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第2話 雨中の猫

       -2-


 散りかけの桜が春の雨に濡れて下を向く。 

 大粒の雨がガルバリウム鋼板の屋根を叩いていた。生徒達の喧騒は雨音にかき消され耳に届いていない。身に纏わり付くような水気と冷気、その空間は降りしきる雨に支配されていた。


 蒼樹あおきハルは、体育館と校舎を繋ぐ渡り廊下の一角でぼんやりと中庭に降る雨を眺めた。

 溜め息をつきながら黒雲に埋め尽くされた空を見上げる。

 まったく、いつまで降り続けるのか。


 辟易としながら雨に濡れる緑を見ていると……。

 それは唐突に姿を浮かび上がらせた。


 ――なんだ?


 雨模様の中に幻と見紛うほどの美を見つけて浮き足立つ。

 目をこすり何度も見直す。

 水煙の中に凜としながら佇む猫を見つけた。

 美猫と称してよいかどうかは分からないが、その猫はまるで魂を吸い寄せるかのようにハルを惹きつけた。


 美しい猫だった。

 雨に濡れて色を濃くする毛並み。銀の艶は濡れていてなお輝きをみせ品格の高さを醸し出す。魅惑的な瞳が印象を強く意識に刻み込んだ。一瞬で心を鷲掴みにされると、ハルはそこから一歩も動けなくなってしまった。

 透き通る瞳。猫の緑眼は宝石の王様の如く美しかった。パッチリと開いた丸い眼、キュッとつり上がった目尻は気位の高さを思わせた。

 胸がキュンと鳴った……。

 心を奪う妖艶なる存在。それは二本の尾を持つ風変わりな猫だった。

 周囲の木々と共に濡れる猫は、ハルの存在をあたかも空気のようにして気にも留めなかった。その距離は近い。気が付いてはいるのだろう。しかし猫は、あくまでハルのことを無いものとして扱っているように見えた。


「ねえ、君、こんな所で一体何をしているんだい?」


 何の気なしに声を掛けてみたが返事はなかった。


「どこから来たの? ねえ、君」


 次も返事をくれなかった。つれない態度の猫。それでもめげずに話しかけるが、猫は無視を続けた。猫は一点を見つめたまま動かなかった。


「ずいぶんと濡れてるじゃないか、そんなんじゃ病気になっちゃうよ」


 言いながら、バッグの中からタオルを取り出そうとすると、ようやく猫が振り向いてくれた。だが、出会いの時はそれまでだった。

 瞳に愁いを湛える猫は去る。

 去り際に一瞥をくれた猫は、滝のように降る雨の中、運動場を横切るようにして走り去った。ハルは猫が消えた後も暫く呆然としたままその場に立ち尽くした。




 その日は授業に身が入らないまま午後を過ごした。放課後には居残りまでして美猫を探し回った。あげく、このように途方に暮れて生徒玄関から出るはめにあった。

 手にしている傘がいつも以上に重かったのは大雨のせいばかりではない。項垂れる首が重たかった。

 失恋に近い妙な心持ち。落胆の中に聞こえてくるのは雨音のみであり、普段何気に捉えている雑音は耳に入って来なかった。失意が意識を一本の線のように収束させると、そのコンセントレートした心が殊更にあの美猫のことばかりを考えさせた。


 ――何故、こんなにもあの猫を気にしてしまっているのだろうか……。

 とりわけペットに興味をもっているわけではない。雌雄に拘ることも当然ない。それなのに、そわそわする心はあの猫が女の子であると確信している。迷いさえなかった。


 ――恋をしているのか? まさか、猫に?

 深く溜め息をつき首を振る。やれやれ、やはりどうかしてしまったようだ、とハルは妄想をかき消した。


 帰路につき、再び恨めしく雨空を見上げる。気持ちを切り替えて一歩を踏み出した時だった。唐突に背中からドンと衝撃を受けてハルは蹴躓く。うおっと、という間抜けな声を出しながらバランスを取った。体勢を整えて前を見ると……。


 水たまりを浮かべる地面に倒れ込んだ女生徒が震えながらこちらを見ていた。

 しこたま濡れて髪から水を滴らせる様子を不審に思って声を掛けようとすると、鞄を胸に抱えたまま少女が首を横に振る。何かに怯えているようだった。

 なんだろう、ハルは首を傾げながら周囲を観察した。

 その場には自分と女生徒の二人だけ。打ち付ける雨の他に動くものはない。付近の校舎にも辺りにも人の姿は見えず、取り立てて異常もなかった。この子はいったい何から逃げてきたのか。


「どうしたの?」


 そっと傘をかざして声を掛けると少女は、あっ、と小さな声を漏らしながら我に返った。辺りを見て、ハルを見て幾らか安堵した様子を見せるが、唇を噛みながらこちらを見る目はまだ異常な揺れを見せていた。


「なんでもない、ごめんなさい」


 話すなりその場から逃げるように駆け出す少女。

 雨の中に消える華奢な背中を見送ると再び耳に地を叩く雨音が戻る。同時に見ている景色が色づいたことに気付く。元より灰色の雨景色だったがそれでもいま、確かに色が戻った。――なんだこれ? 手から傘がはらりと落ちる。

