02:受難の続き
「惚れ薬?」
アルカが単刀直入に告げたその言葉を、スタッグが繰り返した。
机を挟んでアルカの向かいに座るスタッグの眉間にはいつもの深いしわが刻まれていて、気難しげに腕を組む姿などは普段のスタッグと変わりないように見える。
が、しかし、決して油断してはいけない。
「……ああ、そんな顔をするな、それはそれで愛らしいが、だからこそその愛らしい目元に手を伸ばして慰めてやりたくなる」
眉間のしわがアルカにうつり、スタッグが己の口を塞ぐ。
いつもの険しい表情をしたままのこれである。普段のスタッグを知っているからこそアルカが余計に感じるその感情の名は、『羞恥』ではなく『恐怖』だ。――まあ当然前者も多少はあるが……――
だからこそアルカはそんなスタッグの姿にいたたまれず、気まずげに目を伏せてしまうのだった。
スタッグはこれ以上口を開けばさらに墓穴を掘ることを確信したのか、ぐっと口を真一文字に結んで『もう無駄なことは一言も発しないぞ』というアピールをする。アルカは目を伏せる直前に見たスタッグの顔からそれを汲み取り、静かに口を開いた。
「研究で、自白剤を作ろうとしていたんですけど、どうにも上手くいかなくて……あげくの果てに出来上がってしまったのが惚れ薬です、決して故意に作ったわけではないことはわかってください」
険しい表情のままでスタッグが深くうなずく。
「それで、たぶん、スタッグ隊長がこれを飲んでしまったのは、私が新しい栄養ドリンクを作ったと隊長を呼び出していたのでこれがそうだと勘違いしたからですよね」
アルカの言葉に、スタッグは再度深くうなずいた。
「すみません……私の責任です」
そう言ったアルカにスタッグは思わず「いや……」と声を出し、慌てて口を結ぶと首を横に振った。しかしアルカはそれを素直に受け止めることは出来ない。
「私が試作の薬を放置して居眠りなんてしなければ、こんなことにはならなかったんです……私が管理を怠ったから……本当に、すみません」
アルカの謝罪に、スタッグはやはり首を横に振る。その姿に『気にするな』や『勝手に飲んだ俺も悪い』という気遣いの言葉を汲み取れば、アルカは小さく「ありがとうございます」と礼を述べた。しかしその気遣いも今は心苦しいものでしかない。
「あの、でも、まだ謝らないといけないことがあるんです」
なぜなら始めの謝罪は、まだ序章に過ぎないのである。申し訳なさにアルカはいよいよスタッグの顔を見ることが出来ず、深く首を前に垂れた。
「この惚れ薬は出来たばっかりで、ピクシーにも与えたばっかりなんです、だから、具体的にどういう効果があって、どのくらい持続するか、まだわからないんですよ……」
聞きながら、スタッグは険しい表情のままで俯くアルカの姿を見つめていた。
「それと、解毒剤を作ろうにも惚れ薬はさっきので全部だったので、まず惚れ薬を作り直すところから始めないといけなくて、それで、この薬を作るのには精製や熟成が必要なので、あの、だから、たぶんしばらくはこのままになってしまう、ん、です……」
消え入るような語尾でしめくくられたその告白を聞いて、スタッグは驚きはしなかった。アルカの大変に申し訳ないといった態度から、すぐに治るものではないのだろうとは察していたからだ。
しかし、具体的にどのような効果があるかわからないという点、そしてどれだけ持続するかも不明だという点はさすがに厄介である。スタッグはそれを態度には出さぬよう、己の内でのみ『どうしたものか』と考え込んだ。
「……明日から、聖女様の巡行がある」
それからとんでもないことを口走らないよう、スタッグは慎重に言葉をくり出す。すると俯いていたアルカが顔をあげ、水面が揺れるようなその不安げな目がスタッグのそれと合う。その瞬間、スタッグは口が勝手に動きそうになるのを察すると慌ててぐっと口を閉じた。それから二の舞はごめんだとばかりに目を閉じてから、再び口を開く。
「その護衛で、首都を離れなければいけない」
「す、すみません、よりによってそんな時に」
「いや、それに関しては俺の責任だ。巡行の前にお前の栄養ドリンクで気合いを入れようと意気込んでいたから、置いてあったそれを勝手に飲んでしまった」
スタッグが「すまない」と言った言葉に、アルカは心臓がきゅうと締め付けられた。スタッグはこういう人柄だと知ってはいるが、実際にこう気遣われてしまうと申し訳なさに身が竦む思いである。
「ひとまず、俺はこれから聖女様のところへ向かわないといけない、今後の事はその後で話そう。アルカはその間に、その、惚れ薬の影響を、調べておいてくれるか」
「……わかりました、出来る限りのことはしてみます」
「ああ、頼んだ」
スタッグはそう言うと立ち上がり、毅然たる足取りで扉の方へ向かった。アルカも椅子から立ち上がるとその背中を視線で追い、扉を開けて出て行くスタッグの姿を不安げな瞳のままで見送るのだった。
