06:出立の朝
ピュウピュウという気の抜けた縦笛のような音で、アルカは目が覚めた。
この部屋に窓は無く、しかし隣の部屋とつながる扉にはめられたガラスから淡い光が差し込んで部屋はわずか明るい。ソファに体を横たえたアルカは「うん」と唸って身じろぎ、研究室に泊まったんだっけかと考え……。
「ああ……」
とため息交じりにつぶやき、昨日の出来事を思い出した。ついでに、今日これからの予定も。
昨日、鍛錬場を後にしたアルカとスタッグはその足で向かった騎士団の食堂で夕食を済ませ、次の問題に直面していた。
それは、どこで一夜を明かすかということだ。
スタッグがアルカから離れられない以上、それぞれが寮の部屋に帰るわけにはいかなかった。ではどちらかの部屋に泊まるしかないか、というとそれも出来ないのである。それぞれの寮は、異性禁制であるからだ。
そんな状況である提案をしたのは、アルカだった。
『そうだ、医務部の部屋が使えますよ』
医務部の部屋は医務室と研究室に分かれており、それぞれの部屋は扉で隔たれている。両者の距離はさほど離れず、しかしそこに相手がいるとわかる最適の環境ではないか。
アルカの提案にスタッグも頷き、互いに就寝の挨拶を交わして二つの部屋を隔てる扉を閉めたのはおよそ六時間ほど前の事だ。
時計の針は午前四時ごろを指している。アルカが慣れたソファに横たわって就寝したのは急に決まった遠出のための準備をようやく終えた後の事だったから、実際の睡眠時間は四時間ほどといったところか。一般的に言えば寝不足と言われる睡眠時間で、午前四時というのも二度寝が必須の時間である。
しかし今日これからの予定への妙な緊張感のせいか再び眠気は襲ってこず、ピュウピュウというピクシーのいびきがやけにアルカの耳についた。
気の抜けた縦笛のような何とも言い難いピクシーのいびきは、一部の研究者の間ではマンドラゴラの鳴き声に次いで正気を失わせる力があると評判の音である。特に徹夜明けや修羅場明けなど心身ともに疲労困憊している時に聞くピクシーのいびきなどはマンドラゴラの鳴き声を越えるとすら言われ、かつて高名な研究者が一世一代の研究を完成させた直後にピクシーのいびきで発狂して命を落としたとか……。
「だああ、もう!」
ピュウピュウと絶え間ないピクシーのいびきにたまりかねて、アルカが叫び声をあげる。
同時にごろんと寝返りを打つとあまりに大胆に動きすぎたせいか、バランスを崩してしまった。「わっ」と声をあげてソファの背もたれを掴もうとするも時すでに遅く、アルカはそのままソファから転げ落ちてしまう。
背中を強く打ち、痛みと苛立ちにアルカは思わず「いったあい!」と叫んだ。ピクシーのいびきは未だピュウピュウと耳につくし、もう踏んだり蹴ったりである。
そんなアルカに追い打ちをかけるように、バアン!とけたたましい音が鳴った。
「アルカ! どうした!」
「わっ!」
同時に大音量でスタッグの声が響き渡り、床に転がった状態でアルカの体がびくりと跳ねる。
何事か、と思うよりも先に、アルカの視界には血相を変えたスタッグの姿が飛び込んできた。
「どうしたアルカ、何があった、怪我はしていないか?」
スタッグは床に仰向けに倒れ込んでいるアルカの姿を見るやいなや、心配そうに顔を歪めた。それからさっとアルカの傍にしゃがみこむと肩に手を添えてその上体をゆっくりと起こしていく。
「いえ、あの、寝返りをしたら、ソファから落ちちゃいまして。すみません、もしかして起こしちゃいましたか?」
自分の肩を力強く、かつ優しく支えるその手を受け入れながらアルカがそう返す。
「いいや、目はとうに覚めていたから心配するな。それで、ソファから落ちてどこかうったか?」
「ああ、背中をうって……」
と、アルカが自分で背中を触ろうとするが、その前にスタッグの手が伸びてさわりと撫でた。つきんという痛みとぞわりとする感覚が同時にアルカを襲う。先にアルカの口から出たのは「いたっ」という痛みを訴える声だった。
「ああ、痛むか……」
スタッグがアルカの耳元で吐息交じりにそう言ったと思うと、一度離れた手がもう一度戻ってくる。
今度は、衣服の中に入り込んで、肌に直接。
「ん」
思わず痛みを訴えるのとは違う声が、アルカの口からもれる。スタッグの手のひらは熱くて、少し汗ばんでいた。ぺたり、ぺたりとアルカの肌に吸い付くそれはやがて心配するような手つきから、何か探るような手つきに変わっていく。
