6-1 脅威
ガルディアは、前に出した右手と自身の記憶を頼りに、細い路地を右に左に曲がって、するすると移動していく。
全力で走ることよりも、視界の悪い中でいかにスムーズに進むかが重要と割りきり、最初からあえて小走りで移動すると決めていたが、気がつけば、周囲は覚悟していたほどの完全な暗闇ではなくなっていた。
あれ? 月が出てきた?
空を確認する余裕などないが、視界の状態からそれを察した。
予想以上に抱える黒いケースが大きく邪魔だった。まだ大して走ってもいないというのに、もう何度もその角を壁にぶつけたり擦ったりしている。
おっけーおっけー、大事なのは中身だよね。
音も派手に立ててしまっているが、それもどうでもよかった。こうなったら、気配を消す必要はない。とにかく今は、追っ手を引き離すことを最優先にする。
ガルディアは足を止めずに、自身の足音とケースが立てる音の合間に耳を澄ませた。雑な確認ではあるが、そこに自分以外の者の足音などは聴こえなかった。ある程度距離は離せているのだろう。
偽の毒を使った足止めは、一時的なものとはいえ、それなりに効果があったようだ。
ま、ここで追いつくなんて無理でしょ。余裕だね。
一度足を止めては、すぐにまた走りだす。迷路のような十二番区の街中を、男はそうして断続的に進んだ。
身に着けた服だけではなく肌も髪も黒く、その男、デロルトの全身は、まるで闇に溶けこんでいるかのようだった。
デロルトは、足を止めたわずかな隙に耳を澄ます。
静寂に包まれた夜の街の空間に、かすかに足音と物音が響いていた。
相手は逃げることに全力で、気配を消す余裕などないのだろう。おかげでその方角と大体の距離が容易に把握できた。だが、それと同時にそれなりに離されているという事実もまた認識できた。
デロルトは細かい歩幅で素早く移動しながら、逃げる相手の姿を想像する。
この暗闇の中、あの大きなケースを抱えたままで、狭く入り組んだ路地を随分とスムーズに進むものだと、自身の獲物の手際に感心した。おそらく、場当たり的に逃走したのではなく、事前に下調べと準備がなされていたのだろう。
このままならば着実に距離を稼がれて、そして見失ってしまう。かといって、大体の見当だけをつけて闇雲に全力で追いかけるには、すでに離されすぎていた。
次に足を止めた時、デロルトは一息つき、少しずつ遠ざかる足音を耳にしながら周囲を見渡した。
夜目の利く彼にとって、月の光も入ってきた今の暗闇など昼間も同然だった。
どこを見ても貧相な街並み。同じような石造りの背の低い建物が、わざわざ身を寄せあうように窮屈そうに並んでいる。
よし――。
進むべき方角とは異なる方向にひとつの袋小路を見つけると、デロルトはそこに向けて突然走りだした。
これまで同様の細かな歩幅で上体を揺らさぬ動きを、途中から跳ねるような大きなステップへと変化させると、彼は先に道のない壁に向かって、そのまま一直線に飛びこんでいく……。
フィオリトゥーラが両手剣を正面に構えた。
この状況に動揺を隠せないディルと違って、彼女はその揺るぎない覚悟を示すかのように、落ちついた様子で長身の男、ザリを待ち構える。
その名を聞いた瞬間こそ驚きを隠せなかったが、相手が誰であろうと自身がすべきことに変わりはない。
近づいてくるザリとの距離は、まだ十メートル近くあった。
「フィオリトゥーラ・ランズベルトです。お相手いたします」
そのよく通る澄んだ声で名乗ると、彼女は片手で顔と頭を覆っていた黒い布を外し、それを放り捨てる。
綺麗にまとめられた白金の髪と、その白い顔があらわになった。
それを見たザリは、わざとらしく、ひゅうと口笛を吹く。
彼女の声を聞いていたディルは、内心でぼやいた。
わざわざ名乗り返すのかよ……。
相手が先に名乗ったためだろうが、そんな彼女の行動が理解できなかった。
ゆっくりとフィオリトーラへ近づいていくザリは、今耳にしたはずの彼女の名について、特に触れようとはしなかった。その反応からすると、こちら側と違い、ザリは自身の対戦相手についてまだ何も知らないのかもしれない。
ディルは、目前のゲインに対して半身で相対し、警戒しながらも、この場全体を視野に収める。
逃げるのは厳しいだろうな……。
ゲインとザリに挟まれる形で、ディルとフィオリトゥーラは倉庫前の産業路上に封じこめられてしまっている。
それぞれ一対一ゆえに、単に一時的に突破するだけならば不可能ではないかもしれないが、中央ではあの手練れと思われるマントの男も控えており、簡単に逃走が許されるとは到底思えなかった。仮に脇道の路地を使ったとしても、それは大して変わらないだろう。
そこまで考えた時、ディルは自身の心理状態に気がついた。
何をやってんだ、俺は――。
名乗ったフィオリトゥーラは正しかった。彼女は単純に礼儀として名乗りを返しただけかもしれないが、それでよかったのだ。
「……ディルエンドだ」
ディルは自身の名を告げると、右手を曲刀の柄にゆっくりと伸ばし、同時にゲインへと身体を向ける。
そう。名乗ることが覚悟の証となるのは、向こうだけの話ではない。
一瞬でも自分が弱気になっていたことが不思議だった。
Aランクだ? 最高の機会だろうが。楽しめ! この状況を楽しめッ――!