そうして扉が閉まる音がしたのと同時に、アルカが崩れ落ちた。
「なんてことしたんだ私は……!」
床に膝をつき、悲痛な叫びを上げる。
スタッグ・メイルは、騎士団第三部隊の隊長を担う男だ。
その性格は質実剛健。自分に厳しく、それでいて周囲には厳しくもあるが優しくもある、まさに隊長にふさわしいといった人物である。事実スタッグは第三部隊に所属する騎士団員の全てに慕われ、その尊敬を一手に集めているのだ。
まあ難があるとしたら、その真面目さゆえの面白みの無さといったところか……。厳しい中に優しさも併せ持つスタッグではあるが、彼が冗談を言う場面は普段行動を共にする彼の部下ですら見たことが無いのである。いいや、それどころか笑った顔すら見たことが無いのではないか。眉間に深くしわを刻み、ただ与えられた仕事をきっちりとこなす。特技、鍛錬、趣味、鍛錬……。スタッグはそういう人間だ。
更にはその常に己を律した態度に、果たして感情があるのか?という疑惑の目を向けられることもあった。そのため一部の騎士団員の間では『スタッグ隊長蘇った死者説』がまことしやかに噂されているとかいないとかいう話もあるほどである。――本当に慕われているのかと疑いたくなるが、これも慕われているが故である……はずである――
スタッグは、それほどまでの人物なのだ。
そのスタッグが――表情こそいつものように眉間に深いしわを刻んでいたが――こちらの目をじっと見つめてあんなことを……。
「うああ……!」
思い出して、アルカの口から思わず羞恥と恐怖の入り混じった悲鳴がもれる。
『小動物のよう』だの『愛らしい』だの、『慰めてやりたい』だの……どれも到底スタッグの口から出て来るとは思えない言葉だ。しかもそれを真剣な表情で、こちらの目をじっと見つめて言うのだから尚更心臓に悪い。あの場に第三者がいたならば、恐らく膝から崩れ落ちた後にこの世の終わりだと絶望し泣き叫んだことだろう。かくいうアルカも、そうしたい衝動が少しだけあった……少しだけ。
しかしそもそもこの事態を引き起こしたのは自分の失態である。そう思い直せば、アルカに落ち込んでいる暇は無かった。
「いやいや……そうだ、恥ずかしがってる場合じゃない、ピクシーの様子を見て、惚れ薬の影響を調べないと……」
自らを鼓舞するようにそうつぶやき、アルカはすぐ傍にあった椅子の背もたれに手をかけて立ち上がるとピクシーのケージへと向かう。
惚れ薬を与えたピクシーは疲れた様子も無く求愛行動を続けていた。隣のケージに視線を移せば、もう一匹のピクシーはまったく興味を示していない様子だ。のんきに横たわっているその姿はうるさいとすら思っていないようである。
そうした経過を確認し、アルカがさてピクシーをケージから出して観察してみようかと手を伸ばした瞬間、それは聞こえてきた。
バタバタという忙しない音。足音だろうか。
扉の向こう側から聞こえてくる、と思ったアルカがそちらを向いた途端。
「ふぎゅう」
それは、一瞬の出来事だった。
けたたましい音と共に扉が開かれたと思うと、何が飛び込んできたのかわからぬまま息苦しさがアルカを襲う。同時に視界も奪われ、何事かと焦るがどうやら体の自由も奪われているようだ。何かがアルカの体に巻き付いて、ぎゅうと締め上げていた。
その熱さに、それが二本の腕だと気が付いたとき、アルカのすぐ傍で声がする。
「……すまない」
低くつぶやかれたそれは、その余裕無げな声色こそ慣れないが、確かに聞き慣れた声だった。
その声にアルカは己の顔が押しつぶされているこの固いものが胸板だと理解し、必死に顔を横に向けようともがく。必死にもがく間もアルカをぎゅうと抱きしめる腕の力は緩む様子が無い。それでもアルカはやっとのことで顔を横に向けると、大きく息を吸い込んだ。
「え、スタッグ隊長ですか?」
そうして息を整えつつ、スタッグの名を呼ぶ。するとアルカを抱きしめていた腕がぴくりと動き、小さく息をのむ音が聞こえた。
肯定の返事は無いが、この硬いようでいて絶妙な弾力の胸板は間違いなくスタッグである。聖女のところへ向かわないといけないと言っていたはずなのに、どうして。そんなアルカの思考を遮るように、またスタッグの声がした。
「……すまないが、もう一度、俺の名を、呼んでくれないか」
「え、あ、スタッグ隊長?」
困惑しながらもその要求通りにアルカがもう一度スタッグの名を呼ぶと、アルカをぎゅうと抱きしめていた腕の力がふっと緩んだのを感じた。それからゆっくりとスタッグの体がアルカから離れていく。
ようやく顔が見えたスタッグは己の両目を片手で覆い、項垂れて酷く落ち込んだ様子だった。その姿にアルカは理由を確信し、そしてスタッグにも劣らないほど眉間に深くしわを刻み……
「……本当に、すみません……!」
と、渾身の謝罪の言葉を述べた。
スタッグが聞いたこともないような小さい声で「いや……」と言う声が聞こえて、アルカはたまらず心臓のあたりをぎゅっと掴んだ。