命の恩人2人が、僕の教育方針で揉めている
少年は必死に逃げていた。
村を襲った魔物から。
村人は少年以外全滅している。感覚的に魔物を察知できる少年は皆に主張したのだが、嫌われている少年に耳を貸す者はいなかった。
「僕のせいだ、僕の……!」
少年は涙を堪えながら、魔物に襲われた村人たちのことを思い出す。
両親を失ってから村を移動したのは三度目。住まわせてもらった家からは、疫病神のように扱われていた。家出のフリをして村から出てけと言われ、実行したこともある。
理由は一つ、魔物の気配が分かるから。魔物の血が混じっていると噂されてから、どの村に行ってもよく思われることはなかった。
だからこそこの村では生まれ変わりたかったのに何も変わらなかった。危険を察知できても、守ることは叶わなかった。
「バウバウッ!」
少年に気付いた犬型の魔物が、風を裂く速度で追いかけてくる。うまくその身を隠しながら撒いていたが、追い付かれるのは時間の問題だろう。
自分の命を諦めかけた、その時だった。
少年の視界を何かが横切り、次の瞬間金属音が鳴り響く。振り返ってようやく、犬型の魔物が飛び込んできたのだと悟った。
その身が切り裂かれる瞬間に割って入ったのは、青いポニーテールを携えた女性だった。
「ギリギリ間に合ったぜイヌッコロが!」
女性は、右手に持つ白銀の剣で魔物を押し返す。
すると魔物の着地点で、大きな円が光り出した。光り輝くヒモのようなものが魔物を拘束し、動けなくした。
「ナイスアシストだルノア!」
ニヤリと口元を緩めた女性は跳ねるように魔物との距離を詰め、大きく両腕を引いた。
「オラああああ!」
溜めに溜めた両腕を突き出し、白銀の剣は魔物を貫通した。断末魔を上げると同時に抵抗がなくなった。死んでしまったようだ。
「パワーはねえが速いなコイツ。ルノアがいたおかげで楽勝だったけど」
魔物から剣を抜き取ると、緑色の体液を払い丁寧に納刀する女性。その動作に、少年は見惚れていた。
そして、ここしかないと思った。
「おいボーズ、今からアタシは村へ」
「僕に剣を教えてください!」
少年の勢いに、飄々としていた女性が目を見開く。
「少しでいいんです!雑用だってやります!だから僕に剣を、戦いを教えてください!」
少年はずっと憂いていた。村人から疎まれているなら独り立ちをするという方法もあったが、魔物が蔓延るこの世界では厳しいものがあった。
そんな折の偶然な出逢い。例え縋ってでも、独り立ちできる可能性を潰したくない。
「どうして戦いたい? どうして剣を知りたい?」
「もう誰にも迷惑をかけたくない、それだけです」
青く美しい剣士の相貌が鋭く突き刺さるが、少年は決してひるまなかった。涙で濡れながらも、視線を逸らさなかった。
「……成る程、そういうのもアリかもな」
女性はクククと口角を上げると、右手を少年の頭の上に置いた。
「いいだろう、アタシが戦いを教えてやる」
「ホントですか!?」
「ああ、その目気に入ったぜ。ちょっくら村整理してくっから、その辺りの木にでも隠れてろ。終わったらアタシの家に向かうぞ」
「は、はい!」
少年は初めて、人生に光を感じた気がした。今までよりずっと、前に進める気がした。
「そういやボーズ、名前は?」
「マルクです!」
「覚えたぜマルク、今日からお前は」
「ちょっと待ちなさぁい!」
そこに飛び込んできた大きな声。
目を向けると、金色の長い髪が特徴的な女性が駆け寄ってきた。
「ラル、あなたこの子と何話してたの!?」
「コイツに剣教えることにした、いいだろ?」
金髪の女性大げさに天を仰ぎ頭に手を置いた。
「冗談よね、そんな殊勝なことあなたにできるわけないもの」
「アホか、今日からウチに住み込んでしごき上げるっての」
「はあ!?そんなことできるわけないでしょ、女っ気0のあなたに!」
「雑用はコイツがやるからいいんだよ、てか一人暮らしもしてねえ脛かじりのお前に言われたくねえよ」
「好きで実家に暮らしてるわけじゃないわよ!だいたいこれからどうするの!?」
「なるようになるだろ、いちいち頭のかてえ女だな」
「あなたが何も考えてないだけでしょうが!振り回されるこっちの身になって……」
「あ、あの……」
2人の会話を聞いていたマルクが、恐る恐る口を挟む。
「村には向かわなくてよろしいんでしょうか?」
「「……」」
少年の言葉で我に返った2人は、すぐさま言い合いを中断して村へと向かうのであった。
―*―
「何一緒に来てんだよ、さっさと帰れよママのところに」
「あなた1人に任せられるわけないでしょう!」
数時間後、村だった場所に蔓延る魔物を殲滅してきた2人は、マルクのところへ戻ってくるや否や、止まっといた時間が進み出したように言い合いを再開する。
「だとしても今日は帰れ、家族に説明がいるんだろうが」
「それはそうだけど……」
「ならこの場でうだうだ言うな、アタシはさっさと帰りたいんだよ」
ラルと話しても埒が明かないと思ったのか、ルノアの視線はマルクへ移動する。
「マルク君だっけ、ホントにコイツのところでいいの? 生活環境は最悪よ、どこか別の村か施設に預かってもらった方がいいわ」
「散々な言い様だなテメエ」
「どれだけの付き合いだと思ってるのよ」
「――――構いません」
自分の身を案じてくれているルノアに向けて、マルクは首を左右に振った。
「誰にも迷惑をかけないよう、独り立ちしたいんです。ラルさんが戦いを教えてくださるなら、それが僕にとっての1番です」
「うんうん、可愛いツラしてるがお前も男ってことだな」
「簡単に言わないで! まったくもう、どうしてこんなことに……」
「ルノアさんは反対でしょうか……?」
せっかくたぐり寄せた糸を切られそうで、マルクは思わず瞳を潤ませてルノアへ縋り付く。
「……っ、反対ってわけではないけど……」
ルノアは口元を押さえてマルクから視線を逸らすと、小さな声でそう言った。
「なんだお前、耳真っ赤だぞ?」
「う、うるさいわね! ……こんなにウルウルした瞳で見られたら……」
「なんて? 声ちっせえんだけど?」
「っ! もういいわ! 明日は一日中家に居なさいよ!」
「うるせえのはどっちだよ、まったく……」
捨て台詞を吐いて離れて行くルノアを見て、困ったように頭を搔くラル。
「まあいいや、それよりマルク、おまえ覚悟はできてんだろうな?」
ラルは腰を落とすと、小柄なマルクに視線を合わせた。