一気に高揚していく心に呼応し、ぶるりと身体に震えが走ると、それにつられるかのように口の端が歪んでゆき、ディルの顔に笑みが浮かんだ。
そうと決めてしまえば、急激に視野が広くなっていく。
ゲインへと意識を向けたまま、ディルはわずかに顔だけをマントの男へと向けた。
「余裕だよな、あんた。〝剣〟はいいのかよ? あいつは逃げるの得意だぜ」
何か少しでも反応を見たかっただけなのだが、案の定、男に動揺した様子は見られなかった。
「ほう。中身が何かを知った上で奪おうとしているのか。どこで聞きつけたか知らんが、〝アレ〟は相応の者でなければ手にする資格はないぞ」
フードで隠された顔の口元に笑みが浮かんでいた。
「言うね。盗品の類だろうってのは理解してんだろ?」
ディルが言葉を返すと、そこにフィオリトゥーラが続いた。
「無礼は承知の上ですが、こちらに取り戻させていただきます」
ザリへ向かって剣を構えたまま、彼女は強く言い放つ。
男は興味深そうにフィオリトゥーラを眺めた。
「所有者を名乗るか。とてもそうは見えんが、面白い。ならば資格を見せてもらおう。始めろ――」
男の一言で、場の空気が一変した。
ゲインがわずかに両肩を上げて、その鋭く細い目をさらに細めた。
ディルとゲインの距離は近い。その間は三メートル弱で、まだ互いに剣を抜いていないものの、すでに一触即発の間合いといえた。
フィオリトゥーラの方では、ゆっくりと歩くザリが、ようやく五メートルほどの距離まで接近していた。
剣を構えるフィオリトゥーラに対し、ザリはまだ武器を手にしていない。マントに隠して何かしら携帯しているはずだが、まるで素手で挑んでくるかのように、空の両手をゆらゆらと動かしている。
ディルとゲインは示し合わせたように、それぞれが逆手で剣を鞘から引き抜いた。
そしてやはり同時に、二人は逆手の状態からくるりと剣を返す。
ゲインが左右の手に持つ双剣は、ロングソードと呼ぶには短く細身で、レイピアよりは幅広、ショートソードよりは長いといった中途半端なサイズの剣だった。
刃渡りだけで見ればディルのシミターと変わらないかわずかに短い。ゲインの身長はその逆立った髪の分を除けばディルよりいくらか低く、リーチ差も考えれば、間合いの点では少しだけディルに分がある。
ディルがその武器をさらに観察しようとした瞬間、ゲインの幅広なブレーの裾が揺れた。
軽い跳躍から、左右対称に双剣が小さく振りかぶられる。
――速えッ!
