23:戦いの果てに
「わっ!」
というアルカの声が聞こえ、スタッグは素早くそちらに視線を向けた。
その瞬間スタッグは、目の前の敵のことを忘れてしまっていたのである。しまったと思う間も無く剣を持った腕に鋭い痛みが走り、スタッグはうめき声をもらした。
「まさかよそ見してくれるとはな、それほどこれが大事か」
痛む腕を押さえながら、スタッグは声のした方をぎろりと睨み付ける。そこに見えたのはその口元に小さく笑みを浮かべた鋭い目の男。
そして、聖女の恰好をしたアルカの首に手を回して拘束した、ひとりの部下の姿だ。
「コウカ、お前……」
「……すみませんスタッグ隊長、でも俺、どうしても」
スタッグがコウカと呼んだ部下の言葉を遮ったのは、ひゅ、と男の短刀が風を切る音だった。
アルカの顔を覆っていた黒いベールが、はらりと落ちる。
一緒にはらりと落ちていくのは自分の前髪だとアルカが理解したのは、一瞬後だった。
「アルカ!」
思わずそう叫んだスタッグに視線を向け、男はいよいよその口元ににやりと笑みを浮かべた。
「なるほどな、聖女じゃあないがこれには利用価値があるらしい」
そう言うと、男は黒いベールとアルカの前髪を切り落とした短刀をアルカの頬へぴたりと当てた。アルカの肩が小さく震えたのは、ひやりとした感触のためではない。
「これを綺麗な状態で返してほしけりゃ、聖女と引き換えだ」
それから男が、ひとつの取引を口にした。
「と言いたいが、聖女をこの場に連れてくるまで待てそうには無いな、これは、てめえを始末するのに使うことにするか。てめえさえ始末すれば他はどうでもいい奴らばかりだからな、聖女を奪うのも簡単だ」
しかしすぐにそう言い改めると、挑発的にはっと鼻で笑ってみせる。
スタッグは挑発にのって声を荒げることは無く、笑みを浮かべた男の顔をただじっと睨み付けていた。ただしスタッグが本当に挑発にはのらずに冷静であったかといえば、そうでは無いようである。
それを最も敏感に感じ取ったのは、アルカを拘束しているコウカだ。
「アルカから手を離せ」
その奥に何かが燃えたような瞳で真っ直ぐに睨まれ、「ひっ」と小さく悲鳴をあげる。間違いない、その瞳の奥に燃えているのは、業火だ。己の身など一瞬で燃やし尽くして灰にしてしまう、それなのに、終わることの無い苦しみを与える火。
あまりの恐ろしさにコウカは手を離せと言われたのにもかかわらず恐怖に体を委縮させてしまい、アルカを拘束する腕に力が入る。苦しさに、アルカが小さく呻いた。スタッグの眉間にはまた深いしわがひとつ刻まれる。
「アルカに触れるなと言っているんだ」
スタッグが再度、しかし先ほどよりも威圧を込めて告げる。それにいよいよ本能で恐怖を感じ取ったのか、悲鳴を上げるよりも先に今度は体が動いたようだった。
コウカはアルカを拘束していた腕を離し、慌てて後ずさる。
しかし逃げ出すも無く、解放されたアルカの胸倉がぐっと掴みあげられた。
「う」
「ちっ、役立たずが」
それは鋭い目の男の手だった。少しのためらいが感じられていたコウカの手とは違い、迷いの無いそれは容赦無くアルカの胸倉を掴みその首筋を締め上げる。そうして男は顔を青くしたコウカに視線だけを向けると言葉を飛ばした。
「おいびびってんじゃねえぞ、死んだ恋人とやらを生き返らせてえんじゃねえのか」
「それ、は」
「本気ならてめえがあいつを始末しろ。部下に殺されるのは、惨めだろうからな」
「隊長、を……」
コウカは荒い呼吸を繰り返しながら、スタッグを見る。瞳の奥に業火を燃やした、激しい怒りの形相。初めて見るそれは心臓がきゅっと縮み上がるほどに恐ろしい。普段のスタッグの顔が頭をよぎる。疲れたような、でもどこか暖かな目。厳しいけれど、自分たちのことを思いやってくれる、隊長。そんな隊長を、自分は、刺すことが出来るのだろうか。
しかし次にコウカの頭をよぎったのは、『死んだ恋人』の、最期の顔だ。
剣の柄に手をかけ、鞘から抜いた。震える手でそれを構えると、一歩、また一歩とスタッグへの間合いを詰める。息は荒く、鼓動は耳の奥に鳴り響くほどにうるさい。更には構えた剣先が震えているのが見える。