いいや、始めからその手つきの意味は何も変わっていなかった。だからこそアルカの耳元で言ったスタッグの言葉に吐息が交じり、その手が直接触れた時、アルカの口からは思わず痛みを訴えるのとは違う声がもれたのである。
スタッグの熱い手はいよいよアルカの脇腹へと移り、その柔らかい腹肉にやわりと指を沈めた。
「……ああ、お前の体は、どこもかしこも柔らかい」
「た、隊長! アウト! アウト!」
「はっ!」
アルカの必死な叫び声に、スタッグがはっと我に返った。
それからスタッグは慌ててアルカの体から手を離すとさっと立ち上がって距離を取る。途端に支えを無くしたアルカの体は再び仰向けに倒れこみ、また背中をうった。しかしそんなことは先ほどまでの恥辱に比べれば些末なことである。
今度は自力で上体を起こしたアルカにはスタッグを恨めしく思う気持ちも、二度も背中をうった苛立ちも無く、ただあの羞恥から解放された安堵の気持ちだけがあるのだった。あのままであれば確実に何か別のもっと柔らかいところに手が伸びていたはずである。
そうなれば完全にアウト。アウトったらアウト。
「すまない……」
「い、いいえ……」
聞こえてきただいぶ感情のこもったスタッグの謝罪にそう返しつつ、アルカは痛む心臓の前で拳をぎゅうと握った。
今朝の出来事から数時間後。
あれからピクシーのいびきは気にならなくなったとはいえ、朝っぱらから心臓に悪すぎるあの出来事に二度寝することなど叶うはずも無く、アルカは眠気に目をしぱしぱとさせていた。しかし、このぐらいの寝不足ならばたまに研究が上手く行って区切りが付け難いような時に経験することである。まあそれとはアドレナリンの量が違うため一概に比べることは出来ないが、さして問題は無いだろう。それに、興奮状態で眠れなかったという点では同じだ。
と考えたところで今朝の出来事が思い出されてしまい、アルカは小さく「ああ」と唸る。幸いにもそれはアルカの前を歩くスタッグには聞こえなかった。
教会前の広場には、聖女の出立を見送ろうと大勢の人が集まっていた。
広場の中心に停められている馬車の窓から聖女が手を振ると、群衆がわあと歓声をあげる。その歓声にも警戒を払いつつ、スタッグは警護体制の最終確認を自らの目で行っているのだった。そうして最終確認をすべて終えようとしていたスタッグは最後に、貨物馬車の先導を担当するバックの元へ訪れていた。
――ちなみに今日のバックのスタッグを前にした第一声は「また医務部長と一緒にいる……」だった――
「あ、スタッグ隊長、最終確認終わったんすか」
自らのこれから乗る馬を撫でていたバックは、スタッグに気が付くとそう言った。バックに「ああ」と返すスタッグの後ろからアルカが顔を出す。
「バック、念を押しとくけど、ピクシーに異変があったらすぐ教えてよね、あと薬箱はすぐに取り出せて、揺れの少ないところに置いといて」
「わかってますって、俺だって医務部の一員っすからね、ピクシーの扱いも薬箱の扱いも心得てますって。どーんと任せてくださいよごっふ!」
『よ』のところで己の胸を強く叩きすぎたのか、バックが盛大に咳き込む。そんなバックにスタッグは呆れた視線を送り、小さく息をつくと「では頼んだぞ」とだけ言い残して踵を返した。
アルカもスタッグの後を追って歩きだし、ついに聖女が乗る馬車の前にたどり着いた。
「それじゃあアルカ、聖女様のことを頼む」
「はい」
そんな会話を交わして、アルカは聖女の待つ馬車の扉を叩く。中から「どうぞ」と伸びやかな声がして、アルカはその扉を静かに開けた。
「アルカ!」
途端に弾むような声で名前を呼ばれ、花の咲いたような笑顔で出迎えられる。
「アルカが来てくれるの、楽しみに待ってたのよ、さ、座って、すぐに出発するから」
何かを言う間も無くはしゃいだような聖女にそう言われ、アルカは慌てたように「は、はい」と返事をするのが精一杯だった。
そうして言われた通りにアルカが聖女の向かいに座ると、すぐに盛大なラッパの音が鳴り響く。出発を知らせるファンファーレだ。
馬車が揺れて、いよいよ動き出した。アルカの向かいに座る聖女はにこやかな笑みを浮かべ、窓の外に向って手を振っている。
その姿にアルカはスタッグの『聖女様のことを頼む』という言葉を思い出し、そうだ、いざという時には自分が聖女様を守るのだ、と心の中で静かに気合いを入れるのだった。