ディルは慌てて後退する。目の前で、縦に二本の線が描かれた。両肩を狙った左右の双剣が同時に振り下ろされ、空を切っていた。
雑な攻撃だというのに、駆け引きもなくあっさりと間合いを詰められてしまっていた。それは、度胸と速さのみのシンプルな主導権獲得だった。
シミターをまともに構える暇もなく、続く攻撃が迫る。
ゲインの左手の剣だけが即座に跳ね上がり、ディルの顎の辺りをその剣先が狙う。残る右の剣を視界の端に入れながら、ディルは顔だけを引いて、それを躱した。
すると、少し遅れて右手の剣が、今度はディルの胸辺りを斜め下から襲う。
ディルがこれも回避すると、ゲインはその右剣をまだそこに残したまま、左の剣を思いっきり振りまわし、もう反転を始めていた。
ディルは、相手の回転方向に揃えて右に身体をずらしながら、曲刀をだらりと下げる。
やはり速い。何かに弾かれたように高速で回転するゲインは、右の剣を振り終えたばかりでまだ背中を見せているというのに、もう左の剣を次の攻撃に移していた。
何かを挟む余地もなく、剣先が再びディルの頭部を狙う。
上体を反らして横薙ぎの左剣を躱すと、続く右の剣が腿を払いに来た。身体の向きを変えて、これも躱す。
忙しい野郎だなッ。
ゲインは今度はくるりと回転せず、そのままの体勢から両脚を開くと、左右の剣を順に円を描くように回し、さらに斬りつけてきた。
滅茶苦茶に振りまわしているようでいて、全ての攻撃がきっちりとディルの身体のどこかを捉えている。
くそッ、〝当て勘〟も冴えてやがる。
踊るような絶え間ない双剣の攻撃が続いた。辛うじて躱しているが、シミターを振る隙がない。その動作ひとつでも挟めば、それをきっかけにこの乱舞に巻きこまれてしまいそうな、そんなギリギリの状態だった。
だが、ディルは大きく間合いを外すでもなく、少し身体を引いて回避しては、ゲインの周囲を回るように移動して、一定の距離を保ちながらこの状態を維持する。
これじゃまるで、あいつと変わんねえな……。
ラモン戦やクローディア戦の時のフィオリトゥーラと自身の今の姿を重ねて、ディルは内心で苦笑する。
ゲインのチュニックの袖が激しく揺れ、視界のあちこちで幾度も剣身が煌めいた。
速え速え……。
それにしても不思議な感覚だった。
ディルは、自身の意識と身体の間に、これまでに経験のない奇妙な乖離を感じていた。
身体は限界近い動きを要求されているというのに、ゲインの攻撃を視る眼とそこに反応すべき意識の方には、まだ余裕があるのだ。
ディル自身はそれを自覚していないが、この状況への恐怖と緊張、そしてそれらを消さぬまま湧きあがった「楽しむ」という感情がそこに混ざり、その絶妙なバランスが、いつにも増した集中力を生みだしていた。
「そらよッ!」
ゲインの二本の剣がぴたりと揃って、完全に同じ動きで斜め下から浮き上がってくる。
初撃もそうだったが、この連続した攻撃の中で、ゲインは何度かに一度、こうして双剣に全く同じ動きをさせてくる。
手癖なのか、あるいは連撃を保つための繋ぎの動作なのかはわからないが、どちらにしても、それがある種の隙であることに変わりはなかった。
それじゃ双剣の意味が、……ねえだろッ!
斜めに身体を引いて双剣の軌道から紙一重で逸れると、その二本の剣の間にシミターを入れて、同様に下からすくい上げる。
顎に切っ先数センチだけが入るイメージだったが、手応えはなかった。
パンッ、と弾けるようにゲインの身体が宙を舞い、瞬時に遠ざかっていく。
「おまえ、そそるなあ……」
ザリが長い舌を出して、自身の唇をぺろりと舐めまわす。
「そんな剣なんか構えちまって、闘えんのかあ?」
両手剣の間合いに入るかという距離に入った時、ザリは左手でマントの合わせを開くと、左腰に差していた大型のナイフ、ククリを右手で鞘から引き抜いた。
それは、先ほどディルに向かって投げられたのと全く同じ物だった。左右に一本ずつ携帯していたのだろう。
フィオリトゥーラは、両手剣を正面にして剣先を斜め前に傾けた構えのまま、半歩後ろに退がる。
初めて見る形状の武器……。間合いは小剣とあまり変わらないだろうか。
ザリという名の剣闘士は他にいないと聞いていた。本来ならば、約二週間後に闘技場で闘うはずの相手と、今こうして向き合っていることを不思議に思った。
ククリを手にしたザリは足を止めると、背中を丸め、左肩を前に出してそれをゆらゆらと揺らす。
「なんだよ、これ。最高の仕事じゃねえかよお」
背の高い男だった。背中を丸めた状態でも直立に近いフィオリトゥーラとほとんど目線の高さが変わらない。だが、これまでに見た大柄なライマーやヴァレルと違い、その体型は細身で、ひたすら縦に長いという印象が強い。
