01:受難の始まり
実験動物であるピクシーの一匹が、隣のケージに向ってしきりに羽を震わせてアピールしている。ピクシー特有の、求愛行動だ。
その光景を目の当たりにして、アルカは額に手を当てるとなんとも重苦しいため息をついた。
「……どこで、どうして、こうなった?」
思わず心の声が漏れ出る。
なにせ今しがたピクシーに与えたこの薬は実に十数回の失敗を重ねてようやくこれならばと思う出来のものだったのだ。だというのに今目の前で起きている結果は到底アルカが望んだ結果ではなく、それどころか予想斜め上の結果である。
いいや、そもそも研究や実験とはそういう失敗や予測も出来ない結果の積み重ねで素晴らしい成果を得るものだ。アルカとて研究者の端くれであるから、そんなことは承知している。承知してはいるのだが、この結果にアルカはどうしても落ち込まずにはいられなかった。
アルカ・バニーナは薬師である。
薬を愛し、薬のために研究人生を捧げる、そんな素晴らしい職業だ。――なお、薬への熱意には個人差があるものとする――
しかしながらこの世の中、研究だけで生活していける薬師とは限られている。多くは何らかの機関に所属し、庶務・雑用をこなしながら日々限られた時間と予算の中で自らの研究を行っているのだ。そうして身を削る努力で達成した研究も、実績も挙げられず評価もされなければそれまで。日の目を見ることが出来ず、ただ論文の山に埋もれるのみである。そんな研究は、どこの研究所でも日々増え続けているのだ。――余談かもしれないが、薬師を殺したいなら止めのセリフは「それ、利益出る?」である――
アルカもそうした例に漏れず、かつては軍の研究機関に所属し庶務・雑用をこなしながら少ない時間と予算で自らの研究をしていた。しかし実績のあげられないアルカの研究は当然評価もされず、気が付けば異動辞令が下されていたのである。
そうして今は左遷先である騎士団の医務部にて、ただ一人の薬師として日々さまざまな仕事に奔走する毎日を送っていた。――騎士団医務部が本当に左遷先かどうかはともかく、アルカはそう思っている――
「ああ……疲れた、ダメだ、いったん考え直そう」
大きな独り言をつぶやきつつ、アルカはふらふらと椅子の方へと近寄りそこにどかりと腰掛けた。それから握りしめていた小瓶を机の上にことりと置くと、それをじっと眺める。
ガラスの小瓶は透き通ったオレンジ色の液体で満たされていて、その角ばった表面に光が当たって乱反射していた。普段なら綺麗だと思うその光も、今はただただ恨めしい。なぜならこの中身こそが今しがたピクシーに与えた薬であり、アルカにとっては失敗作とも言える代物であるからだった。
騎士団医務部におけるアルカの仕事はさまざまあるが、そのうちのひとつが薬の研究である。
しかしながらその研究は自分の研究ではなく、依頼されるものをこなすことがほとんどだった。いいや、むしろそれしか無いと言っても過言ではない。それでもそれは苦ではなく、それどころか自分の研究に自信を失っていたアルカにとっては、ただ無心に打ちこめる研究というのは救いですらあった。
……まあ、今はその救いであったはずの研究で思い悩んでいるのだが。
「自白剤を作るつもりが、なんでこうなるのおお……」
恨めしげに小瓶を睨み付けたアルカの口から、思わずそんな悲哀の叫びが溢れて出て行く。
騎士団医務部において依頼される研究というのは、そのほとんどが毒薬についての研究だった。これは騎士団が警護する教会の関係者に万が一毒が盛られた場合に、早急に対処するためである。また、警護対象に代わって毒を服用した騎士団員の命を助けるためでもあった。
そんな中で今アルカが取り組んでいるのは自白剤の研究で、そのためにまずは自白剤を作るという段階だったのだが、これが上手く行かないのだった。
アルカがその恨めしげな視線をケージの方へ移せば、薬を与えたピクシーは未だに隣のケージに向って求愛行動を続けていた。その光景に己の失敗を突きつけられた気になり、アルカは何度目かのため息をつく。
「これじゃ、惚れ薬じゃん……」
