03:隊長の受難
「いや、部屋を出るときから何か不安のようなものはあったんだ。しかしそれは気に留めるほどのものでもなかった。……だが、部屋を離れるほどに不安のようなものが募り、心臓も落ち着かなくなる。そうして気が付けば、俺は今来た道を全力で引き返していた……」
沈痛な面持ちで――その両目は片手で覆い隠されているが――スタッグが語る。その言葉を聞いて、アルカはますます心臓を痛くしながらもスタッグに向かって手のひらを向け『待った』の姿勢を取った。それから「あの、少し時間を下さい」と言うと、動き出した。
スタッグに背を向け、ケージの中で求愛行動を続けるピクシーの元へ向かう。それからそのケージの蓋を開けると、アルカは中のピクシーを掴んで取り出した。それだけでもピクシーから不安を訴える「ピッ」という甲高い鳴き声が上がる。更にアルカがピクシーを掴んだままケージから離れていくと、ピクシーは「ピィー!」と更に長い音で甲高い鳴き声を上げた。
その実験結果にアルカは己の仮定が正しいことを確信し、不安を訴えるピクシーを手早くケージに戻すと、アルカはゆっくりと、スタッグの方を振り返る。
「……あの、間違いなく、惚れ薬のせいですね……すみません……」
そうしてスタッグに向けて実験の結果と共に、謝罪の言葉を告げるのだった。
「……つまり、俺はお前から離れられない、ということか」
スタッグがそう返し、両者の間には大変に重苦しい空気が流れた。両者ともに互いを責める気持ちが無いために、その重苦しさは倍増する。
そんな空気を振り払うように、先に口を開いたのはスタッグだった。
「こうなったら仕方がない、お前も明日からの巡行に同行してもらうしかないな」
その言葉にアルカは顔を上げ「同行ですか」と言う。
「聖女様の護衛任務を抜けるわけにはいかないからな。お前が聖女様の傍に居れば必然的にお前の傍は離れない、恐らく問題は無いだろう」
「……そうですね、惚れ薬も解毒剤も明日までに作れないなら、そうするしか無いですね」
アルカの返答に、スタッグは「ああ」と答える。両目が覆われているのにも関わらず、スタッグの表情にはやはり隠しきれない険しさが見て取れた。そんなスタッグの姿にいたたまれなく思うアルカは、つい謝罪の言葉が口をついて出てしまう。
「あの、本当に、すみません」
「いや……、勘違いをして勝手に飲んでしまった俺が悪い、……とはいえ、打開策が無いとなればこの状況を乗り越える術を考えることが必要だ、むやみに謝り合うのは一度やめよう」
スタッグの提案にアルカはあっと思う。
自分は、自分の失敗の事で手一杯になっていた。自分よりももっと辛いのはスタッグのはずなのに。いいや、そう思ってただ謝ったり落ち込んだりするだけでは前に進まない。スタッグの言うとおりだ。この状況を乗り越える術を、考えていかなければ。
そうなれば落ち込んだ顔もしていられない、とアルカは表情に気合いを入れた。
「わかりました、じゃあ、ピクシーも連れていこうと思います。経過が観察できれば巡行中でも何か解決策が見つかるかもしれません」
「ああ、なら、そうしてくれ」
スタッグの言葉に、アルカは力強く「はい」と返した。
その声にスタッグはようやく両目を覆っていた手を外し、アルカの表情を見る。焦ったり落ち込んだりしていたついさっきまでのそれとは違い、それでも気合いを入れるのに非常に頑張ったのだろうと察することのできる表情。
なんと頼もしく、健気で、それでいて愛らしいのだろうか。
それはもう、思わず手を伸ばしてその栗色の髪に包まれた頭を優しく撫でてやりたいような……。
「ああ、栗毛のポニーのように愛らしい……」
「た、隊長! 隊長漏れてます! なんかいろいろと!」
「はっ!」
焦ったアルカの声で、スタッグが我に返る。
我に返ったスタッグの目に映ったのは、赤い顔で自らのこめかみあたりにあるスタッグの手を、その腕を掴んで必死に引きはがそうとしているアルカの姿。なんて可愛らしい……と思いかけ、スタッグは慌てて再び我に返るとアルカから視線を逸らして手を引いた。
アルカはようやくほっと息をつき、それから自然と己の頬に手が伸びた。片手でぴたりと頬を覆えば手のひらの冷たさが心地よく、頬が熱いのだとわかる。
なにせ普段のスタッグにはまるでそぐわない、優しい手つきで頭を撫でられてしまったのだ。それは父が幼子にするような手つきでは無い。ともすればそのままこめかみ、頬へと降りていって唇をなぞりそうな、そんな手つきであった。幸いにも必死で止めたので、なんとかこめかみあたりでとどまらせることが出来たが……。
自分でまいた種であるとはいえ、なんて心臓に悪い……。
そう思ってまた心臓を傷めれば、スタッグが再び沈痛な面持ちで――やはり両目は片手で覆い隠されている――言った「すまない……」という言葉に対して、アルカはただ「いいえ……」と絞り出すような声で応えることしかできなかった。
