7-5 エリオスの提案
「すみません。そろそろスラクストンさんと交代しますので、少しの間ディルさんを看ていてもらえますか?」
そう言ってリディアが三号室から出ていくと、廊下をパタパタと駆けていく足音が遠ざかっていく。
残されたフィオリトゥーラは、眠ったままのディルの傍らで椅子に腰かけたまま、その姿をぼうっと見つめた。
もう半刻以上こうして眺めていたが、苦しそうな様子を見せることはなく、ディルは本当にただ深く安らかな眠りの中にいるようだった。
包帯姿はひどく窮屈そうではあるが、むしろ眠っているからこそ、今はそうと感じていないのかもしれない。
暖かな日差しが、部屋全体を柔らかく包みこんでいる。
窓越しに見える空の色は青いままだが、東向きの窓からでも傾きかけた陽の様子が感じられた。
遠い昔の出来事のように、昨晩のディルの姿を脳裏に浮かべた。
あれほどの闘いを終えた身体なのだ。単に怪我を負ったというだけでなく、信じられないほど様々なものを消耗しきっているのだろう。
フィオリトゥーラは、だらりと放りだされたディルの右手に、そっと自身の手を重ねてみる。少しひんやりとした手は、当たり前だがなんの反応も示さない。
「お待たせいたしました」
気がつけば、開け放たれたままの扉の前にスラクストンが立っていた。
誰が要望を出すでもなく、昨晩からこの部屋の扉は開放されたままになっていた。
フィオリトゥーラは、ディルに触れていた手をそっと離す。
「ご苦労様です」
「夕刻とのことでしたので、そろそろアール=デイ様がいらっしゃる頃合いですな」
スラクストンは軽く一礼すると、丁寧に扉を閉めて、そのまま扉の脇に控えた。
混乱を招かぬためにも、エリオス・アール=デイがフィオリトゥーラの知人であり、その彼が本日の夕刻頃にこの屋敷を訊ねるという話はすでに済ませてあった。
剣位の名が登場し、実は三人が帰宅したあの場に彼がいたという事実に、流石に驚きを隠せずにいたスラクストンだったが、それでも彼は、昨晩の出来事やフィオリトゥーラとエリオスの関係について、詳しく訊ねるようなことはしなかった。
「突然のことで申し訳ありません」
「いえ、とんでもない。この屋敷に剣位がいらっしゃるなど、なんと光栄なことか。この屋敷を管理して十年以上が経ちますが、まさかこのような日が来るとは……。そのようなことではいけないとわかっていますが、正直、昂る気持ちが抑えられません」
そんなスラクストンを見て、フィオリトゥーラは微笑む。
いつも落ちつき払っていて厳格な表情を崩すことのないスラクストンだが、言われてみれば、今はどこかそわそわしているようにも見えた。剣位という存在は、やはり彼にとっても特別なのだろうか。
「ディル様の様子はお変わりありませんか?」
「ええ……。剣闘士を住まわせる屋敷を管理する身ともなれば、スラクストンさんはこういったことも多く経験されているのでしょうね」
包帯で上半身と左腕をしっかり固定されたディルの姿を眺めたまま、フィオリトゥーラは呟くように言った。
「そうですな。あまり気持ちのよい話ではないですが、誰かが戻るたびに大騒ぎで屋敷の中が血の匂いで満ちてしまう、というような時期もございましたので……。まだこの程度であれば、ただ少し世話を焼けばよいというだけの話。まあ、幸いにも現在の方々は皆優秀で、ここしばらくそういったことはありませんでしたが」
スラクストンは表情を変えずに淡々と語る。
「どうか、フィオリトゥーラ様もあまり無理をなさらぬように」
「心に留めておきます」
フィオリトゥーラがうなずくと、白金の髪がするりと動く。その髪の隙間から、深みのある上品な赤いドレスの生地が覗いた。
彼女は食事の後に時間を使って再度身なりを整え、今はまた異なる深紅のブリオーに身を包んでいた。
綺麗に清めた髪もあらため、左右を編んでそれを中央で結び、残った後ろ髪を真っすぐに背中へと垂らしている。
色彩を変えつつある陽光を受けながら、彼女が椅子の背もたれにその身体を少し預けると、そこには淡く落ちついた、よくできた絵画のような趣が見られた。
スラクストンは、思わず感嘆の吐息をもらしそうになるのを堪える。
