自転車屋さんのおじさん
久しぶりに自転車に乗ろうとすると、タイヤに空気が入っていなかった。
このまま乗ってしまうと、タイヤが壊れてしまうかも。
家にある空気入れを使っても良かった。でも気が向いたので、近所の自転車屋まで、自転車を押していくことにした。自転車屋で空気を入れてもらおうと思ったのだ。
随分前に、別の自転車屋で空気を入れてもらった時は、空気入れの価格は300円だった。その時は油も差してもらったっけかな。それくらいなら。僕は思った。
店主が暇そうにしていたら、油を差してもらったり、メンテナンスもしてもらおう。
自転車を押して歩く。
台風が近づいているらしいが、雨は降っていなかった。雲が空を覆っている。夏は終わっていないけれど、まだ暑い日々が続いており、半袖でも蒸し暑い。
自転車屋に近づくと、少しだけ緊張してきた。利用したことのない自転車屋だったからだ。
「空気、入れてもらえますか?」
自転車屋にたどり着くと、道具を洗浄していた店のおじさんに言った。
「そこにあるので勝手にやって」
随分とぶっきらぼうな店主のおじさんだ。眼すら合わせてはくれない。不安な気持ちが沸き起こってきた。
おじさんが指をさした先には、業務用の電動エアーポンプがあった。そんなもの、僕は使ったことがない。でも、使っているのは見たことがある。要は、ホースの空気の出口部分を、タイヤのバルブ部に接着させればいい。すると、勝手に空気が入っていくのだ。
やってみると、あっという間に自転車のタイヤが空気で満たされた。
すごい。早い。
自分でポンプを上下動させて、シュコーシュコー、と入れていくのとはわけが違う。世の中の便利さに、内心で僕は感動した。
空気を入れ終わると、バルブのゴム蓋がないことに気がついた。今、紛失したわけではない。前からなくなっていた。母の話だと、近所の子が悪戯をしたに違いないという。
なくて特段困るというわけではないが、いくらか気持ち悪い。代替品を買ってしまおうと思った。
「この、ゴムの蓋ってもらえますか?」
勢いよく水を出して掃除しているおじさんに、声を張って言ってみた。
「そこにあるの、使っていいよ」
本当に客に対する扱いがぞんざいだなあ。
おじさんが指をさしたあたりの箱を覗くと、それっぽいゴム蓋はいっぱいあった。どれを使えばいいんだろう。
迷っていると、おじさんが何かを差し出してきた。ゴム蓋だった。
お礼を言って、僕は受け取った。蓋を被せてみると、ピッタリと一致した。
目的は達成した。メンテナンスとかする気分でもない。もう出よう、と僕は思った。
「おいくらですか?」
「いいよ」
後ろ向きに歩くおじさんから、そんな返事があった。何がいいのか分からず、もう一度言ってみる。
「いくらですか?」
「いいよ」
「え、お金、いいんですか」
「いいよ」
おじさんは機械の音に負けないよう声を荒げ、同じ言葉を吐くだけだった。どうやら全て無料らしい。
お礼を口にし、おじさんの背中に会釈をすると、僕は店を出た。
結局、おじさんは一度も僕を見なかった。だけど、最後には、悪い気はしなかった。
きっと僕は、客商売をされたのではなく、おじさんの日常に触れただけなんだ。こんな自転車屋もあるんだなあ。
また来よう。次は油も差してもらおう。
なんでもない内容の話なんですけれど、日常で体験したことを、小説風にライティングしてみました。