数秒間続いた沈黙を破ったのは、スタッグの咳払いの音だった。
「あー……ひとまず、聖女様のところへ向かおう、そもそも訪れる予定があるんだ、それに事情も説明しないといけないだろうから、な」
スタッグの言葉に、アルカは小さく「はい……」と返した。
医務部の部屋を出たアルカとスタッグが廊下を歩いていると、前方からやってきた騎士団員の青年に声をかけられた。手には何か紙の束を持っている。
「あれ、珍しいっすね、医務部長が廊下歩いてるの、しかもスタッグ隊長と」
アルカを医務部長と呼んだやけにフランクな物言いをする青年の言葉に、スタッグの後ろを歩いていたアルカが眉をひそめた。
「ちょっと、珍しいってどういう意味」
「いやだって、医務部長いっつも医務部の研究室に引きこもってるじゃないすか」
「引きこもってない! 研究! 仕事してるの!」
アルカが勢いよく言い返すが、腹が立つほどにフランクな青年は悪びれもせずあはは~と笑うだけだ。アルカが「笑うんじゃない」と叱り飛ばせば青年は「すみません」と謝るものの、へらへらとしていて反省しているとは思えない態度である。
自身を挟むような形で繰り広げられたその攻防に、スタッグは呆れたように息をつくとへらへらと笑う青年の方へ視線を向けた。
「バック、大した用が無いならさっさと行け」
ついにスタッグにそう叱られ、バックはおっととばかりに肩を竦めた。
その表情にあまり応えた様子がないあたり、こうして叱られる事には慣れているようだ。その証拠にへらりと笑って「へえい」と気の抜けた返事を寄越すではないか。そもそも叱られていると思っているのかどうかすら怪しいものだ。
しかしこのバックという名の部下はいつもこの調子なのである。スタッグは呆れはしても、今更こんなことできつく叱る気にはならない。
そしてそれはアルカも同様で、医務部の所属でもある彼の非礼をまったく仕方ない奴だと済ませる……ことはなく、すれ違いざまにその生意気な部下の背中を強めにばしんと叩いてやった。バックから「いてっ」という声がする。
「ああ、いやいや、用ならあるんっすよ」
バックはそのまま立ち去るかと思いきや、そう言うとアルカとスタッグの方を振り返るのだった。
「スタッグ隊長、これからどちらへ行かれるんすか?」
「ああ、聖女様のところへ向かうところだ」
「医務部長と一緒に?」
そう言うとバックはスタッグとアルカの顔を交互に見て
「結婚報告っすか?」
と言う。
その言葉に、アルカとスタッグが同時に吹き出した。
次いでアルカはごほごほと咳き込み、スタッグは「お前は何を言っているんだ!」と語気荒く前に出る。その剣幕にはさすがのバックも一歩後ずさり、迫りくるスタッグから己の身を守るように持っていた紙の束を両手で持って前に出した。
「いや、だって、隊長最近、お父上と顔合わせるたび早く結婚して身を固めろって言われてるみたいだったから、ついに決心したのかなあって」
「お前はなぜそう飛躍した解釈をする」
「いやあ、は、はは」
眉間のしわをもれなく倍増したスタッグに睨まれてもまだ笑いが出てくるあたり、どうやらバックは見上げた根性の持ち主のようだ。しかしバックの目は今にも大海原に飛び出していきそうなほど右に左にと盛んに泳いでいるので、実のところ恐怖のあまりの空笑いなのだろう。
スタッグが近頃教会に勤める父と顔を合わせる度『そろそろ身を固めることを考えろ』だの『私を安心させてくれ』だのと言われ続けて、うんざりしていたことは事実である。
とはいえスタッグはそういう愚痴をわざわざ部下に聞かせるようなことはしない。おそらくどこかで父に捕まっていたところを見られたのだろう。あの父は所構わずスタッグを捕まえては言いたいことを言って去って行くから、見られてもおかしくはない。
しかしそれでアルカと一緒に聖女の部屋へ向かうところを見て「結婚報告か」とは飛躍しすぎている。まず恋人ですらないというのに。あとこの上なくタイミングが悪いではないか。
ただスタッグにとって幸いだったのは、後ろでまだ苦しそうに咳き込んでいるアルカが恐怖のあまりかいつもより声が小さいバックの言葉を聞いていないであろうことだった。
「で、お前はそんな下らないことを言うためにわざわざ呼び止めたのか?」
「あ、いやいや、これっす、これ」
スタッグが詰問するように言うと、バックは慌てて構えていた紙の束をばさばさと揺らしてそう言った。
「これ、明日からの巡行警護のローテーション表っす、聖女様のところへ向かうんだったら今持ってくわけにはいかないっすよね? 鍛錬場の入口に置いとくんで、帰りにでも寄って一部持ってってください」
そう言ってこの空気をごまかすようにへらりと笑うバックに、スタッグは心労極まるといったように目を閉じると呆れたように息をつく。それから「確認した」とバックに告げると、間を置かず「さっさと行け」と指示するのだった。