 この時ハルは夢の中から現実に戻ってきたような奇妙な感覚に陥っていた。

 おかしな一日だった。二尾の猫と出会い、逃げる少女に追突される、立て続けて不可解な出来事に遭遇したハルはいったい何なんだ、と雨の中で独りごちる。

 濡れた傘を拾おうとした際に生徒手帳を見つけた。おそらくぶつかったときに彼女が落としたものだろう。


「……宮本みやもと円香まどか、同じ一年か」



 

 帰りのバスに乗り込むと乗客は少なく座席は疎らに空いていた。

 最後部のシートに座り窓枠に肘をついて流れる景色を見た。もう何事も考える気にならなかったので、あるがままに無気力、無思考のまま雨が打つ路面を見ていた。

 一つ目の停留所に着く、バスが走り出す。次の停留所に着く、またバスが走り出す。止まっては走るバス、停留所の数を数えることに飽き始めると心に虚無感が湧いてきた。そこに寂しさが降りてくる。


「だから、雨は嫌なんだ」


 ポツリと独り言を溢す。閑散としたバスの中で溜め息をつく。どんよりと重くなった気分を振り払おうとして首を振ったその時、突然、不穏な気配を感じ取って心がさざめいた。何の気なしに耳が車内アナウンスを拾う。


「次は神社前、神社前です。お降りのお客様は――」


 モノクロに変わった景色が僅かにクラクラと揺れている。この感じは、と先程の生徒玄関での出来事を思い出した。

 これは、なんだ? 感じたままに視線を向けると……。

 そこに二尾の猫を捉えた。ハルは目を見開いた。瞬時に鼓動が加速する。視界に映る不可思議を凝視した。何かに化かされているような気分にもなっていた。

 追わなければいけないと考えたのは衝動だった。猫を見定めた時にはもうバスが停留所から動き出そうとしていた。目はその一点を見つめて動かない。動き始めたバスは自分から猫を引き離そうとしている。ハルは突き動かされた。心が激しく波立っていた。


「すみません! 降ります! 降ろして下さい!」


 考えるより先に声が出ていた。急停止に身体を揺らしながら前方の降り口へと走る。ハルは矢も楯もたまらずバスから駆け下りた。


「確かに居た! 僕は見た! 猫は、あの猫はどこだ!」


 身を叩くほどの大雨の中である。視界良好とはいかない。車内に傘を置き忘れたため直ぐずぶ濡れにもなった。それでも構うものかと辺りを探し回った。

 濡れた前髪が視界を隠す。前髪から滴り落ちる水で目が痛む。激しく揺れる心のままに邪魔な髪を掻き上げると大粒の水飛沫が宙を舞った。


「幻とかって、それはないよな……」


 既に姿を見失って望みは潰えそうになっているが、それでも、今度こそ猫を手放すまいとして目に見たものを言葉にした。失意に肩を落としながらも探すことを止められない。現実を肯定できなかった。

 気が付けば下着までずぶ濡れになっていた。走る事を止めた身体からどんどん熱が失われていく。徐々に冷えていく頭が自分の愚かさを嗤い始めた。


「なにやってんだろう、僕は……」


 悔しさに唇を噛みながら思い出した「神社前」のアナウンス。そこは自分が降りるはずの停留所から三つ前の停留所であった。

 目が現実の景色を認識し始めると目先に木々に囲まれた社が見えた。大雨の中を徒歩で帰宅するというお寒い現状、徒歩での帰りを考えれば社の中を突き抜けるのがショートカットとなる。

 ハルは仕方なしに歩き始めた。傘もなく足取りは重かった。

 社の入り口に立ち大きな鳥居のすぐ横で天を見上げれば、朱色の柱に添って勢いよく走る雨が顔を叩いた。ひどく落胆していた。


「だから雨は嫌いなんだ……」


 今日が大嫌いな雨の日ならば、運も悪い。ハルはツキのなさを嘆きながら社の中へ進んだ。境内に入ると静寂があった。荒んだ心を落ち着かせようとして深呼吸する。社を包み込む厳かな空気のせいだろうか身体がどことなく緊張していた。


 玉石を踏みしめる感触を足裏に抱きながら参道を歩いていく。向かう裏門の方に顔を向けるとひと際大きく聳える銀杏の木が見えた。

 なんて立派な木だ、樹齢はどれくらいなのだろう、と、そんなとりとめもないことを考えながら建物に添って曲がる先へと進む。更に奥へ向かうと目の前に大きな銀杏が全容を現した。

 巨木の迫力に思わず感嘆の声を上げたとき、唐突に耳が甲高い金属音のようなものを捉えた。触れれば切れるような殺伐とした気配が一瞬のうちに身体を切り刻んで抜けていく。


「なんだ! なんだこれ!」


 心音が大きく跳ねた。自分の鼓動が辺りに響くように聞こえてくる。

 堪らず目を閉じ胸を押さえ込む。身体の芯の方から来る震えを止めることが出来ない。この時ハルは極度の恐怖を感じていた。

 胸を押さえたまま膝から地に崩れ落ちた。危ない、危ない、と直感が知らせる。何者かの気配を感じ取ると防衛本能が勝手に身を強ばらせた。ハルは命の危機を感じながら歯を食いしばった。身に迫る危険の正体を確かめるために恐る恐る顔を上げる。――と、そこでハッと息を呑む。銀杏の直ぐ側に和装の少女が佇んでいた。


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