、返事がないのでは会話が続かない。 いや、会話になってるのかも分からないけど。
「──交わる針と、世界」
「……!? え、あの、お、起きてますか?」
ビクリと身体が跳ねる。 声の方向が掴めない。腕の中を見るが、そこにあったのはお人形さんのような天使だけ。
辺りを見回してみても、なんせここは時計台の最上層。他に人なんていないし、隠れられそうな場所もない。
「ユミリア?」
先の声、今度こそ聞こえた位置を特定して俯く、と。
「ひゃっ!? 」慌てて手を離す。
「うっ……いたい」
むくりと起き上がった女の子を見つめる。
小柄と言われる自分よりやや小さめ──百四十センチ程だろうか? そこそこの高さだったと思うのだが、痛いと言いながらもすくっと立ち上がったし、見える範囲には傷もなければ土埃のひとつも見受けられないほどに、眩しく白い。
こちらをじっと見てくる幼げな不思議ちゃんは、視線を合わせようとすると若干逸らすが、明らかにこちらを意識し続けている。
声をかけようと思っても、何を言えばいいのか分からない。 喉に引っかかった言葉は出そうに思えても出てこなかった。
「ユミリア」
「……えと、」
ユミリア。 さっきと同じく呼ばれる。
「それ、私の事?」
「……うん」
素直に頷く。 あどけなさとミステリアスが混ざり、具体的なイメージが持てないまま、無表情に近いその顔からは何を考えているのか読み取れない。
「……覚えてないの?」
「いや、まあ。 うん、そうね……」
「……そっか」
言い訳も思いつかず流されるように白状するが、それを受けて無表情だった顔が、少しだけ悲しそうに影を落とす。
──どことなく見たことがあるような、ないような。
朧気な印象に更に霧がかかった、ような。
そんな不確かでしかない記憶しかない。
「……ユミリアは、帰りたい?」
「え?」
帰る? どこへ? 思いめぐらす。
この幼女が問いかけてきそうな共通の記憶──いや、違った。
そもそも、思い出せるような記憶が、ない。
「……帰りたい?」
「──わかんない」
素直に口に出す。 覗き込んでくる彼女は、次の言葉を待っている。
何を思ってるのかはわからない。 けど。
「──やらなきゃいけない事があるの」
「…………」
「会わなきゃいけない人がいるの。 大切な人を裏切って、全てを消した、それを謝らなきゃいけないの」
「……そっか」
軽く頷き、一歩下がる。
「良かった。 また、会いに来てね」
そう呟いた一瞬。 世界が暗転し、意識は闇にのまれた。
私はあの時、何を考えていたのだろうか。
何を思って、立っていたのだろうか。
なんのために私は生まれて、何故私は居るのだろうか。
考えても考えても、答えは出てこない。
結局、自分は何も守れなかったのだ。
使命も果たせず、全てを奪った者には、存在価値なんてない。
なのに、それなのに。
――何故私は。
5/31の更新ありません。次回更新6/2となります。
よろしくお願いいたします。