18:薄れゆく意識
鋭い声で、自分の名前が呼ばれたのが聞こえた。
それが誰のものだか考える間も無くアルカを襲ったのは、肩のあたりに走った鋭い衝撃だ。一瞬頭が真っ白になり、次いで襲った激痛にアルカは呻くような悲鳴をあげた。
激痛の走る箇所が、熱湯が湧き出ているかのように熱い。熱は肩のあたりにとどまらず、全身を侵していくようだった。心臓は大きく鼓動して、頭はくらくらする。それでもはっきりとしない意識の中で、アルカは短刀が肩のあたりに突き立てられたのだと理解していた。
「アルカ!」
甲高い声で、また名前を呼ばれた。ああ、これは、聖女様の声だ。怪我はありませんか、と聞きたかったが、声が出なかった。それでも必死に聖女の顔を確認すると、聖女は大きく目を見開いた表情でアルカを見つめていた。
ああ、守れたんだ。
そう思った途端に意識が痛みに侵され、アルカはたまらず俯くとまた呻くような悲鳴をあげる。
聖女は自分の腕の中で項垂れてしまったアルカを見つめ、そして馬車の扉の方へ一度視線をやった。スタッグが悲痛な声でアルカの名を呼んでいるが、鋭い目の男に短剣を突きつけられたままでは身動きが取れないらしい。その顔はアルカを心配する気持ちと悔しい気持ちとで複雑に歪んでいる。
「ああ、聖女様……これで、聖女様は、僕と、僕の……」
ぞっとする声が聞こえて、聖女はひゅっと息をのむ。それから、顔を上げた。
あの男が、また笑みを浮かべている。恍惚として、焦点の定まらない目。じっと見つめる聖女の視線に気が付いたのか、男の目がこちらに焦点を定めたのがわかった。
「聖女様、僕と」
そう言って、手を差し出してくる。
人を、アルカを傷つけて、どうして笑うのか。どうして、そんなことが言えるのか。
そう思った聖女の心に湧いた感情は、恐怖だった。しかし心の奥の方でふつふつと湧き上がってきた感情が、すぐに恐怖を塗り替えていく。
アルカは大切な、大切な人の、大事な人だ。それなのに、この男はアルカに。アルカを。
「アルカに、何をするの!」
聖女が叫ぶと、男がびくりと肩を震わせた。男を睨み付ける聖女の表情は眉を吊り上げ、激しい怒りに歪んでいる。
「自分勝手な理由でアルカを傷つける人に、わたしはついていかない、絶対によ!」
聖女に激しい怒りをぶつけられた男はすっかりその顔から笑みを無くし、呆然として聖女を見つめた。そしてその表情は次第に悲しげに歪められていく。小さくつぶやいた言葉は「どうして」だった。
「ああ……どうして、どうして! 僕はこんなに愛していて、だから聖女様も、僕を愛しているはずなのに! 聖女様を呪っているヤツを傷つけても、どうして聖女様は! ああ、だったら、僕は、どうしたら……!」
「おい! 混乱してんじゃねえぞ!」
突如男が、動揺したように頭を抱えて取り乱し始める。それに飛んだ怒声は、扉の傍にいる男のものだ。スタッグはその瞬間に男の注意がそれたのを、見逃さなかった。
喉元に突きつけられた短刀を男の手ごと、素早く弾き飛ばす。男が短い悲鳴をあげるのとほぼ同時に、スタッグが手にした剣を男に向って勢い良く突き出した。
突き出した剣は、男の脇腹をかすめた。スタッグは確かにその体を狙ったのだが、男が素早く身をよじって避けたのだ。スタッグが次の攻撃を繰り出すよりも、男が懐から取り出した何かを馬車の床に叩きつける方が早かった。
破裂音が響き渡り、一瞬にして視界が白く染まる。
やられた、と思ったときには遅かった。馬車の外から『撤退だ!』と鋭い目をした男の声が聞こえる。すでに外へと逃げられてしまったのだ。
どこから逃げたのか。逃げた奴らを追うべきか。
そういったことを考える間も無くスタッグに耳に入ったのは、苦しそうな呼吸の音だった。
「アルカ!」
叫ぶようにアルカの名を呼び、白煙をかき分けて駆け寄る。そのまま手探りで窓を探し当てると勢いよく開け放った。白煙が窓から逃げていき、次第に馬車の中の様子が明らかになる。現れたのはアルカの体を抱える聖女の姿。