「戦いを教わるということは、守られる側ではなくなるということだ。皆がお前に守ってくれと助けを請うようになる。痛いや怖いなんて甘い言葉は許されない。その覚悟がお前にはあるのか?」
「あります」
マルクは即答した。
覚悟があるからこそ、マルクは淀みなく返答することができた。
守られるだけの生活に終止符を打つ、その心構えはすでにできている。
「よし、どうやら聞く必要はなかったみてえだな」
「ラルさん、これからよろしくお願いします」
「おう、みっちり鍛えてやるよ。とりあえずアタシの家向かうぞ」
「はい!」
ラルの後ろ姿を追いながら、口元が綻び始めるマルク。ようやく独り立ちの準備をできることに喜びを隠せずにいた。これから大変な鍛練の日々が待っているが、周りに迷惑をかけないようにできると思えば楽なものである。マルクは明日からの日々に思いを馳せながら、一歩一歩大地を踏みしめた。
――――しかしながら、マルクの望む鍛練の日々は始まらなかった。
―*―
「だから剣を教えるって言ってんだろうが! 男が前衛張らずにどうすんだ!?」
「前衛張ってるあなたが何言ってるの!? マルク君は魔法士になるべきなのよ、そんなことも分からないの!?」
マルクが2人に助けてもらってから2日目、鍛練を開始するはずの昼前。
マルクは目の前で繰り広げられる口論をあわあわしながら見ているしかなかった。
ことの発端は数十分前、ルノアがラルの家を訪ねてきたところにさかのぼる。
「わたし、今日からここに住むから」
「はあ!?」
4人掛けテーブルに向かい合って座るルノアは、会話冒頭からラルの眠気を一気に吹き飛ばした。
「これで安心ねマルク君、これからよろしくね」
「は、はい」
テーブル越しでマルクの手を握ろうとしたルノアだったが、ラルに強く弾かれてしまう。
「ちょっと痛いじゃない!」
「勝手に何決めてんだ! ただでさえ狭い家に3人も寝る場所なんてねえよ!」
「心配いらないわ、寝袋なら持ってきたし」
「そういうこと言ってんじゃねえよ! だいたいおまえ、親は許したのかよ!?」
「子どもの保護を任されたと言ったら渋々了承してくれたわ」
「くっ、体裁ばっかり気にするクソ貴族め……!」
「否定はしないけど、あなたホントに口が悪いわね……」
どうやら話は一旦落ち着いたらしい。ラルはとてつもなく不服そうだが、ルノアも一緒にこの家で暮らすようだった。
「言っとくけどアタシの邪魔するんじゃねえぞ、修業するのはアタシだからな?」
「ところでマルク君、1つ質問があるんだけど」
「人の話聞けよ!」
ルノアは騒ぐラルを無視して、マルクへ話しかける。
「マルク君は文字って読めるかしら?」
「はっ、あんな辺鄙の村で住んでたガキに読めるわけねえだろ」
「あなたと一緒にしないでもらえるかしら」
「必要最低限分かればいいんだよ、剣士に文字なんて…………っておまえ?」
「それでどうかしら、読めなくても興味があるとかでもいいの」
訝しむラルと期待に満ちたルノアの視線を受けながら、マルクは答えた。
「はい、読めますよ」
「「!?」」
あっけらかんと答えると、2人の女性は分かりやすく驚いた表情を見せた。
「嘘だろ、なんで読めるんだよ、生活に必要あったのか?」
「いえ、生活に必要はなかったです」
「だったらなんで……」
「文字を読めれば、誰かに必要とされると思って」
距離を置かれて村で過ごしていたマルクは、それでも人に必要とされたくていろんな教養を身につけていた。力仕事を任されてもいいように身体を鍛えたし、食事で人を癒やせるように料理も覚えた。その一貫として、マルクは独学で文字を読めるよう学習していたのだった。
「……逸材よ」
「えっ?」
ルノアは今度こそ、その両手でマルクの右手を包み込んだ。その瞳は凜と輝きを放っていた。マルクが少し恐怖を感じるほどに。
「マルク君、あなたは魔法士になるべきよ。わたしが保証する」
「ちょテメエ、マルクにはアタシが剣を教えるんだ。そこに口は挟ませねえぞ」
「あなた馬鹿なの、文字を読める子には魔法を教えるなんてこの世の理じゃない」
「知らねえよ、そもそもマルクはアタシに戦いを教わりたいって言ったんだ、おまえは引っ込んでろ!」
そんなこんなで、ある意味恒例にもなりつつある2人の言い合いが始まってしまった。
戦いを教わることに喜びを感じたマルクだったが、まさか何を教えるかで言い争うことになるとは思わなかった。
「あ、あの、両方とも教わるというのは」
「「それはダメだ(よ)!!」」
勇気を持って2人に割って入ったが、呆気なく一刀両断されてしまう。
「剣士と魔法士だと役割が違いすぎる。両方とも習ってどちらも習得できないんじゃ意味がない」
「ラルの言うとおりよ、極端に違いのある役割を共存できるのは一握りなのだから」
「それではどうしたら」
「どうしたらじゃねえよ、おまえはアタシに剣を習いに来たんじゃねえのか!」
「分かるわよ、こんな粗暴な女に教わりたくないものね。大丈夫、わたしが丁寧に魔法を教えてあげるから」
「テメエはいちいちケンカ売ってんのか!?」
「あなたこそなんで分からないのかしら!」
「ストップですストップ! 一旦落ち着きましょう!」
もはや誰のための争いなのか理解出来ず、第二ラウンドを制止するマルク。ぜえはあ息を乱しながら睨み合う2人だったが、遂にラルが一歩譲歩した。
「分かった、ならこうしよう。2週間1日交替で剣と魔法を教えて適性を見る。ついでにマルクの習いたい方も訊く。そうすりゃ公平だろ」
「いいわね、それで手を打ちましょう。これでマルク君が魔法士になりたいって言ったらあなた、すんなり諦めなさいよ」
「………………分かった」
「今の間は何よ」
「何もねえよ、なら今日は早速アタシが教えるからな、もう口出すんじゃねえぞ!」
「あなたこそわたしの手番で邪魔しないでよね」
こうしてマルクは、息が合ってないようでピッタリな女性2人の指導を受けることとなった。
―*―
「まずマルク、おまえにこれを渡しておく」
「おっと」
ラルの家を出てすぐ、放るように渡されたのは木製の剣だった。全体として軽い印象だが、柄を持つとさすがに重量を感じた。
「アタシがいない間はこれを振ってろ、こんなんでも剣を振るう感覚は養える」
さすがに真剣を渡されることはなかった。残念なような安心したような気持ちになる。
「最初に教えるのは刺突だ、正面にいる敵に対し、真っ直ぐ剣を突き出す」