ため息とともにそんな言葉も出て行く。よりにもよって惚れ薬だなんて俗なものを作ってしまった。いや、惚れ薬だなんてとは言うまい、これとて人の中枢神経をまひさせる立派な毒である。その点では自白剤とも遠からずといったところか。
自分を慰めるためにそう考えてみるが、それでも出来上がったこれが自白剤ではまったくないことは覆らない。己の実力不足が浮き出ることとなった結果に、アルカはやはり落ち込まずにはいられなかった。ついには体を起こしているのも辛い、と体の力を抜いてぐったりと机に突っ伏してしまう。
どうしようもないやるせなさに「あー」やら「うー」やらわけもなく唸り声があがる。やがてそれも疲れてしまうと、アルカは深く呼吸を始めた。体をぴくりとも動かしたくない。アルカはただ己の呼吸の音に集中する。
そうしてやがて意識が遠のくのを感じたアルカは、そのままなけなしの意識をそっと手放すのだった。
何かがまぶたに触れた気がして、アルカはゆっくりと目を開けた。
覚醒した意識の中で、ああ、どうやら自分はあのまま寝てしまっていたらしいと考える。それからアルカが視線を上へ向けると、見知った顔がなぜだか驚いたような表情をしてこちらを見下ろしているのが見えた。その手はこちらに向けられたまま固まっていて、まぶたに触れたのは恐らく彼の手だろうと想像することができた。
「ふわ……スタッグ隊長、来てたんですか」
アルカが寝ぼけ眼をこすりながらその名を呼べば、スタッグは手をひっこめつついつものようにその眉間にぐっとしわを寄せた。
「お前が呼んだんだろう」
「え、あ、ああ……そうでした、そうでした、ふわわ……」
ゆったりとした口調であくび交じりにそう言ってのけるアルカに、スタッグは呆れたというように息をつく。しかしそこには本気で呆れているといった感じは無く、仕方ないなといった程度だ。だからこそスタッグはそれ以上は何も言わず、それどころか体を起こすアルカに「疲れているのか」と気遣う言葉をかけるのだった。その間にもうひとつあくびを終えたアルカは目じりに溜まった涙を拭うと、その問いに答えるべく口を開く。
「ああ……はい、まあ、肉体的な疲れもありますけど、どっちかといえば気疲れっていいますか」
言いながらアルカは机の上に視線をやり……
「ほあ!?」
と叫び声を上げた。
突然の奇声にスタッグも眉間のしわを無くして、驚きの表情でアルカを見つめる。そのアルカの見つめる先は、机の上の小瓶であった。
先ほどまで透き通ったオレンジ色の液体を満たしていたはずの小瓶は、向こう側が丸見えの、空の小瓶になってしまっていたのである。
目の前の光景に、アルカは混乱していた。いったい中身はどこへ……。もしかして寝ぼけて小瓶を倒してしまったのだろうか?いや、小瓶は机の上にしっかりと立っているし、中身がこぼれた跡も見えない。それによく見ると小瓶は蓋がしっかりと閉じられているではないか。
「おい、どうした?」
スタッグの声がして、アルカは慌ててそちらに視線を向ける。スタッグは珍しくその眉間からしわを無くしてこちらをじっと見ていて、その顔を見たアルカの頭に、まさかという言葉がよぎった。
「……あの、隊長、まさかとは思いますけど、これ、飲みました……?」
どうかそうであって欲しくないと願いつつ、アルカがそう口にする。――そうでなかったらそうでなかったでまた困るのだが――
「すまない、もしかして、飲んではいけないものだったか?」
しかしアルカの願いは、スタッグが珍しくその顔をきょとんとさせて言った言葉にあっけなく打ち砕かれてしまった。衝撃のあまりアルカは声も出ない。
そんなアルカの様子に焦り始めたスタッグが「な、なんだ、俺はいったい何を飲んでしまったんだ」と言う声が聞こえ、はっと我に返ったアルカは焦っている場合ではないと必死に頭を回転させる。
「ああ、でも、まだスタッグ隊長は冷静だ……いっぱい水を飲ませて吐き出してもらえばまだ何とか……」
「おい落ち着け、ああ、しかし、焦っているアルカはまるで警戒する小動物のようで愛らしいな」
「手遅れだった!」
「俺は何を!?」
ほぼ同時にアルカが頭を抱え、スタッグが己の口を塞ぐ。
いつもの険しい表情はどこへやら、信じられないといったように目を白黒させるスタッグを前に、アルカはこれからのことを想像してきゅっと心臓を痛くした。