そして、左の肩に短刀が刺さったアルカの後ろ姿だ。
心臓がぎゅうと縮みあがるような感覚がした。
「アルカ、アルカしっかりして」
聖女の今にも泣きだしそうな震えた声が聞こえて、スタッグははっとした。そうだ、あまりの衝撃に立ち尽くしている場合ではない。今すぐに治療を、ああ、バックを呼ばなければ。
そう思った途端に、弱弱しい声が聞こえる。
「……バ、バックに、あれ、薬箱を……毒が塗られて……」
それは、聖女の腕の中にいるアルカの声だった。スタッグはそれを聞くと、窓に向ってバックを呼ぶ。
「バック! 薬箱と、治療の準備だ! アルカが刺された! 毒剣だ!」
そう叫ぶとすぐに『えっ!』と驚いた声がして、それから『すぐ行きます!』と返ってきた。それを聞き届け、スタッグはひざを折ってアルカの傍に寄る。
アルカは俯き、床を見つめて必死に痛みに耐えているようだった。それでもスタッグが傍に来たのがわかったのか、か細い声でスタッグの名前を呼ぼうとしている。傷つき、痛みに侵されながらも必死に己の名を呼ぶアルカの姿は何とも言い難く、スタッグはアルカの血色の悪い頬に手を伸ばした。涙が流れたのか、しっとりと濡れている。
「たぶん、毒は、しびれ薬……典型的で、だから、手持ちので対応……」
「わかった、あまり喋るな。今バックを呼んだ、薬箱のことも伝えた、すまないが、まだ辛抱してくれ」
アルカの肩に刺さった短剣は深く刺さっているわけではなく、また刺さったままの短剣は傷口から血があふれることを止めていた。致命傷ではないだろう。しかし、アルカは薬師だ、騎士ではない。
ああ、アルカは今必死に歯を食いしばり、どれほどの痛みに耐えているのか。
そう思うと、スタッグは胸のあたりが鋭く痛んだ。まるで、アルカの肩に刺さっている短剣が己の胸に突き刺さっているかのようである。
悲壮な面持ちでじっとアルカの顔を見つめていると、その視界の端に何かちらと動くものが入り込む。スタッグが視線を移すと、それは弱弱しく持ち上げられたアルカの手だった。その手はまるですがりつくようにスタッグの腕に添えられる。それから、服の袖をぎゅっと掴んだ。
「ああ……そうだ、スタッグ隊長、わたし、聖女様……守れた」
いよいよ痛みで意識がもうろうとしてきたのか、少しだけ顔を上げたアルカはそんなことを言った。
「隊長の、お役に、立てた……ああ、よかった……」
胸に刺さった短剣が、ぎゅうと抉られるようだった。
痛みでもうろうとした意識の下で、アルカは自分のことを口にしたのだ。それも、自分の役に立てて、良かった、と。なんと健気で、愛らしく、そして愛おしいのだろうか。
「アルカったら、今は、自分の心配をしてよ……」
スタッグの隣で、聖女が涙声でそう訴える。
確かに聖女の言うとおりだ。自分が怪我をしているのにそんなことを言っている場合かと叱るのが正しいのかもしれない。しかし、どうして愛しい彼女が必死に訴えた達成感を否定するようなことを言えるというのか。
「ああ、アルカのおかげで、聖女様は無事だ」
スタッグがそう言うと、アルカは「よかった」とつぶやき、項垂れた。
バックが入ってきたのはその直後だ。
「医務部長! まだ意識あるっすか!」
馬車の中に響いたバックの声に、アルカが小さく「うるさい……」とつぶやく声が聞こえた。どうやら意識はまだあるようだ。傍に駆け寄ったバックの「何の毒っすか」という問いかけにも「しびれ薬……」と答える。
「わかりました、後は俺に任せて、医務部長はちょっと眠っててください」
その言葉にアルカが「頼り無い……」とつぶやいたのは痛みで意識がもうろうとしていたせいだったかもしれない。つい本音を隠しきれずに口にしてしまうのである。
しかし溢れる本音は、この発言が最後になった。痛みに耐え続けた体が意識よりも先に限界を迎えたらしい。もう声が出ないのだ。「じゃあ麻酔打ちますよ」というバックの呼びかけに、アルカの返事は無かった。