そう言いながら構えて技を繰り出すまでの一連の動きは、さながら風のようだった。一切の無駄を感じられない。
「いわゆる斬撃だと、躱されたときに剣に身体を持って行かれる場合が多い。剣の重さを理解していないからだ。だから初めは剣の重さを理解する上でも、隙を作りにくい刺突を鍛える。マルクもやってみろ」
「はい!」
ラルの見よう見まねで、マルクも木製の剣を強く突き出した。
「遅い! こんなちゃっちいものでやっててそんな速度じゃ一生剣は振れねえぞ! 目の先に魔物がいることを想定して反射的に動かせ!」
「はい!」
ラルの指導はその口調とは別に、非常に分かりやすかった。都度実演もしてくれるため、修正も容易く行える。剣というものに対し、まったく苦手意識を持つことはなかった。
「綺麗に打てると気持ちいいだろ、その感覚を忘れないうちに反復だ」
そして何より、マルクが上手くいったときに見せる無邪気な笑顔が印象的だった。
―*―
「マルク君、まずこれを全部読んでもらえない?」
翌日、ルノアがマルクの前に置いたのは5冊の分厚い本だった。
「これは魔法書といって、魔法士になるための必需品よ。エデンと現世を繋ぐ媒介とも言われているわね」
「エデン?」
「様々な魔法が集う聖地のことね。わたしたち魔法士は、そこから魔法書を媒介にして現世に魔法を発現させるの」
「成る程」
マルクは、ルノアの話を紙にメモしていく。聞き慣れない単語が飛び交うと予想していたからだ。
「ここにあるのは膨大な魔法書のうちの5つ、これらを覚えられるかはマルク君次第。わたしもこの中で発動できるのは2つしかない」
「2つ!?」
5つ中の2つ。少ないと一瞬感じてしまうマルクだったが、ルノアの表情に憂いはない。
「というのも、魔法書を仮に読めたとしても発動しない場合があるの。適性がなければ、魔法は発動しない。だから今日はとにかく魔法書を読む、いきなり扱うのは難しいけど、慣れればすごく使い勝手がいいからね」
そうして1つの魔法書を手にしたルノアが、「『バインド』」と呟いた。テーブルの上には円が出現し、この間魔物を拘束した光のヒモが現われた。目の前に並べられた本を持ち上げ、すべて綺麗に積み上げてしまう。
「すごい……!」
「さすがにここまで使いこなすには時間がいるけど、文字が読めるマルク君にはロスがないからね。早速適性を見つける読書の旅に出ましょうか」
「はい!」
ルノアの指示のもと、1冊ずつ魔法書を読んでいくマルク。難解な部分が多く頭が痛くなったが、細かく解説をしてくれるルノアのおかげで最後まで読み通すことができた。
「今日だけで3冊も読み切るなんて、才能あるよマルク君!」
自分のことのように喜んでくれるルノアを見て、マルクはもっと頑張ろうと思えるのであった。
―*―
「マルク君、お手伝いしなくていい?」
「頼むからマルクの邪魔しないでくれ、アタシにも被害が及ぶ」
夕食のスープを作るマルクを手伝おうとしたルノアだったが、正面でくつろぐラルに横槍を入れられる。
「何よ、そんな言い方しなくてもいいでしょ!」
「あのな、アタシもマルクもすでに犠牲になってるから言ってるんだろうが。まあ貴族のお嬢様に料理ができると思ったアタシも悪かったわけだが」
「むう、あなただって人のこと言えないくせに」
「だからアタシは完全にマルクに任せてる。誰かさんと違って邪魔もしない」
「……なんで怠け者の方が偉いみたいな感じなのよ」
「2人とも、できましたよ」
言い合う2人の前にトマトのスープとふんわり焼き上がったパンを持ってくるマルク。
2人の表情が一気に和らぐのをマルクは見た。
「まったくよぉ、剣を教えるだけでこんな旨いもの食えるんだから儲けものだよな」
「ラル、その言い方は失礼でしょ」
「気にしてませんよ。僕の料理で2人が喜んでくれるなら嬉しいです」
「だろ、ルノアはいちいち頭が固くて面倒だよな」
「あなたの頭は随分軽そうですけどね!」
そんな会話をしながらも、食事をする手は決して止めないラルとルノア。料理の勉強をしてきてよかったと、心の底から思えた瞬間だった。
この流れで、少しだけ聞きづらかったことを口にすることにした。
「それであの、僕って才能あるのでしょうか?」
マルクがラルの家に来てから8日が経った。ラルとルノアが昨日の夕方からつい先程まで外出していたため今日は自主練だけだったが、2人から3日間指導してもらっている。
都度都度褒めてくれている2人だが、本当にうまくできているのかがマルクは不安だった。
「「あるよある!」」
そんなマルクの不安を掻き消すように、ラルとルノアは完璧に声を揃えて言った。
「正直アタシは感動してる、こんなに物覚えがいいやつがいるんだってな。身体鍛えてたのもあって動きもしっかりしてるし、雑魚魔物くらいなら普通に狩れると思うぞ?」
「同意見。まさか3日で魔法を発動させられるなんて思いもしなかったわ、それもわたしの得意分野のバインド。嬉しくて涙が出ちゃいそうだわ」
感無量だった。意図せず鍛えてきた頭と身体だったが、こんな風に役に立つとは思わなかった。
「ありがとうございます、お2人のおかげです」
気付けばマルクは、うれし涙を流しながらお礼を述べていた。ラルとルノアがいなければ今喜んでいる自分はいなかったのだから。
「ったく泣くな泣くな、男のくせに母性くすぐる泣き方しやがって」
「何言ってるのよ、マルク君はこれがいいんでしょうが」
「悪くはねえけど、やっぱ男らしさが足りてねえんだよな。あっ、いいこと思い付いた」
ラルは急いで自分の分の夕食を平らげると、マルクに向かって声をかける。
「マルク、一緒に風呂入るぞ」
「ぶふっ!!」
マルクより先に、ルノアが反応した。口に含んでいたスープを思い切り吐き出してしまう。
「きったねえな、ちゃんと掃除しろよ」
「ああああああなた、いいいいい今なんて!?」
「だからマルクと風呂入るって。コイツ女を知らないから垢抜けねえと思うんだよ、裸見て興奮させてホルモンでも出たら男らしくなんだろ」
「ダメに決まってるでしょそんなこと!!?」
やはりマルクより先に、ルノアが大反対する。
「ああ? 言っとくがアタシの身体はそこそこ上等だぞ、おまえと同じくらいには乳あるし。男の1人や2人その気にさせるのなんてわけねえぞ?」
「誰がそんな心配してるのよ!? そんなことしてマルク君が、その、あの……その気になっちゃったらどうするの!?」