「おい、てめえがそいつを刺せば、俺はこの女の喉を刺す」
男がそう言うと、スタッグは表情をひとつも変えないまま手に持っていた剣を地面に落とした。
苦しさに「うう」とうめきながら、アルカは必死にスタッグの表情を確認していた。見たことの無い、恐ろしい形相。しかしその形相にアルカが感じるのは恐怖でなく、心臓が痛むほどの申し訳なさだ。
あんなに怖い顔をするのも、傷ついたその腕も、全て自分のせいだ。
そしてスタッグは今、自分のせいで、更に傷つこうとしている。それも、自分の部下に。
そんな思いにぎゅうと胸が締め付けられ、涙さえ出そうになる。だが自分のせいだとわかっているというのにどうして泣いていられるというのか。涙は、ぐっとこらえた。
スタッグと目が合ったのは、その時だ。
すると目も合わせられないほどに恐ろしい形相をしていたスタッグの表情が一瞬ほどけたように見えた。
そして、アルカに向って、ふっと微笑む。
それは一瞬の事で、すぐに視線がそらされるとスタッグはまたあの恐ろしい形相で対峙するコウカをじっと睨み付けた。
「どうした、本気なんだろう」
「隊長……」
「本気なら俺を刺せ、その覚悟があるから剣を構えたんじゃないのか」
「俺は」
スタッグに突きつけた剣先が揺れる。そんなに震えていては狙いが定まるはずはないとわかっていた。それでもその剣を下ろすことは出来ない。
「俺はアルカのために命を投げ出す覚悟がある! お前もそれほどの覚悟じゃないのか!」
スタッグが叱りつけると、それが引き金になった。
コウカが叫び声をあげると、スタッグに向って駆け出そうと一歩踏み出す。
「スタッグたいちょ、うわっ!」
思わずスタッグの名を叫ぼうとした途端。
ぐい、と後ろに引っ張られる衝撃に、アルカは悲鳴をあげた。
「スタッグ隊長!」
そう叫ぶバックの声がすぐ傍で聞こえ、アルカは自分を後ろに引っ張ったのがバックだと理解した。
その直後、アルカの体はバックにぽいと投げ出されてしまう。突然のことにアルカはバランスが保てずにしりもちをついた。痛い。しかしそんなことよりも目の前の状況を確認しなければ、とアルカはすぐに顔を上げる。そこに見えたのは、鋭い目の男と激しく短刀をぶつかり合わせたバックの姿だ。
「いって……すげえ衝撃だったな、何なんだよその馬鹿力」
「黙れよくそ野郎が」
こんな時でもバックの軽口は健在なようである。そしてその軽口は、どうやら火に油を注いだらしかった。男の鋭い目が更にその鋭さを増し、そこに二本目の短刀が隠されているかのようにぎらりと光る。
相手を射殺さんばかりのそれで睨まれても、バックは恐怖に肩を竦めることは無かった。それどころか笑みを浮かべ「なに、怒ったわけ?」と軽口をたたく。挑発的なその態度に、男はますますその目を鋭くしてバックを睨み付けた。
自分の背後で起きた異変に気付いたコウカは思わず足を止め、後ろを振り返る。
状況を確認する事と周りの出来事に気を取られる事は違うことだ、とはスタッグが常日頃団員に実践を交えて教え聞かせていることである。それは、気を取られてしまえば必ずその隙を狙われるからだ。
好機、と思う間もなくスタッグが動いた。
素早くコウカに近づくと、その手首を思い切り掴む。「うあ」という唸り声を聞くのとほぼ同時に、スタッグはコウカの握力の無くなった手から剣を奪い取った。
剣の柄を握りしめると傷が痛んだ。しかし、痛みに気を取られている暇は無い。バックは剣を構えると、真っ直ぐ男に向かっていく。
バックとのつばぜり合いに気を取られていた男は、反応が遅れた。
スタッグが突き出した剣が男の足に突き刺さる。
男が短く呻き、膝をついた。すかさずバックが背後からその腕を掴んで拘束しようとしたが、それよりも速くバックの腕が掴まれる。
「あ、いたたた! 折れる! 折れる! 何この馬鹿力!」
「黙れっつってんだろ!」