「失礼ながら、こうして見るとフィオリトゥーラ様が剣闘士とは到底思えません」
「私も、いまだに実感はないのです」
フィオリトゥーラが、くすりと笑みをこぼした。
それからしばらくすると、気がつけば部屋の中はすでに薄暗く、スラクストンが慣れた手つきで燭台に火を灯していく。
その最中、不意に玄関の呼び鈴の音が鳴り響いた。
「いらしたようですな……」
スラクストンが玄関の扉を開けると、今日は正装に身を包んだエリオスの姿がそこにあった。
彼の後ろにはもう一人、見覚えのない若い青年が控えている。
「ようこそ。お待ちしておりました」
スラクストンが二人を招き入れようとすると、エリオスは背後の青年へと目配せする。
「私は外でお待ちしています。日没の鐘が鳴る頃までにはお戻りください」
「わかりました」
エリオスは青年を行かせると、一人扉をくぐった。スラクストンがわずかに視線を動かして門前を確認すると、そこには白にブルーのラインが入った精巧な造りの馬車が停められていた。
「お待たせいたしました」
スラクストンに軽く会釈した後、エリオスは玄関ホールの中に立つフィオリトゥーラの姿を見つけると、跪きこそしないものの、軽く膝を折って礼をする。
光沢のあるグレーのコートの裾が柔らかく床に触れた。
襟を狼の毛皮が縁取る薄手のコートの中には、白地に鮮やかなブルーの菱形が並んだチェック模様のダブレットが着こまれている。
腰の辺りを見れば、今日も彼は武器の類を携帯していないようだった。
「ご苦労です。ようこそいらっしゃいました」
フィオリトゥーラの挨拶を受け顔を上げると、エリオスはスラクストンに視線を移す。一見普段と変わらぬように見えるが、よく見れば緊張からか、スラクストンはその身を強張らせていた。
「すみませんが、早速フィオリトゥーラ様と二人きりで話をさせていただきたいと思います。どこか部屋をお借りできますか?」
「ご用意しております」
スラクストンは先に歩き、応接室の扉の前で立ち止まると、その扉を開けて、礼の姿勢のまま二人を待つ。
「こちらへどうぞ」
「――しばらく人払いを願います」
扉をくぐる時、エリオスがささやくように告げた。
「かしこまりました」
二人が入室すると、スラクストンは顔を上げる。
「何かあれば、そちらの呼び鈴をお使いください。それでは失礼いたします」
「ありがとう」
フィオリトゥーラが言うと、スラクストンは丁寧に扉を閉めて姿を消した。
その後、適度な大きさで足音が響き、彼が階段を上って二階に上る様子が扉越しにも伝わった。
「なかなかにわきまえた支配人ですね。助かります」
エリオスはスタンドにコートをかけると、「どうぞ」と、奥のソファに座るようフィオリトゥーラをうながす。
「スラクストンさんは、こちらの管理人でありながらオーナーでもあるようです」
「それは失礼いたしました。どちらにせよ、貴女様の近くに有能な者がいるということは安心できる材料のひとつです」
フィオリトゥーラに続いてその向かいに腰かけると、エリオスは彼女が座るソファの脇にそれを見つけた。
そこには大きな黒い革製のハードケースが置かれ、絨毯の上に淡い影を落としている。
室内ではすでにシャンデリアに明かりが灯されていたが、窓からはまだ間接的に夕陽の光が入りこみ、薄暗い部屋の中全体がうっすらとオレンジ色の光に包まれていた。
「十分にお休みになられましたか?」
「はい。それでもまだ、思うように身体を動かすことはできませんけれど、これもよい経験とします」
よく見れば、そう言って苦笑するフィオリトゥーラの右頬がわずかに腫れていた。エリオスはそれを見て、口の中にかすかに苦いものを感じた。
彼女の顔を見たのは、もう二年以上前のことだったか。面影はそのままだが、幼さが色濃く残っていた当時と比べると、もはや大人の見目になったといっても過言ではない。
このアルスタルトで、成長したその姿を見ることになるとは考えもしていなかった。昔から比類なき美しい少女だとは認識していたが、こうして完成された美貌を目の当たりにすると、自然とその眩さに目を細めてしまいそうになる。
「それでは、早速ではありますが本題に入らせていただきます」
