悠久の初恋
一人称は桜の木です。
悠久の自然から見た刹那の時を生きる人間がどんな風に映っているのか、ということを思い描きながら書いたお話です。
ずっと此処にいる。
昔は多くの人々に寿がれていたのに、今私に関心を示す者は誰もいない。
私が立っているところからは一軒の家の窓が見える。もうずいぶんと永く此処でいるけれど私に気をとめる者はいない。
そういえば、最近女の子が産まれたらしい。名前は確か……
「うわぁーー!きれい!」
思案しているところにあどけない声が聞こえてきた。視線を下げると、まだ肌寒い最中に淡雪かと見まごうほどの小さな薄紅の欠片をその手のひらの上にのせて微笑む少女が映る。その少女の頬は淡色の欠片と同じ色をしていて、ふっくらと柔らかそうだった。
暖かい春日の中、雲が穏やかに頭上を流れてゆくのを感じる。
ーー脆弱な人の子だ。
「はるだねぇ。はじめまして、わたし、『はなき』っていうの。よろしくね!!」
どうして忘れていたんだろうーー。
消えてしまいそうなほど淡く、それでいて本当に心の底から幸せそうに笑う月季(大輪の薔薇のこと)の微笑を持つ
少女。……『儚』い『姫』と書いて『儚姫』とはよく言ったものだ、と思ったのは一体いつのことだったか。
古い記憶の箱の蓋が微かにずれる音がして遥か昔の思い出が浮かび上がる。
❀ ❀ ❀
「あなた、《ソメイヨシノ》っていうの?美しい花びらね。こんなにもきれいな桜は初めて見るわ。とっても優しそうな色をしていて、素敵よ。」
その頃彼女はまだ13~15歳ぐらいで、あどけなさの残る顔に満面の笑みを浮かべていた。
ーー初めて私を喜び、大切に育ててくれたお姫様である。
ある時は
「今日は琴の琴のお稽古があったの。早く雅楽寮の人たちのような美しい演奏をしてみたいわ。」
と言い、
またある時は
「唐の漢詩には和歌とは違った趣があってね……」
「あのね……私、とある方から恋文をいただいて……」
など毎日のように沢山の話を聞かせてくれた。
彼女の名は『儚璃』と書いて『はなり』と言った。反射した光を取り込んだ瞳が柔らかな瑠璃色に透き通る、美しい姫であった。
時折のぞかせる憂いを孕んだ微笑は、頼りなさ気ではあるが、健やかな幸せに満ちていてこちらの心までもが綻ぶ。
こんな調子で彼女は毎日のように会いに来た。
春は満開に咲き誇る私を言葉の限りを尽くして寿ぎ、夏になれば見事に茂る青葉の木陰で寄り添うように、避暑を楽しむ。
ただ、中でも秋だけは特別だった。秋は桜にとって一番と言ってもいいほどに煩わしい季節である。夕暮れ時に遠くから夕日を反射する様子を見るぶんにはまだ美しいのだが、近くで見るとそのまま目を背けずにいられる者が一体どれほどいるだろうか?