「そのときは受け入れるしかねえんじゃねえのか、いい男女が同じ家で暮らしてたらそんなこともあるだろ」
「マルク君はまだ12歳よ! あなたと一緒にしないで!」
「ったくうるせえ女だな、そもそもおまえと話してねえんだよ」
そしてラルの視線は、目標のマルクへと差し替わる。
「行くぞマルク、ちょっと早い成人の儀だな」
「えっ、いや、僕はその」
顔を真っ赤にして両手をばたつかせるマルク。異性と一緒に風呂に入るなど、恥ずかしすぎてとても受け入れることができなかった。
「悪いがおまえに拒否権はないぞ、この家の主は誰だ?」
いたずらを企てる子どものような笑みでマルクを追い込むラル。幸か不幸か、マルクの退路は完全に断たれてしまう。
「ルノアさん……」
こうなってはもう1人の住民に助けを求める他ない。マルクは泣きそうな瞳でルノアへ声を掛けた。このマルクの瞳にルノアが勝てたことは1度もない。何が何でも救い出さねばならない。
「なんだルノアその目は、アタシに近接戦を挑む気かぁ?」
しかしながら相手は近接戦闘の鬼、ルノアが3人いたところで全員倒されてしまうことだろう。もはやラルの意向を汲みつつマルクを守る方法は1つしかなかった。
「わたしも入る」
「はっ?」
「わたしも一緒にお風呂に入るって言ったの!!」
マルク以上に顔を紅潮させたルノアが、覚悟を決めたように言い切った。
「いいのかおまえ、結婚前の貴族の女が男と風呂入って」
「しし仕方ないわ、マルク君をあなたから守るためだもの、やむなしよやむなし!」
「……声上擦ってんぞ?」
「ううううるさいわね! いつもこんな感じよ!」
「てかアタシが嫌だよ、あんな狭い風呂に3人入らねえよ」
「嫌がろうがわたしは入る! 詰めてでも入る!」
「はぁ、しょうがねえな。マルク、今日は3人で入るぞ」
「ええっ!!?」
ルノアを頼ったことで、余計におかしいことになってしまったラル家のお風呂。
マルクは、天国のような地獄の体験をするハメになるのであった。
だが、それは確かに幸せだった。今までの生活に比べれば、何てことのない日々の連続だ。
自分がいて、ラルがいて、ルノアがいる。そんな今となっては当たり前の毎日が続けばいいとマルクは思った。
そして、そんなことを願ったからこそ――――――幸せは呆気なくこぼれ落ちてしまうのである。
―*―
「……なんだこのガキは……!?」
マルクがラルの家に来て11日後、ラルとルノアが外出から帰ってきてすぐだった。
今まで誰も訪ねる人のいないこの家に、2人の男が足を運んだ。
マルクと目が合って唸るような声を漏らした大柄の男。赤色の短髪と人を睨み殺せそうな目付きが特徴的で、その強さは筋肉質の身体を見れば明らかだった。
そしてもう1人は長身のラルと同じ背丈の青年、優しそうな雰囲気を醸し出していたが、その表情はどこか強張っていた。
「あなたたち、なんでここに!?」
「……つけてやがったなストーカーどもが」
ルノアは驚き、ラルは男たちをにらみ返していた。どうやら2人は、この男たちと面識があるようだった。
「ふざけんじゃねえ、こっちは心配して着いてきたんだ。動きが鈍ってるおまえらに何かあったんじゃないかと思って。その答えが……テメエか!?」
「ぐぁ!!」
赤髪の男は家に入り込むと、マルクの首を掴んでそのまま持ち上げた。
「ドニオテメエ!!」
「ドニオ君やめて!!」
瞬間的に動き出したラルとルノアだったが、ドニオと呼ばれた男は空中でマルクを放してしまう。
「ゴホッ、ゴホッゴホッ!」
強打した臀部と掴まれた喉元に痛みが走るマルク。ラルとルノアが寄り添ってくれているが、ついさっきまで本当に殺されるかと思った。
「なんだよこれは、天下の『風剣』さまと『魔衣』さまが揃いも揃ってガキの世話って。ふざけてんのか!?」
「ふざけてねえよ! 身寄りのないガキがいたから育てる! それの何がおかしいんだよ!?」
「おいおい、本気でどうかしちまったのかラル、そんな言葉おまえの口から出ると思わなかったぜ」
ドニオは右手で目を覆い、本気で呆れているようだった。声も出ないほどに、ラルの行動が衝撃的だったのであろう。
「ラル、ルノア」
ドニオと入れ替わるように、もう1人の青年が前に一歩出た。
「君たちの行動は間違っていない。だけど、1番正しいわけじゃない」
「っ!」
ラルとルノアの顔色に少しだけ陰が差した。
「君たちには増え続ける魔物を狩るという使命があるんじゃないのか。先陣を切って周りを鼓舞するのが俺たちの役割じゃないのか。確かに子どもを育てるのは大切なことだが、君たちの仕事じゃないよ」
「……うるせえ」
「もちろん俺だってこんなことは言いたくない。だがここ数日の君たちの動きは非常に悪い、休憩も睡眠も満足に取れていないんじゃないのか。それがこの子のせいだと言うなら、仲間として俺は見過ごせないよ」
「誰もそんなこと言ってないだろ!?」
「そうだな、言ってない。俺の思い過ごしかもしれない」
「さっさと帰れ! おまえらのせいで休めないんだよ!」
「かもしれない、ドニオ行こう」
「いいのかよクリウス、放っておいて」
「今はお互い熱くなってる。これ以上は言っても無駄だよ」
クリウスと呼ばれた青年は、ラルでもルノアでもなく、マルクに目を向けて最後に言った。
「どうか考え直してほしい。君たち2人に、子どもを育てる時間はないのだから」
何よりもマルクに、突き刺さった言葉だった。2人から時間を奪わないでくれ、2人に休憩と睡眠の時間を与えてくれ、そう間接的に言われている気分だった。
「マルク、大丈夫か? 首と尻、痛くねえか?」
しばらく閉められたドアを睨んでいたラルだったが、思い出したようにマルクの安否を確認する。
「大丈夫、です」
「ったくあの馬鹿力め、うちの可愛い弟子を傷物にしやがって」
ラルの軽口が、まったく頭に入ってこなかった。
マルクの頭の中を占めるのは、ここに自分がいてはいけないということだけ。
「マルク君、さっき彼らが言ったことは気にしなくていいからね?」
マルクの頭を撫でながら、ルノアは穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたのことは関係ないもの、むしろ生活が活気づいたくらいで」
「まったくだ。見当違いのこと言いやがって、次会ったときはあの顔面ぶん殴ってやる」
その温かい言葉も、マルクの心の中へは浸透していかなかった。
――――じゃあ、どうして2人は、動きが悪くなったの?