フィオリトゥーラが小さくうなずいた。
「まずはそちらの剣についてですが……」
彼女はややうつむき、神妙な面持ちを見せている。
「私は一切を目にしていないことといたします。所在についても関知していません。いずれは本国より報告が届くでしょうが、その際には目一杯驚いてみせましょう」
一瞬遅れて、フィオリトゥーラが顔を上げた。
「幸い、今回の件を知る者はごく少数に限られています。まあ、あの現場で二名ほど捨て置いた者もいますが、あまり問題視していません。一応そちらは私の方で監視いたします」
「デートメルスの一員たる貴方が、それで構わないというのですか?」
淡々と語るエリオスを前に、フィオリトゥーラは驚きを隠せなかった。
「貴女様の大胆な行動には驚かされましたが、この剣が聖地に持ちこまれたという事実を私が誰かに伝えたとして、それで良いことなど何ひとつなさそうですからね。ならば知らぬことと同義といえましょう」
エリオスが微笑む。
「ただし、今後の保管に際しては、こちらから提案があります」
「……どういったものでしょう?」
「プレシャス様のもとに預けたいと考えています」
エリオスの口から思わぬ名が出たことで、フィオリトゥーラは目を見張った。
「今回の件で、貴女様も今後の剣の保管については不安を覚えたことでしょう。失礼ながら、この環境では万全とはいいがたく、かといって常日頃所持していたのでは、それはそれで相応のリスクがつきまといます。また、私のもとで管理することも考えましたが、私もこれでなかなか融通の利かぬ身でしてね。フィオリトゥーラ様が必要とする時に、迅速にこの剣をお渡しできるかといえばそれは困難で、さらに言えば、私自身が周囲の多くに内密でそれを所持し続けること自体も容易ではありません」
ソファ脇に置かれたケースに目をやるエリオスにつられ、フィオリトゥーラも自然とそこに視線を向けていた。
「プレシャス様は、元より身を隠して過ごしていらっしゃる方です。私は知人を介して彼女と数度お会いしただけですが、あの御方は自身の目的に関すること以外ではこの地の〝バランサー〟に徹されようとしています。それだけに表に出せぬ物を預けるならば最適な方かと」
「やはり、昨晩貴方に私たちのことを報せたのは、プレシャスさんだったのですか?」
――とある怖い方。
昨晩エリオスがそう口にした時は、あまりの状況の変化にフィオリトゥーラの思考は及んでいなかったが、それはプレシャスのことを指していた。
「ええ。日も暮れてだいぶ経った頃、剣位〝レッド〟の紋章を掲げた黒服の使者が訪ねてきましてね。そこで大慌てで駆けつけたものの、あの場はすでにヴェンツェルも交えての戦闘の最中でした。そこからは、無礼を承知で機を見させていただき、結果、あのような形で処置させていただきました」
エリオスが登場に至った経緯を聞かされ、フィオリトゥーラはあらためて、自分たちの力だけであの場を切り抜けることはできなかったのだと、密かに落胆する。
エリオスはそんな彼女の様子に気がつきながらも、構わず話を続けた。
「話を戻します。貴女様の承諾をいただければ、私はこの場で〝それ〟をお預かりして、明日の朝にでもプレシャス様へと届けたいと考えています。軽くうかがった程度ですが、すでに貴女様はあの方にお会いする窓口をお持ちのようですし、必要な時に持ちだすのにも好都合といえましょう」
フィオリトゥーラは一瞬考えこむが、すぐにそれを無意味な行為だと止めた。
あのプレシャスに、このエリオス・アール=デイが信頼して預けたいと申し出ているのだ。
それだけで十分だった。信頼の根拠が何かなど、この聖地においてなんの知識も経験も持たない自分の考え及ぶところではない。
「わかりました。それでは、そのようにお任せします」
「承知いたしました」
エリオスは目を伏せ、小さくうなずきながらその胸に手を当てた。
「……貴方の本日の用件は、これで全てですか?」
フィオリトゥーラがおそるおそる訊ねた。そんな彼女を見て、エリオスはくすりと笑う。
「いえ。今後のフィオリトゥーラ様のことについて、お話しておきたいことがございます」
