04:聖女
扉の上部にはステンドグラスがはめこまれ、光を通して色鮮やかに輝いている。色とりどりのガラスで描かれたその図柄は初代の聖女を表したもので、まるでそれそのものが神々しい光を放っているようだ。
アルカとスタッグが居るこの場所は、聖女が控える場である『聖女の間』の前だった。
厳かな雰囲気漂うその扉の前で、スタッグがドアノッカーを握り三度叩く。すると扉の中から「はあい」という伸びやかで透き通った声が聞こえ、ついでその声が「どうぞ」と促した。
聖女とは、この国の国教における最も神聖な存在である。
その起こりは宗教の起こりと同義であり、数千年前にもさかのぼると言われている。初代の聖女は神の言葉を聞き、その身に賜った神の力で起こした様々な奇跡によって人々を救済したと伝わる存在だ。聖女によって救いを受けた人々は聖女を崇め、やがてそうした人々の中から聖女の素晴らしさを説く人間が現れた。それが、聖女を教祖とした宗教の起こりだとされている。
それから何十世紀も経った今でも聖女という存在は代を変えてあり続け、人々を救済し、人々に崇拝され続けているのだった。
たった一人の、最も神聖な存在として。
「ふ、ふふ、そう、スタッグが」
たった一人の最も神聖な存在である少女は、スタッグの話を聞いてその伸びやかで透き通った声でコロコロと笑った。
「……聖女様、俺は冗談を言っているのではありませんよ」
スタッグが聖女の御前にもかかわらず、その眉間に深いしわを刻んでそう言う。そんなスタッグの前で椅子に座った聖女は、そんなことはまるで気にした様子も無くまた無邪気な声で笑った。
「わかっているわスタッグ、あなたが冗談を言っているのなら窓の外では天と地が入れ替わっていなければいけないもの」
無邪気に笑う聖女にそう返され、スタッグは眉間のしわをひとつ増やした。
窓の外は上に在る橙色の空が下に在る地をその色に染めた、綺麗な夕焼けである。
初代の聖女はその身に神の力を賜り、様々な奇跡を起こしたとされている。
しかし次代の聖女からは、その力はまったく失われたのだという。宗教の歴史では、それは初代の聖女がまさに神そのものであったためだとされている。それでも人々が力の無い聖女に落胆したり、失望したりすることは無かった。
それは、次代の聖女が初代の博愛や恩愛といった精神を充分に受け継いだ人物であったからである。
加えて次代の聖女は、溢れんばかりの才覚を持った人物であった。宗教の起こりを象徴する聖女が初代ならば、次代は宗教の発展を象徴する聖女であると言えるだろう。
その後も代々の聖女には初代のような力が宿ることは無く、しかしその博愛や恩愛と言った精神を受け継ぎ続けた聖女は最も神聖な存在であるのと同時に、常に人々を愛し、そして人々に愛される存在であり続けてきた。
今代の聖女もまた特別な力は持たずとも、人々を愛し、人々に愛される存在なのである。
「でも、ふふ、あのスタッグが惚れ薬なんて、おかしくて」
聖女が再び人々に愛されるその笑顔を見せてそう言い、スタッグはついに堪り兼ねるというように軽く項垂れてしまう。そんなスタッグの様子にすら無邪気に笑う聖女の姿を、アルカはスタッグの肩越しにただ見つめていた。
その姿はまだ少女と表現されるのが似合う年頃で、スタッグとの対比でそれが際立っていた。しかしスタッグに向って堂々と言い切る様は、確かにただの少女では無いことをうかがわせている。
今代の聖女が選ばれたのは、ほんの二年ほど前のことだ。
聖女が選ばれるのは数十年に一度。先代の聖女が引退を宣言すると、聖女は各地を巡る旅に出る。その目的は、教会で聖女となるための修行を積む少女たちを訪ねて回ることだ。そうして先代の聖女に選ばれた少女が、次代の聖女としてこの首都の教会へとやってくるのである。
それが、二年前の事だった。
その頃アルカはまだ軍の研究所に所属していて自分の研究に没頭しており、そのお祭り騒ぎのことはあまり記憶していない。薬師の薬への熱意が人それぞれであるように、国教とはいえ宗教への熱意は人それぞれなのである。同様に、聖女は人々に愛される存在だとは言ったが、その熱意には個人差があるのだ。