短く刈りこんだ髪。その顔も体型同様に面長で、頬がえぐれたようにこけている。
鋭く細い眉の下、深くくぼんだ眼窩から覗く二つの不気味な目が、フィオリトゥーラの姿を冷静に観察するように見つめていた。
「ここはいいよなあ。金は簡単に手に入るし、こんな上等な女を滅茶苦茶にしちまっても、誰も文句を言わねえんだろお?」
フィオリトゥーラの背筋に冷たいものが走る。
目頭が妙に深く切れこんだアーモンドのような形状をした目の中に、小さな薄い色の瞳が浮かんでいる。瞳の上下にも白目が見えているため、その目は常に見開いているように見えた。
「やるぞおお」
右手のククリは刃先を下に向けたままで、まだ構えていないだけなのか、すでにそれが構えなのか、フィオリトゥーラには判別がつかなかった。
次の瞬間、ほとんど予備動作もなく、唐突にザリの身体が前へと滑りだした。左肩を突きだしながら一気に距離を詰めつつ、同時に右腕も動かす。
「ヒャオッ!」
半身になっていた身体をぐるりと返すと同時に、その長い腕を生かして、ククリが大きく下から振られた。
フィオリトゥーラの視界の左下から、剣を構える腕ごと斬り裂こうと肉厚の刃が迫る。
わかりやすい攻撃ではあったが、そのリーチと身体を大きく使った動きで、本来ククリが届く距離よりも遥かに遠くまで、その刃が伸び上がってきた。
フィオリトゥーラはククリの軌道を捉えていたが、予想以上の間合いの広さに戸惑い、咄嗟に地面を蹴る。
通り抜けていく巨大なナイフの刃を目にしながら、フィオリトゥーラは大きく後方に跳び退った。
そんな中、ククリの刃は止まることなくそのまま大きな円の軌道を描くかに思えたが、それが前触れもなく下へと向きを変える。
すると、ザリの身体が消えた。
「……⁉」
いや、消えるわけはなかった。ただ、そう感じるほど、ザリが一気にその身を沈めたのだ。
最初の突進の勢いそのままに、さらにククリを振った勢いの回転で向きを変え、ザリは背中を向けながら、後退するフィオリゥーラを追って地面の上を低く滑りこんでくる。
予想外の動きを前に、フィオリトゥーラは剣を振ることも考えられず、着地と同時に再び地面を蹴ろうとした。
その時、しゅっと黒い蛇のような何かが這い上がってくるのが見えた。
そう思った瞬間、ズンッ、と鈍い衝撃がフィオリトゥーラの身体を襲った。
フィオリトゥーラの両足が浮き上がるが、それは再び地を蹴ったからではなかった。
「ぐ……」
空中で身体をくの字に曲げたまま、フィオリトゥーラが呻きをもらした。
何が起きたかわからなかった。腹部に激しい痛みを感じた瞬間、そこから何かが爆発したかのように、強い衝撃が身体中へと拡散した。
彼女を宙へと押し上げたのは、ザリの長い右脚だった……。
ザリは彼女に背を向けたまま両手を地面につけ、低い位置から右足を突きだすと、身体と脚を目一杯伸ばし、その踵を彼女の腹部へと深くめりこませたのだ。
ザリが足を引くと、ずるりと、フィオリトゥーラの身体が地面に崩れ落ちていく。
下半身がまるでいうことを聞かなかった。
自分の意志でそうしたつもりもないまま、彼女は両膝を地につけると、そのままうずくまってしまう。激痛から無意識に両手剣を手放し、そのまま両の手で腹部を庇った。
「おお……。柔らっけえなあ……」
ザリはゆっくり立ち上がると、ククリを手にしたまま両腕を抱え、わざとらしく身震いしてみせる。その顔が、下卑た笑いで歪んだ。
フィオリトゥーラは必死に顔を上げ、ザリを睨みつけるが、その目の縁には涙が滲んでいた。
「ほらほら、早く立たないと死んじゃうぜえ」
ザリはフィオリトゥーラを見下ろしたまま、左手をくいくいと動かして、立ち上がれと手招きする。
なんとか動く両の手を地面につけると、それを支えに彼女は力を入れるが、すると、それとは別に、びくんと身体が勝手に動いた。
「うぶ……」
フィオリトゥーラは再びうつむくと、地面の上に胃の中の物を吐いてしまっていた。
「あっはあ! 駄目じゃねえか!」
その様子を見たザリは、さらに声を荒げてゲラゲラと笑う。
「おっ、ワインですかあ? やっぱいいもん飲んでんのかなあ」
ザリがゆっくりと近づいていくる。
フィオリトゥーラはその足音に恐怖し、再び顔を上げようとするが、そんな彼女の顔面を、すかさずザリが蹴り上げた。全力で蹴るのではなく、当てた足を持ち上げて押しだすようにして蹴り飛ばす。
無理矢理身体を起こされた彼女は、そのまま仰向けに背後へと倒れこんだ。
「おーい、しっかりしろよお」
その笑い声を耳にしながら、夜空を見つめ、彼女は絶望を感じた。