皆、春に私を見るときとは態度を豹変させて、私を避けた。桜が美しくあり続けるためには、人の手による手入れが必要だ。
それでもやはり、毛虫や尺取り虫のような虫の駆除は誰もが嫌うところであるから、仕方ない。
だから、秋は正直会うことを諦めていたのだが、いつものごとく彼女はやって来た。
その手に良く使い込まれてはいるが、大切にされていることが一目で分かる上品な香炉を持っており、何を始めるのかと思って見守っていると私の根元で何やら焚き物を始めたようである。
「父さまがね、唐のほうから取り寄せた、虫退治用のお香なのですって。……人間やあなたに害はないそうよ。少しでも和らげば良いのだけれど。」
かくして少女の思惑通り、次の日には私の足元には大量の虫の死骸が転がった。彼女はそれを見て虫が怖いのか害虫駆除に成功したのが嬉しかったのかきゃっきゃ、きゃっきゃと大はしゃぎしながら私の周りを掃除した。
つくづく変わった娘である。
ちなみに冬には雪かきがてら私の傍らに小さな雪うさぎを作ってくれた。
❀ ❀ ❀
儚璃は誰よりも、優しかった。
「あなた、子供ができないってほんと?淋しいね……。」
いつだったか、彼女はこんなことを言った。私はそれに応えるようにしてさよさよと梢を僅かに揺する。
それが意味するのは、ーー是
私は人によって人の目を楽しませるためだけに作られた存在。人間の手で作られながら悠久の生を受けた代償として、子孫を残すことが叶わなくなった美しい桜。
ーーそれが、私たち《ソメイヨシノ》
「だからね、私に子供が産まれたら、一緒に可愛がってね。約束よ!」
私は返事をする代わりに満開に咲き誇る花たちをしゃなり、と揺する。
その時の私は自分が悠久の自然であることをすっかり失念していた。彼女の存在はーー笑顔は、忘れてしまうにはあまりにも愛しすぎて、人や自然などという狭い枠を越えるには十分なほどに大切だった。
しかし、彼女が人の子であることには変わりなく、悠久である桜と同じ時を歩むことなどできようはずもなかった。
ーーだから、耐えられなかった。
……彼女がいつかいなくなってしまうことぐらい、解っていたはずなのに……
それでも、心に空いた穴は思っている以上に深く底が見えなくて自分だけでは到底埋められそうもなかった。
彼女は儚くなる前に言伝を残していったという。
彼女のお父上にあたる人が
「娘の……儚璃の日記です。きっと、これはあなた様に宛てられた物でしょうから、どうぞお受け取りください。」
と言って、私の根元に埋めてくれたそれにはこう綴られていた。
ーー親愛なる桜花さまへ
誠に残念ながら私は不治の病というものに罹ってしまったようです。もうあなたには会いに行けないかもしれません。あなたがこの日記を読んでくださっていることを願って想いを綴ります。
私が知る人は、皆あなた方を美しいと言いますけれどなぜ美しいと思うのかと聞くと、ある者は花びらをーーまたある者は花の散りゆく儚さをーー愛しく、美しいと思うのだ、とおっしゃるのですよ。
でも私はそうは思いません。だって、散るから儚いだなんていったい誰が決めたのですか?
花が咲いていても咲いていなくてもあなたはずっと“ソメイヨシノ”という桜の木だというのに。私たち人間は勝手です。あなたから子を奪ったうえに春だけは良い顔をして花を愛で、花が散ると存在をも忘れ、何事もなかったかのようにあなたを独りぼっちにしてきた。
ーーあなたは、遥かなる悠久の時を生きるもの
私もあなたを一人残して運命を終えようとしている。
ごめんなさい、ずっと一緒にいてあげられなくて。……寂しく独りぼっちでいたのはいつも、あなただったのに。願わくはあなたの傍で久遠を生きて、いたかった。
……約束、守れなくてごめんなさい。でも、いつか必ずまた会えると信じているわ。
だから、その日までほんの少しのお別れ。
あなたのような気高く美しい桜に出会えて幸せでした。
ーー心から、ありがとう。
なんて温かいのだろう。
一つ一つの言葉が、身体全体に染み渡るような心地がした。彼女が残していった全ての言葉が自分に向けられたものだということが、たまらなく嬉しかった。
伝えられるものなら、伝えたい。
ーー本当に幸せで感謝していたのはこちらの方なのだ、と。
自分がただ儚いだけの桜でないことに気づいてくれたのは唯一、彼女だけだったから。それが、ただそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
