己に克つ
父親に連れられて、伯父の家に来ている小さな男の子がいる。この子は病弱で体が弱く、親戚の間でも心配されていた。
「明宏、今日はこれをあげよう」
そう言って伯父が明宏と呼ばれた少年に渡したのは、大きな素振り用の木刀だった。明宏の背丈を優に超える長さがある。
「伯父さん、重いよ~」
木刀を受け取った明宏は、その重さでふらついていた。伯父はその様子を見て、にこやかに笑いながら、
「その木刀を一日5回でも10回でもいい、振ってみなさい。50回、100回と振れる回数が多くなったら、お前の体も丈夫になるはずだよ」
と、優しく諭した。この伯父は、地区でも名の知れた剣士で、全国クラスの剣道の大会でも好成績を収めている。
「体が丈夫になるの?」
「そうだ。それに、その木刀は己に克つ……ちょっと難しいか。自分に勝つお守りなんだ」
伯父はやや真剣な表情でそう言ったが、明宏はきょとんとしている。
「今は意味がよくわからないだろう。それを振っているうちに分かってくるさ」
伯父は明宏の頭を撫でた。
明宏は、その木刀を毎日振るようになった。最初は5回振るのがやっとだったが、振り続けていく内に、振れる回数も次第に多くなっていった。そして、20回程振れるようになったある日、
「剣道をやってみたい。」
と、両親に明宏は打ち明けた。両親も、明宏が木刀を振るようになって、徐々に体が丈夫になっていくのを見ていたので、興味を持ったのならと思い、道具を一式そろえ、近くの剣道場へ通わせることにした。
明宏の剣道の筋は良く、上達も早く、少年剣道錬成大会での成績も、木刀を振れる回数が多くなるにつれて、良いものが残せるようになった。
そして、明宏は剣道を続け、高校3年生になった。この頃には、伯父からもらった木刀を、振ろうと思えば日に1000回は振れるようになっている。体も病弱だった頃を思い出させない、立派に鍛えられた体格になっていた。
インターハイ個人戦決勝。
(あいつも強くなったな……)
決勝まで勝ち進んだ明宏は、相手のことを考えながら防具の前で正座していた。決勝の相手は、同学年ながら明宏の背中をずっと追いかけていた、真史という剣士だ。力を付けてきて、決勝まで勝ち進んだようだ。ただ、実力では明宏の方が一枚上手である。
時間になり、試合が始まった。どちらも正眼の構えを取り、互いに相手の眼を見据え、寸分の隙を探している。
時間が少し経過し、打ち合いも幾度かあったが、どちらも決定打とならなかった。そして試合は続き、明宏は真史の僅かな隙をつき、素晴らしい面を放った。
(決まった!)
明宏はそう思ったが、真史はその面をかわし、出小手を返した。
「小手あり!」
審判の旗が三本とも上がった見事な出小手で、その一本を明宏は返せず、決勝は真史の勝ちとなった。
「お前に負けるとはな、強くなったな」
明宏は真史に試合後話しかけたが、真史からは、
「お前に勝ったんじゃない、今日は己に克てたんだ」
と、清々しい表情で返された。明宏は脳天を打たれた気がした。
(己の慢心が俺にはあったのか……己に克つとはそういうことか)
少年の頃に伯父が言った言葉の意味が、明宏にもようやく分かりかけてきた気がした。
明宏はその後も剣道を続け、社会人として働くようになっても木刀を振り続けた。
色々な困難に当たった時は、精神を落ち着け、木刀を特によく振った。それにより、何事にも耐え、切り抜ける精神力が明宏にとっては得られ、不思議と困難を処理できた。
己に克つ。勝つのではなく、克つことの繰り返し。