25:流行りのおまじない
聖女の巡行はその後予定通りにいくつかの町や村を巡り、ようやく終わりを迎えた。
あれからスタッグはあの日のキスについて、何かを言うことは無かった。アルカはスタッグが言わないのならば自分から言うわけにもいかず、しかしあの日のキスが頭から離れずにいるのだった。
きっと寝ぼけていただけ。寝ぼけて理性が無くなっていたから、惚れ薬の効力に逆らうことができなかっただけ。何も言わないのは、覚えていないだけだ。
真意など、何も無い。
アルカは忘れてしまうためにそう考えたが、むしろ心臓がきりと痛んで余計に忘れることができなくなってしまっていた。
それは首都に帰ってきて四日が経った今でも、変わらない。
机の上の小瓶を見下ろして、アルカはため息をついた。
小瓶を満たす透き通ったオレンジ色の液体は、アルカを苦しめ続けた惚れ薬である。材料の精製や熟成を経てようやく再現に成功したのだ。しかしこれで終りではない。今度はこれをもとに、抗体である解毒剤を作らなければ。
今度は頭を切り替えるためにはあっと息をつき、アルカは机の上の小瓶を手に取ると後ろを向いた。すると目に入るのは、同じケージの中で過ごす三匹のピクシーだ。
「あー……やっぱり育児放棄してるか、まあ仕方ないよね、実験用だから子育ての仕方を知らないんだし」
そう独り言をつぶやくと、アルカはケージの方へと歩いていく。そうしてケージの蓋を開けると中から一匹のピクシーを掴んで取り出した。他の二匹よりも一回り小さいそれは、二匹のピクシーの子どもだ。母親から母乳を与えられず、随分と弱っているようである。
野生のピクシーは群れで生活し、若いピクシーは年長のピクシーから子育てを学ぶ。しかし実験用に生まれたピクシーは一生をケージの中で過ごし、群れというものを知らないのである。子育てを学ぶ機会は無く、また出産すら経験せずに死んでいくピクシーがほとんどだ。育児放棄は不自然なことではない。
アルカはピクシーの子どもを新たなケージに移すと、あらかじめ用意していたピクシー用のミルクが入った器をケージの中に入れた。生存本能なのか、ピクシーの子どもは器を入れた途端に近寄ってきて、中身を舐めはじめる。
その様子にほっと息をつきながら、アルカは元のケージに視線を移した。
「それにしても、惚れ薬は体内に残ってないはずなんだけど……」
訝しげに眉をひそめてそうつぶやいたのは、ケージに残された二匹のピクシーがぴったりと体をくっつけているからだった。
首都に帰ってきたその日のうちに、アルカはピクシーの血液を調べてその体内から惚れ薬がすっかり排出されていたことを確認した。だというのにピクシーは相変わらずもう一匹のピクシーに愛を表現し続けていたのだ。またもう一匹のピクシーがそれに応えている状況も変わらず、それはアルカにとって不思議で、かつ不安でもあった。
ただ変化があったとすれば、始め程の激しさは無く落ち着いた愛情表現に変わったという点か。しかしそれがこの不思議とどう関係しているというのか。アルカはまだ仮説をたてることすらできていない。
だからこそ不安が増すのである。
首都に帰ってきたその日のうちに、スタッグの血液も調べた。その体内にはすっかり惚れ薬の成分は残ってはいなかった。実際スタッグもアルカと離れることにまったくの不安は無くなったと言っていたので、それは確かなことである。
だが、しかし、ピクシーはこの様子だ。スタッグにももしかすると、後遺症のようなものが残っているのでは?と不安になってしまう。
そしてもうひとつの不安は、いつから?という疑問だ。
いつから惚れ薬は、体外に排出されていたのだろうか。もしかすると、スタッグが怪我をして血が流れたことで一気に排出されたのかもしれない。
しかし、だとしたら、あのキスはいったい。
いや、思い込みという事もある。惚れ薬が効いていると思い込んでいて、そして、理性の働かない状況だったなら有り得ることだ。だからやっぱり、あれには、真意など何も無くて。
ああ、なぜだかこう考えたタイミングで心臓がきりと痛む。
アルカが痛む心臓をぎゅっと掴んだそのとき、控えめに扉を叩く音がした。
はっと我に返って、扉を振り返る。
「はい、どうぞ」