やはり、とフィオリトゥーラは唇を噛んだ。そして、上目でエリオスの瞳を覗く。
「はは。そのような顔をなさらずともご安心下さい。昨晩も申し上げたように、邪魔をするつもりはありません。むしろ私は、アルトゥラステリオ様が描かれていた夢を密かに応援していた者の一人ですので」
その言葉に、フィオリトゥーラは思わず顔を上げる。
「もっとも、それがフィオリトゥーラ様に託されるなど、夢にも思いませんでしたが」
そう続けたエリオスは、その表情を少し曇らせた。
「ランズベルトの無謀な計画は耳にしています。あの男、誰にも頼らずなどと強がっておきながら、〝大使館〟に駐在している甥の〝クレート〟にだけは話をしていったのです」
フィオリトゥーラの知らぬ名前だった。大使館といえば第一環状街にある聖地でのラスタートの外交拠点だが、ランズベルトからは、自身の夢を諦めると決断した時以外では間違ってもそこを頼ってはいけないと、強く釘を刺されていた。
「クレートはフィオリトゥーラ様の試合を密かに観に行っており、その闘いぶりに感心しつつも、実際に剣闘士として闘うその姿を目の当たりにして今後のことが不安になったそうです。それで、昨晩になって付き合いの長い私のもとを訪ねてきたのですが、まあ、思案する間もなく続くあの騒ぎとなった次第です」
そう言ってエリオスは苦笑すると、一度は崩したその表情をすっと引き締める。
「剣闘士として早々に名を売り、いずれ本国からの横槍が入る頃には、聖剣教に待ったをかけさせる――。確かにそうなれば、我がラスタートといえどもこの聖地で聖剣教に抗うことは難しいでしょうね。しかし、策と呼ぶにはあまりに杜撰です。そうなるためにどれほどの期間でどこまで駆け上がればよいのか。どのように考えられているかはわかりませんが、正直、間に合うとは到底思えませんね。無粋なことをいうようで申し訳ありませんが、さほど危険が及ばぬ低ランクで闘っているうちに本国からの制止がかかる。そんなことをランズベルトが望んでいるのではと、そう邪推したほどです」
「そんな! ランズベルトにかぎって――」
「ええ。私も彼の忠誠を疑うつもりはありませんよ。今回の件、相当な覚悟を持って踏みきったのでしょうから」
立ち上がりそうな勢いのフィオリトゥーラを制した後、エリオスが唐突に爽やかな笑みを見せた。
「――年内でのBランク昇格。そこを目指してください。いえ、必ず達成してください」
突然の提示に、フィオリトゥーラは不思議な物を見るような目でエリオスを見つめた。
「それがかなった暁には、私が聖地におけるフィオリトゥーラ様の後見人として手を挙げましょう。また、それまでの期間で本国からの邪魔が入るようであれば、そこは私が堰き止めておきます。これでもこの地で剣位を受ける身です。聖剣教そのものほどではなくとも、それなりの権限は持っているつもりです」
エリオスは控えめな言い方をするが、「剣位二位」の言葉を遮ることができる者など、この地、この世界においてどれほど存在するというのか。
どのような大国の王ですら、それは容易なことではないだろう。本来ならば、国家の管轄下から外れ、自らを中心として活動していてもなんら不思議ではない権威ある立場の人間なのだ。
思いがけない提案に、フィオリトゥーラは言葉を失っていた。
「いかがですか?」
その問いに答えるより先にあからさまな喜びの感情を浮かべてしまいそうになり、フィオリトゥーラは意識してそれを抑える。
「……願ってもない話です。まさか、貴方の助力が得られるなんて」
「とは言え、私はあくまで邪魔が入らぬため本国との仲介役として力をお貸しするのみです。勝ち上がり名を上げるのは、変わらずフィオリトゥーラ様ただ一人のお力で成し遂げていただきます」
「無論です」
フィオリトゥーラは即座に答えていた。晴れやかで迷いのないその表情。
「よいお顔です。期待しています」
今度はエリオスが感情を抑える番だった。冷静を装いながら、身を震わせそうになる衝動を自らのうちに必死に留める。
この気高く美しく、そして力強い王女の姿を前に感動を覚えぬ家臣などいるはずがなかろうと、そんな誇らしげな気持ちで彼の胸の内が満たされていた。