声に出しかけて、やめた。質問したところで、自分を甘やかす言葉が返ってくるのは目に見えている。
迷惑をかけていいと思ってた。自分が成長するまでは迷惑をかけていい相手だと思っていた。
だけど違った。そう思えたのは、会ったばかりだったからだ。こうして一緒に過ごして、すごくよくしてもらって、幸せをもらって、どうして迷惑をかけていいなんて思えるだろうか。
自分への指導なんてどうでもいい、2人の幸せこそがマルクの幸せなのだから。
「うん、僕は大丈夫、だよ」
自分に言い聞かせた言葉だった。大丈夫、いつもの生活に戻るだけ。1人だった頃の生活に戻るだけ。何も変わらない。
「よし、気を取り直して飯を作ってくれ」
「了解です! パパッと作ります!」
「えーっとマルク君、わたしに手伝えることは」
「ありません! ありがとうございます!」
「……ですよね」
知らない男が入ってきたとは思えない程いつもの風景、いつもの生活。
料理をするマルクも、椅子で料理を待つラルも、料理を手伝おうとするルノアも何も変わらない。
――――変わったのは、マルクがこの家を出て行く決心をしたことだけだった。
―*―
マルクは出ていく前に、2つの嘘をついた。
「ラルさん、剣士の道を考えてるんですけど、真剣を買ってもらうことってできないですか?」
「遂にアタシの献身が実ったか。いいぞ買ってやる、好きなだけ買ってやる」
「ルノアさんには内緒ですよ、まだ2週間経つ前ですから」
「分かってるって、慎重なやつだなおまえも」
剣の師を騙して、マルクの体躯に合う真剣を買ってもらった。確かに重かったが、思ったほどではなかった。
「ルノアさん、魔法士の道を考えてるんですけど、魔法書をいただくことってできないですか?」
「ほ、本当に? あげちゃうあげちゃう、バインドの魔法書あげちゃう!」
「ラルさんには内緒ですよ、知られちゃったら説得されちゃいますから」
「確かにラルならしかねない、ならわたしとマルク君の秘密だね」
魔法の師を騙して、マルクが使用できる魔法書をいただいた。分厚かったはずの書物が、何故かやけに薄っぺらく見えた。
こうしてマルクは、2つの武器を揃えることができた。これで魔物と遭遇しても、堂々と戦うことができる。教わったのはたった10日程度だが、才能があると言ってくれた2人の師の言葉を信じようと思う。後は2人が揃って出かける日を待つだけだった。
―*―
ラルの家に来てから15日目。朝起きると、ラルとルノアの姿はなかった。代わりに『今日は素敵な発表ができると思います』というルノアの置き手紙があった。
その発表を聞けないことが少し残念だったが、2人にとって幸せなことならそれでいいのだと思う。その手紙の裏に一言添えてから、マルクは家の掃除と料理を開始した。
世話になった家を何もせずに出て行くことはできない。せめて少しでも綺麗にしていこうとマルクは思っていた。
2時間ほどで清掃と作り置きの料理を終えたマルクは、ようやく家を出ることにした。真剣も魔法書も持った。少量のパンも持った。出て行く準備はできている。後はドアを開けてこの家を出るだけである。
なのに、手がドアに向かなかった。足が前に進まなかった。視界が一気に、ぼやけ始めていた。
「う、うう……!」
嫌だった。こんな幸せな場所から出ていくなんて、本当はしたくない。あの人たちの優しさに触れていたい。甘えていたい。ずっと側で笑い合いたい。
でもそれだと、あの人たちは幸せになれない。部外者の自分のせいで幸せが壊れるなど、あっていいはずがなかった。迷惑をかけていいはずがなかった。
「……行かなきゃ」
目を拭ったマルクは、ようやく外へ出ることができた。町や村から離れた森の中にある一軒家。ここからマルクは、新たな道を見つけて進むことになる。
「前とは、違うんだ」
それだけを心に置いて、マルクは森の中を進み出す。戦いを教えてくれた2人のためにも、前のような生活だけは絶対に送らない。
「ありがとう、ございました」
マルクは最後に、小さくなったラルの家に向けて、大きくお辞儀をするのであった。
―*―
マルクが家を出てから3時間後、家の主とその友人が姿を現した。
嬉々として家の中に入った2人が見たのは、少し綺麗になった部屋と美味しい料理の作り置きだった。
「……なんて書いてあんだ?」
声が震えるのを抑えるように、家の主は言った。
「『今日、この家を出ます。今まで本当にお世話になりました、大好きな2人の幸せを祈っています』」
返した言葉も、僅かに震えていた。
「なあルノア、おまえマルクに何かあげなかったか?」
「バインドの魔法書を1つ。あなたは?」
「真剣を買ってやった。剣士を目指すからって、おまえには言うなって」
「わたしも一緒。今思えば、そんなこと言う子じゃないって分かってたのに」
「だよな、アタシたち、どんだけアホなんだよって話だよな」
マルクが生きていくために真剣と魔法書をねだったのだと気付いたとき、2人は激しい後悔の念に苛まれた。どうして気付かなかったのか、どうして何も言ってやれなかったのか。
どうして彼が浮かべた笑顔に、安心しきっていたのだろうか。
だがそれを今悔やんだところで仕方がない。時を巻き戻す術はないのである。
だからこそ、2人がやるべき行動は1つしかなかった。
―*―
「迷った」
ラルの家を出てから数時間後、マルクは森から未だ出られずにいた。
ラルとの遭遇を恐れたマルクは、普段ラルたちが帰ってくる方向とは別の方向へと歩み出したのだが、それがいけなかったのかもしれない。ラルの家付近より、森が濃く深くなっているような気がしている。
そして嫌なことに、ただでさえ暗い森の中がさらに暗くなっていく。夜が近付いてきたのである。このままだと、この真っ暗闇の中で一夜を過ごさなければならない。出発から前途多難である。
――――その時だった。
進んでいる方向から、魔物の気配を感じ取った。しかも1体ではない、5~6体、少なくともそれくらいいるように感じられた。そしてその気配は、少しずつマルクの方へ近付いてくる。
心臓が駆け出す。ドクンドクンと跳ねる鼓動が、自分の緊張状態を明確に示していた。
――――落ち着け。
大きく深呼吸をして、少しだけ冷静を装う。
数は多いが、やってやれないことはない。囲まれさえしなければやりようはある。
マルクは木の陰に隠れて、魔物が通り過ぎるのを待つ。来る場所が分かっているなら、バインドの魔法が使える。
魔法書を片手に、タイミングを図るマルク。このまま逃げてしまいたいという気持ちもあるが、それをやって人々が傷つくようなことがあれば自分を許せなくなる。
人を守る側になると、覚悟を決めたばかりだろう!