誰だろうか、と思いながら扉にそう声をかける。ゆっくりと扉が開かれ、現れたのは意外な人物だった。
「こんにちはアルカ、今、少しお話する時間はあるかしら」
医務室の入口でにこりと笑うのは、聖女だ。
「聖女様? あ、はい、どうぞ」
現れた聖女の姿に驚きつつも、アルカはそう返事をして聖女を椅子に案内した。聖女は「ありがとう」と言うと、促されるままに椅子に座る。次いで「アルカも座って」と聖女が言うので、アルカは聖女の向かいに座ることにした。
「あのね、ちょっとアルカにお願いがあるの」
「お願いですか」
聖女はうんと答えると、帯状になった紙を何枚か取り出した。それを机の上に並べる。
「今女の子たちの間で流行っているらしいのだけどね、指に紙を巻いてお願い事をするの。その紙を満月の晩に窓に吊るすのよ。教会の方角に面した窓ならより良いそうで、充分に月の光を浴びせてあげるの。そうしたらお願い事が叶う、かもしれないっていうおまじない」
かもしれない、とは少々頼り無いが、そもそもおまじないというのはそういうものだろう。
「それで、わたしもそのおまじないをやってみたいのだけど、聖女がおまじないっていうのもどうなのかなあって思っちゃって、それでね、アルカに試してみてもらいたいの」
「え、私がですか?」
アルカが驚いたように聞き返すと、聖女はやはり屈託のない笑みで「うん」と言う。アルカは戸惑いながらも特に断る理由は無く、「わかりました」と返した。
「ふふ、よかった。それじゃあさっそく左手を出してちょうだい」
そう言われ、アルカは素直に左手を差し出した。聖女の白くて小さな手がアルカの手に触れる。指を選ぶように順に触れていき、選んだのは薬指だ。
「あっそうだアルカ、ペンを貸してくれる?」
「ああ、はい、そこにあるのを好きなの使ってください」
アルカがそう答えると、聖女は「ありがとう」と言って机の角にあったペン立てからペンを一本抜き取る。そうしていよいよ帯状の紙を手に取り、アルカの薬指にあてがった。
「ちょっと、くすぐったいですね」
「ふふ、ちょっとだけ我慢してね」
しゅるりと巻いたそれに、聖女がペンで印をつける。何の意味があるのかと思うが、わざわざ聞いてみるほどの疑問ではない、とアルカは黙ってそれを見ていた。
「それじゃあアルカ、目を閉じて、心の中でお願い事をしてね」
そう言われ、アルカは素直に従うことができなかった。咄嗟にお願い事が浮かばないのである。それを聖女に訴えると、聖女は「あら」と言った。
「何でもいいのよ、例えば将来の事とか、スタッグの事とか」
急にスタッグの名前を出されて、アルカは思わず咳き込んでしまう。なぜ例えばの二例目がスタッグの事なのか。そう訴えるように聖女に視線を向けるが、聖女は相変わらずうふふと笑っているだけである。答えは期待できそうに無いだろう。
ああ、スタッグの名を聞いてまた思い出してしまった。しかしなぜだか今感じるのは心臓の痛みよりも、恥ずかしさだ。スタッグの名を出されて取り乱してしまったせいだろうか。
「スタッグが無理しませんように、とかいいんじゃないかしら」
「ああ……そうですね、巡行から帰ってきてからスタッグ隊長の顔を見てないので、少し心配です」
そう言って、目を伏せる。血液の検査をして以来、スタッグは医務室を訪れてこないのだ。それがますますあの日のことを思い出させて、アルカを苦しめていた。
その一方で、無理してはいないか、と心配になっていたことも事実である。
目を閉じ、心の中でつぶやく。
――スタッグ隊長、どうか無理はしないで、医務室に顔を見せに来て……
はっと目を開けた。
急に恥ずかしさを感じたのだ。医務室に顔を見せに来てほしい、会いたい、と思った、そのことに。
「お願い事はできた?」
なぜ、と戸惑う間も無く聖女の声が聞こえて、アルカは聖女に視線を向ける。
「それじゃあ、アルカがお願い事をしたこの紙は、わたしが責任を持って満月の晩に窓に吊るしておくわ。アルカのお願い事が、叶いますように、ってね」
うふふ、と本当に楽しみそうな聖女の笑みは、相変わらず見る者の抱えた困惑をぽんと吹き飛ばしてしまうようだ。瞬間、直前の困惑を忘れたアルカは聖女の言葉に何の疑問も抱くことは無く、つられるように笑うと「お願いします」と答えるのだった。