ただそんなアルカの耳にも、新しい聖女の噂だけは聞こえてきていた。
今代の聖女は、ここ千年の聖女の歴史の中で最も幼い少女だという。その幼いゆえの愛らしい外見や無邪気な仕草は人々の心をわっしと掴み、熱心な信者はもちろん、今まであまり熱心でなかったという人々も聖女の姿を一目見ようと教会に足を運ぶようになったそうだ。
そしてもちろん聖女というからにはただ可愛らしいだけではなく、その無邪気さに反して博愛や恩愛といった聖女の精神を見事に体現する姿に涙を流す人も多いとか……。
「でも今のところはいつもと変わりないのね、離れたら不安になることの他には何か無いの?」
「いえ、まあ、……」
その神聖さで人々を涙すらさせる聖女は、尚も無邪気な笑みでスタッグをからかいつづけた。それと共にスタッグの眉間のしわが増える。しかしそれには苛立ちや不機嫌といった感情は見えず、ただただ戸惑いのために増えたものだった。――ついでに、クソ真面目なスタッグにとって無邪気な聖女の相手というのは心労もあるのかもしれない――
聖女の言葉にスタッグは言いよどむが、聖女が「あるのね?」と聞けばスタッグは黙っているわけにはいかず、かといっていいえありませんとも嘘をつくことも出来ず、白状をしなければけないのだった。
「その、彼女の目を見てしまうと、とんでもないことを口走ってしまいまして……」
「とんでもないことって?」
「それは、その」
「ああ、実際に見せてもらった方が早いかしら?」
「それは、どうか勘弁してください……」
ついに深く頭を垂れてしまったスタッグに、聖女の無邪気な笑い声が降り注ぐ。
「うふふ、冗談よ、もちろん興味はあるけれど。それに彼女がわたしの傍にいてくれるのなら、きっと見られる機会もあるはずだしね」
いたずら気にその目を光らせる聖女に、スタッグが一度上げた顔を再びがくりと落とす。
そんなスタッグの背中と聖女の顔を交互に見ながら、アルカは困惑していた。
こうも誰かに振り回されているスタッグの姿を見るのは初めての事である。同時にこうもスタッグを振り回す人間を見るのも初めてで、更にはそれが聖女だというのだから困惑もひとしおだ。
聖女と言えば、人々を愛しそして愛されるのと共に、年若いながらも人々を涙すらさせる神聖な存在であるはずだった。
今、アルカの目の前でスタッグをからかって笑うその姿は、確かに人々を愛しそして愛される存在そのものの姿である。しかし人々を涙すらさせる神聖な存在であるかといえば、アルカの目にはまったく神聖さの欠片も映ってはいなかった。
そんな理想と現実の差に対する困惑を抱えつつアルカがその姿をじっと見ていると、聖女と視線がばちりと合う。
「アルカ」
聖女は、部屋に入って直ぐに一度名乗っただけのアルカの名をはっきりと呼んだ。
「わたし、いつも巡行の時は馬車の中で退屈だったの、でも今回はアルカが話し相手になってくれるのね、嬉しいわ」
そう言って聖女は胸の前で両手を合わせ微笑んでみせる。その姿のなんと可愛らしく、愛らしいことか。アルカの抱えていた困惑など、あっと言う間に吹き飛んでしまうようだった。
神聖さの欠片も見えないことなど、まったく些末なことではないか……自分はいったい何を困惑していたというのか。
一瞬の間にそんな考えが頭をよぎったのがわかると、アルカは自分がすっかりその笑顔に見惚れてしまっていたことに気が付いてはっとした。それから、なるほど、これが聖女と呼ばれる存在か……と畏敬にも畏怖にも似た感情がアルカの胸の内に湧き上がる。
そんなアルカを余所に、微笑みを浮かべた聖女はその伸びやかで透き通った声でもう一度アルカの名を呼び、「よろしくね」と言葉をかけてくるではないか。
アルカはその屈託のない笑みに少しだけ戸惑いながら、それでもその瞳から目をそらさずに「精一杯、務めます」と返事をするのだった。