マルクは先ほどまで自分がいた場所に魔物が来たことを感知すると、バインドを発動させた。暗闇に包まれた場所での激しい光に戸惑う魔物、現われたのはどうやら村を襲った犬型の魔物のようだ。
紐状の光が魔物に絡みつき拘束する。3体は無事捕らえたが、残り2体には逃げられてしまう。敵意を察知したのか、真っ直ぐマルクの方へ駆けてきた。
その場に魔法書を置き、マルクは真剣を鞘から抜いた。師匠と同じ白銀の剣だ。
木陰に隠れて剣を構える。来ると分かっているなら無理に突っ込む必要はない、相手に合わせて剣を突き出すだけ。
――――ほらきた!
魔物が顔を見せたと同時に、マルクは思い切り剣を魔物の眉間に突き出した。ズズズと肉を裂いていく感触が全身に浸透する。
手応えあり、奇声とともに魔物はその場で動かなくなった。
「バウバウ!!」
時間差でもう1体の魔物がマルクに向けて飛びかかる。マルクはそれを感じ取れていた。だからこそ魔物に突き刺さる剣から手を放して最小限の動きで回避、隙だらけの魔物の後ろから剣で串刺しにする。あっと言う間に2体を葬り去った。
それとほぼ同時に、バインドの拘束が切れ、3体の魔物が我先にと襲いかかってくる。
「……負けるものか」
マルクは自分を鼓舞するように呟いた。
ここで負ければ、剣を教えてくれたラルにも、魔法を教えてくれたルノアにも申し開きが立たなくなる。彼女らが教えてくれたから今、この場に立つことができている。それを台無しにするようなことなどあってはならない。
「負けてたまるかああ!!」
喉が痛むほどの声を上げ、マルクは魔物に向かって走り出す。
「ッ!!」
すると魔物は、怯えたように急停止し、ゆっくりマルクから距離を取った。
自分の気合いにおののいた、そううぬぼれる前に、マルクは魔物が怯えた理由を知る。
――――どうして今まで気付かなかったのか、この凍り付くような寒気を放つ気配に。
ゆっくりとそのおぞましい気配を辿れば、人間の3倍はありそうな巨大な魔物がこちらの様子を窺っていた。見た目はオオカミのようで目の前の魔物とそれほど相違はないが、身体の大きさだけが圧倒的だった。
「キャンキャン!!」
3体の魔物が逃げだそうと全力で駆けだしたが、巨大な魔物はあっさりと先回りし、前足で同時に3体を思い切り払った。目に留まらぬ速度で木にぶつかった魔物は、身体の部位が飛散し息絶える。
――――無理だ。
これに勝つのは無理だと、マルクの全身が叫んでいた。無機質で吸い込まれそうなその瞳と目が合ってから、膝が震えて言うことを聞かない。声を上げて威嚇してこないことが、さらにマルクの恐怖心を煽っていた。
そんな極限状況で頭に過ぎったのは、2人の師の言葉。
『逃げることは負けじゃない。相手が追って来なければこっちの勝ちだ。だから考えろ、追いたくなくなる逃げ方は何か、どう逃げれば相手は追う気を失うのか』
『魔法士はね、1番冷静でなくちゃいけないの。戦況ひっくり返す可能性が高いのは、他でもない魔法士だから。だから冷静に状況を判断する、使えるものは何だって使う』
――――まだだ。
例え絶望的な状況だろうと、勝手に死を覚悟するほど無責任なことはない。死ぬその直前までは、生きることを諦めてはいけない。
マルクと巨大魔物の間には、遮るものはない。大きな樹木が巨大魔物の前方左側に存在するが、マルクと距離を詰めるのに障害はないだろう。しかしながら、精神的に圧迫感があるはずだ。
マルクは魔法書を拾い上げ、巨大魔物の足元へバインドの魔法を放つ。
ただし全うには仕掛けない、巨大魔物の真下ではなく、敢えて前方へ陣を展開する。
そうすれば回避が後方になり、マルクとの距離が大きく開く。その間に逃走することができるかもしれない。
――――しかしながら、巨大魔物はマルクの浅はかな思考を読み取ったように前方へ跳躍した。着地地点はマルクそのもの。このまま動かなければ、踏みつけにされて死んでしまうだろう。
だがマルクは、体勢を低くして滑り込むように前方へ突き進んだ。まるで巨大魔物が突っ込んでくることを想定していたように。
『相手が自分の想像通りに動くことはない。だから常に不利な選択肢も頭に叩き込め、そうすればピンチだってチャンスに変えられる』
ギリギリで巨大魔物の突進を躱したマルクは、すぐ近くに着地した敵の後ろ足めがけて突きを放つ。
「ギイイイイ!」
悲鳴というにはおぞましすぎる声を上げる巨大魔物。体躯が大きいとはいえ、痛みに耐性があるわけではないらしい。
ここしかないとマルクは思った。片足を奪った以上先ほどまでの機動力は決してないはず。逃げるとするなら今だ。
剣を突き刺したまま、マルクは魔物から距離を取ることを決める。剣も魔法書も放置することになるが、命に勝るものではない。師匠2人に心の中で謝罪しながら、その場を離れようとしたときだった。
横腹に衝撃が入り、マルクの身体が吹き飛ぶ。樹木に背中が衝突し、口から大量の血が溢れ出した。
油断した。敵わない魔物に一矢報いたせいで、完全に油断した。
全身が痛い、目眩がする。先に背中を打ったおかげでなんとか意識を保つことができたが、動けそうにない。いつ気を失ってもおかしくない状況。
しかしながら、ゆっくりとこちらへ向かってくる巨大魔物が失神で終わらせるはずがない。その身を傷つけた敵であるマルクを、容赦なく殺すだろう。
それが分かっていながら、マルクに恐怖心はなかった。痛みで感覚が麻痺しているのか、何故か口元が緩み始める。
――――――やれることは、やったよな?