男はバックの動きを封じると、懐から何かを取り出す。しかしそれを地面に叩きつける前に、スタッグの足がそれを弾き飛ばした。
男は一瞬怯むが、すぐにその目をもとのように鋭くするとスタッグの足首を掴む。今度はスタッグが怯む番だった。見た目以上の強い力で引かれ、スタッグは体勢を崩すと背中から倒れ込んでしまう。
スタッグが起き上がろうとするよりも、男が馬乗りになる方が速かった。バックが男に手を伸ばす暇も無く、男が短剣を振り上げる。
それが己の胸に振り下ろされる寸前、スタッグは男の胸倉に手を伸ばして思い切り引き寄せた。予期しないその衝撃に男が体勢を崩し、狙いがそれる。
それでも諦め悪く振り下ろした男の短剣は、スタッグの肩に突き刺さった。
悲鳴は、噛みしめた歯の中に隠した。そうして力を振り絞ると、スタッグは男の体を投げ飛ばす。スタッグの頭上に転がった男はすぐに駆け付けた騎士団員により、五人がかりで取り押さえられた。
「スタッグ隊長!」
アルカが悲痛な声でスタッグの名を叫び、その傍に駆け寄った。肩からは赤黒い血が流れている。その表情は苦しげで、呼吸は荒い。もしかすると、短刀に毒が塗られていたのかもしれない。傷のついた方の手が震えているのが見える。
自分のせいで、スタッグ隊長がこんなにも傷ついた。心臓が痛い。鼻の奥も痛い。泣いてはいけないのに、目にじわりと熱いものがこみあげてくる。
「治療の準備急げ! あと薬箱忘れるな! 毒剣の可能性あるぞ!」
バックがそう叫ぶ声が聞こえて、はっとした。そうだ、泣いている場合じゃない。応急処置をしなければ、それが医務部長として自分に出来ることだ。まずは傷口を確認するために服を脱がしてしまわなければ。いや、この場合は破ってしまうべきか。
そう思って騎士団服の襟元にかけたアルカの手が、スタッグの手に掴まれた。驚いてその顔を見ると、スタッグが弱い光を宿した瞳でこちらをじっと見ている。
「アルカ……」
弱弱しい声で、名前を呼ばれる。
「すみません、ごめんなさい、わたしのせいで」
たまらずアルカが震える声でそう言うと、スタッグはやはり弱弱しい声で「いや……」と言った。
「こうなったのは、俺が、油断したせいだ、それに……俺はただ、お前を、守りたいと」
「でも」
「ああ、泣くな……お前が泣くと、俺は、胸が張り裂けそうになる」
アルカの腕を掴んだスタッグの手が緩んだ。その手は下に落ちることは無く、むしろ上へと伸びた。
頬に、ぺたりと触れる。しとりと吸い付いたのは、アルカの頬が涙で濡れているためだ。泣くなと言われたが、もはや溢れた涙は止まらなかった。
傷を負ったスタッグにこんなことを言わせてしまっているのは、自分のせいだ。自分が未熟なせいで、自白剤が惚れ薬になってしまった。その管理を怠って居眠りなんかしたせいで、スタッグがそれを飲んでしまった。
心にも無い事をスタッグに言わせて、そうして、こんなにひどい怪我を負わせる結果を招いてしまったのは、自分だ。
見下ろしたスタッグの頬に、涙がぽたりと落ちた。
「アルカ、俺は……」
「スタッグ隊長! 傷は浅いっすよ! 気を確かに!」
バックの声がして、アルカの肩がびくりと跳ねた。それから何かを言おうとしていたスタッグの手もぴくりと動いたかと思うと、すっとアルカの頬から離れて自らの目を覆う。
「いやあ、一回言ってみたかったんすよねこれ」
真面目な表情をして何を言っているのか。呆れつつも、その言葉ではっと我に返ることができたのは事実である。アルカは涙を拭うと、小言は言わずにバックから薬箱を受け取りつつ指示を出した。バックはやはり「やっぱこのセリフテンションあがるっすね」と軽口をたたいているが、手はしっかりと動かしているようだ。衣服を破いて傷口を確認する行動は素早い。
「スタッグ隊長、今、しびれを取る薬を打ちますから」
スタッグが目を覆ったままで弱弱しく「ああ」と言う。両目を覆った手を外すことが出来ないのは痛みのためか。それとも先ほど自分は何を口走ろうとしていたのかという反省のためか。
治療が終わるまでスタッグは目を覆い続けているのだった。