それ故に彼女は特別なのである。
ーー人の子でありながら気まぐれな自然を夢中にさせたのだから。
❀ ❀ ❀
彼女がいない年月はとてつもなく永く、果てしなく感じられた。
時は、儚璃など初めからいなかったかのように流れてゆく。
時代が変わるに連れ、邸に住む人も変わっていった。時には邸さえもその姿を変え、思い出だけを着実に刻みながらじゅんぐり、と今ある形へと路を歩んできたのだ。
たくさんの人間を、見てきた。どんな人にも個性があって誰一人として同じ人はいなかった。
ある武士の一族、政治家、売れない漫画家、若いカップル、泥棒、拡大家族、独身、名医、老夫婦.....住む人もさまざまであれば、それぞれの運命もまたさまざまであった。
不治の病だと言われていた病や伝染病にかかって運命を全うせず、幼くしてその命を落とすものから時代にそぐわず長生きをするものまで、その全てをずっとずっと此処で眺めてきた。
確かに初めは、ただただ興味深く感じて『ヒト』という存在を視ていたが、もう、飽きてしまった。
私は十分永く生きた。以前ならまだ私を寿ぐ者もいたが今ではもう誰も私を寿ぐ者はいない。ーーそれどころか、もはや私に目を向けるものすらいなくなってしまった。
だから、もう枯れ果ててしまってもいいだろうか。
儚璃は残酷で、美しい少女だ。
彼女の儚くも気高い生き方に心を奪われて、今までずっと生きてきたのだと言ったら、彼女は一体どんな顔をするのだろうか。いつものような月季の微笑を浮かべるのか、はたまた驚いたような呆れたような笑みを浮かべるのか。
……でも、もういいんだ、これで。
私は見えない言葉の檻の中に鎖で繋がれていた。彼女に固執しすぎるあまり、永く生きすぎたのではないだろうか。
悠久の自然である私を夢中にさせた、たった一人の女の子。
だけど、もう十分。だから、この春と共に…………
❀ ❀ ❀
「……わたし、『儚姫』っていうの。よろしくね!!」
奇跡だと、思った。まだ彼女の声は鮮明に甦ってくる。ーーあの日のまま
「「そうだ!……『儚姫』ってどうかしら?決めたわ。私、子供ができたら名前は『儚姫』にするわ!」」
ーー『儚』い『姫』と書いて『儚姫』とはよく言ったものだ、と。
あれは、このときに抱いた気持ちだったのだ。
どうして、忘れていたのだろう?ーー否、忘れてなど……あれから一日たりともこの事を忘れたことは、なかった。
……忘れられるはずが、なかった。
彼女とのかけがえのない思い出なのだから。ーー忘れようとしても忘れられなかったから、自らその思い出のつまった宝箱に蓋をしたというのに.....。
風が心地よかった。
「げんき、ないの?わたし、さくら、すきよ。また、つぎもきっとさいてね。……きっと、だよ?“やくそく”だよぉ!!」
ーー約束。
儚璃姫、そなたは約束を破ってなどいない。
今、私の目の前で満面の笑みを浮かべているのは間違いなく彼女の子孫だ。彼女が居なくなってから流れた年月を思えば、儚璃の直接の子では有り得ない。しかし、私には彼女がーー『儚姫』が間違いなく儚璃の血を引いていると分かった。
そこに残る儚璃の血はもうかなり薄いのかもしれないけれど、儚姫の浮かべる月季の微笑みは忘れようにも忘れられない彼女の面影をしっかりと受け継いでいて。
本当によく似ているな、と胸が熱くなる。
儚璃の残した思いが巡り巡って、『儚姫』という名を持って再び私を見つけてくれたのだ。
そう思うと嬉しさが一気に込み上げてきた。
それならば、もう少し生きてみるのも悪くない。儚姫の成長をせめてあと少しだけ見守っていたい。
ーーだって、儚姫は彼女が残したたった1つの私への“贈り物”なのだからーー
ただ一言、“ありがとう”。
❀END❀
少し切ないけど、心温まるお話を書きたかったのですがいかがだったでしょうか?
このお話は、私が初めてソメイヨシノの存在を知った時に思いついたものです。
当時から私はずっとずっと桜の花が大好きでしたが、よく見かけるソメイヨシノの秘密を知って驚きました。接ぎ木でしか増えることの出来ない、繁殖機能を奪われた植物、とは人間のように心が無くても凄く悲しいなと思うと同時に、だからこそこんなにも美しいのかなと.....そんな儚さに心を打たれ、もし心があったらと想像したのです。
拙い作品ではありますが、読んでくださってありがとうございました!