油断したとはいえ、逃げずに立ち向かうことはできた。相手に傷を負わせることができた。2人の師匠の言葉を、マルクは実践できたのだ。
これでもう、思い残すことはない。
強いていうなら2人の笑った顔が見たかった。最後に見られたらそれほど幸せなことはないだろう。
巨大魔物が目の前で止まる。マルクは目を閉じた。そして祈った。できればこの痛みが、一瞬で消え去ってしまうことを――――――
「マルク!!」
――――――ずっと聞き慣れた、女性の声だった。
巨大魔物の関心が切り替わる。死にかけの餌より警戒すべき存在をその身で感じたのだろう。
「オラアアアア!!」
常人を超越した身のこなしで魔物へ接近するのは、青のポニーテールが特徴の若い女性。
マルクの師匠である、ラルだった。
ラルは持っている長剣を振るうが、巨大魔物が後方に跳躍、回避される。
「相変わらずはええなテメエは!!」
だがラルは、間髪入れずに地面を蹴って接近する。たった一歩で巨大魔物を斬る間合いへ入った。
それに合わせて魔物は突進する。ラルの剣と巨大魔物の牙がぶつかり合うが、ラルは軽く腰を落として踏ん張ると、放物線を描くように魔物を後方へと吹き飛ばした。
巨大魔物は空中で体勢を変えながらラルから視線を切らない。この女から目を離せばいつやられてもおかしくないと本能が理解したのだろう。
それは正しい。足を負傷している巨大魔物は本来の機動力を発揮できない。近接で対応出来るようラルに神経を集中させる必要がある。
――――ただしそれは、ラルと1対1の場合だった。
巨大魔物を容易に囲う魔方陣が展開されていた。マルクが使用するものとはレベルが違う、大規模な陣。そこから現われたのは無数の光線。巨大魔物を封じるためのものである。
「ラル!」
「ったく、完璧なタイミングだぜ!」
陣を放った張本人、ルノアの合図で再度接近を試みるラル。彼女たちの基本戦術、ルノアが動きを止めてラルがトドメを刺す。
「ガアアアア!!」
しかしながら巨大魔物も黙ってバインドにかかるはずもない。迫り来る紐状の光を払いながら対処する。その大きさに似合わない俊敏な動きで、魔物はバインドを防ぎきった。
――――それにより、ラルから集中を切ってしまった。
青髪の剣士は巨大魔物の前で跳躍すると、剣を真下に向けて急降下した。
「あばよワンコロ」
そして魔物の頭部を一突き、魔物から血しぶきと断末魔が広がった。
「は、はは……」
さすがだった。自分ではどうにもならない相手を、師はこうもあっさりと倒してしまった。
気を抜けたと同時に、一気に眠気が襲ってくる。それと同時に身も凍るような寒さを感じた。血を流しすぎたせいで、あの世に向かっているのかもしれない。
「マルク! おいマルクしっかりしろ!」
「馬鹿ラル! 揺さぶってる暇があったらマルク君運ぶわよ!」
でも、それでもいいかもしれないとマルクは思っていた。
――――最後の最後に、ラルとルノアの声を聞くことができたのだから。
―*―
「……」
目を覚ますと、マルクの視界には見慣れない白い天井が映った。
頭の下には柔らかい感触、身体の上には布団、どうやらベッドで寝ているらしい。
…………ベッド?
反射的に上半身を起こすマルク。その反動で腹部から強烈な痛みが走る。
痛い。とても痛い。その痛みが教えてくれている、自分が生きていることを。
「……マルク」
「マルク君!?」
声がした方向を見ると、少し離れた位置にあるソファに2人の師が座っていた。
魔法の師はとても嬉しそうに目を潤ませていたが、剣の師は無表情で立ち上がりマルクの方へと向かってくる。
そして――――――――その弟子の頬を軽く弾いた。
不意の衝撃。
マルクは頬を抑えながら、剣の師の顔を見る。
その表情は、泣くのを我慢するようにプルプル震えていた。
「ちょっとラル、いきなり何を……」
「馬鹿野郎!! どうして黙って家を抜け出した!?」
ルノアの言葉を遮って、ラルはマルクへ強い言葉を浴びせる。剣の指導をしていたときも、こんな迫力を見せたことはなかった。
「気にするなって言ったよな、なんで出て行くって発想になる!? アタシたちの言葉よりあいつらの言葉を信じたのか!?」
その通りだった。マルクは師として尽くしてくれていたラルとルノアの言葉を疑い、初めて会ったクリウスとドニオの言葉を信じた。ラルとルノアからすれば哀しいし悔しいことだろう。
でもマルクには、そうしなければいけない理由があった。
「……だって、だって2人とも優しいから、僕に気を遣ってるんだと思ったから……」
マルクは泣きながら、自分の気持ちを正直に吐露した。
ずっと今まで忌み嫌われていたマルクにとって、手を差し伸べてくれたラルとルノアはかけがえのない存在である。何よりも優先したい相手なのである。
そんな2人の重荷になっているかもしれない、不幸に導いているかもしれない。それだけでマルクが家を出るには充分だった。
「それが馬鹿だって言ってるんだよ! 気を遣うに決まってるだろうが!」
そう言ってラルは、ポロポロと涙を零すマルクを優しく抱きしめた。
「そりゃ初めは好奇心で始めたことだ。ちょっと子どもに稽古をつけてやろうくらいにしか思ってなかった。でもな、成長していくお前を見て、愛着なんてものが湧き始めた。そしたら当然可愛がるし、アタシたちの事情に巻き込まないよう気だって遣う。当たり前のことなんだ、お前はアタシたちにとって可愛い弟子なんだから」
「う、うう……!」
ラルの思いの丈が胸に刺さり、涙が溢れ出してしまうマルク。
始めに我が儘を言ったのは自分、だから思いは一方的なものだとばかり思っていた。
でもそうじゃなかった。自分の師は、こうも自分のことを考えてくれていたのだ。
こんなに嬉しいことはない。
「ごめんなさい……勝手に家を出たりして……!」
「分かればいいんだよ分かれば。ったく、ガラにもないことしちまったぜ」
愚痴っぽく呟くと、ラルは少し気恥ずかしそうにマルクから離れた。マルクを抱きしめたことが思った以上に衝動的だったようだ。
「ゴメンねマルク君、君が悩んでたこと気付いてあげられなくて」
入れ替わるようにマルクの側へ寄りそうルノア。彼女は申し訳なさそうな表情を浮かべるとマルクの頭を優しく撫でた。
「もっとちゃんと話していたらこんなことにならなかった。マルク君が出て行くことも怪我を負うこともなかった、本当にごめんなさい」
「そんな、怪我を負ったのは僕が未熟だからで」
「うん、それもある。マルク君は未熟、わたしたちと比べればまだまだ鍛練が足りてないの」
厳しい現実を突きつけたルノアだったが、言葉とは裏腹にマルクの右手を両手で優しく包み込んだ。
「だから、ちゃんとわたしたちに指導させてね? マルク君が独り立ちできると思ったら、その時は笑顔で送り出すから」
「……はい」
本当に優しい人たちだった。決して突き放すことなく言葉をかけ続けてくれている2人に、もはや頭が上がらない。そう思ってしまうほどに、マルクは感極まっていた。
「それとね、マルク君が心配してたこと、ちゃんと対策したから大丈夫だよ」
「えっ?」
「マルク君、このままだとわたしたちがしっかり休めないと思って家を出たんでしょ?」
そうである。2人は今マルクの心配をしてくれていたが、そもそもマルクが家を出たのは2人の休む時間が取れなくなると思ったからである。
その心配が解消されなければまた同じことを引き起こしかねないが、ルノアが言うにはどうやら解決しているとか。
「ほら、昨日わたしが置き手紙残したでしょ?」
「はい、素敵な発表ができるというの……」
「ラルがね、街の方へ引っ越すことにしたの」
「えっ?」
「というかここ、ラルの新しいお家」
衝撃的な事実をルノアに聞かされ、頭の整理が追いつかないマルク。
道理でこの部屋に見覚えがなかったわけである。
「昔っからあそこに住んでたから暮らしてたわけだけど、街から遠いわ不便だわで良いことなかったからな。ここに住めば移動は楽だしその分休憩に回せる、お前の心配事だってなくなるだろ?」
本当に至れり尽くせりの対応である。
昔の家が不便であったのが事実であったとしても、愛着があって過ごしていたことも事実のはず。それを自分を育てるために住む場所を変える選択を取ってくれたことに、マルクは感謝の念を隠すことができなかった。
「ありがとうございます、何から何まで……」
「ああもういつまで泣いてんだ、せっかくこれから再スタートなんだから笑えってのに」
「そうよマルク君、新しい門出は笑って迎えましょ」
「……はい、ありがとうございます!」
2度目の謝辞は満面の笑みで伝えることができた。それに釣られるようにラルとルノアも笑う。
これでマルクは、再び2人から指導を受けることができる。2人と生活することができる。それが何より嬉しく、幸せに思う。
きっと2人もそう思ってくれている、そう信じた矢先のラルからの質問。
「で、マルクは剣を教わりたいってことでいいんだよな?」
満面の笑みで、剣の師はそれ以外の選択肢がないように訊いていた。
「えっと、あの」
「何だその呆けた面は、2週間はとっくに過ぎてるだろ?」
確かに、ラルが言うように剣と魔法のどちらを取るかは2週間経ってから決めるという話だった。
しかしながら、今の話の流れでどちらかに絞るというのはあまりに残酷な行いだと思うマルク。改めて指導をお願いしておきながら片方を切るなど、少なくともマルクにはできそうもない。ラルとルノアの哀しい顔を想像したら尚更である。
「ちょっとラル、そういう圧迫するような訊き方止めなさいよ。本当は魔法を教わりたいのにうっかり剣って言っちゃうかもしれないじゃない」
もはやもう片方の師に縋るしかないと思いきや、ルノアはルノアで既に臨戦態勢に入っていた。
「何言ってんだお前、たった2週間足らずであのワンコロの足に傷を負わせられる逸材だぞ、剣を教わるしかないに決まってるだろ!?」
「あなたこそ馬鹿なの!? 魔法を使って駆け引きができたからこその傷に決まってるでしょ!? そういった高次元の駆け引きは魔法士に必要な素質なの、分かる?」
「誰の駆け引きが低次元だ! 剣士は馬鹿みたいに突っ込むだけだと思ってんのか!?」
「少なくともあなたはそうでしょうが!!」
恒例の言い合いが始まってしまい、オロオロと様子を見ているしかないマルク。
なんとか止める方法がないかと頭を悩ませるが思い浮かばない。しかしこのまま口論させるわけにもいかないので、火に油を注ぐ覚悟でマルクは告げる。
「その、えっと、両方とも習うというのはどうでしょうか?」
「「それはダメって言っただろうが!(でしょうが!)」」
「……ですよね」
大きく溜め息をついて、マルクは燃え上がる2人のやり取りを眺めることにした。
「マルクは剣士になるべきだ! いい加減理解しろよ!!」
「魔法士に決まってるでしょ! 10人に訊いたら10人がそう言うわよ!」
「じゃあ100人に訊いたら90人は剣士って言うってことだな!?」
「どうなったらそんな計算が出てくるのよ!?」
マルクは無意識に笑みを浮かべていた。2人の会話が知らず知らずにマルクへ元気を与えていた。
相変わらず師は自分にどちらを教えるか揉めているけれど、そこまで褒めてもらえる素質なのだとしたら、両立できる可能性だって充分にある。
だがそれはずっと後の話。
少なくともマルクは、こんな楽しい光景がずっと続くよう、2人と過ごしていきたいと思うのであった。