一
「いいかい、暮れ方の森には行ってはならないよ。人攫いが出るからね」
集落の大人が人攫いの話をすると、子共らは決まってそれを嘲った。どうせ自分らの腕白を叱りつけるために、大人が創り出した嘘に違いない。そう高を括っていたのだ。現に、攫われたなどという子供は一人としていなかった。誰もが暮れ方の森に立ち入っては、意気揚々と大手を振って帰ってくる。
噂の効力がないと知るやいなや、それは子供らの間で忽ち肝を試す行事と化した。夕刻、森の奥に成った栃の実を拾い、集落まで戻る。他愛ない遊びの延長であった。大人は危険だと言い聞かせ続けたが、滅法逆効果であったのは言うまでもない。
やがて、それが出来て一人前、などという眉唾な噂が子供らの間で通説となり始めた頃、ある少年もそれに倣い暮れ方の森へ向かった。集落のがき大将に唆されてのことだった。出来ねば一生、弱虫扱いである。怖くはあったが、彼に退路はなかったのだ。
森に入ってどのくらい経っただろうか。栃の拾える場所までは一本道。別段迷うこともないのだが、おっかなびっくり獣道を行く少年にとっては、道が無数にあるようにも感じる。小動物の蠢く音、遠くで鳴るせせらぎ、かあかあと響く烏の鳴き声。全てが彼の敵であった。
それでも恐々進むうち、目的の地点へと辿り着く。彼はよく茂った栃の木の根元へ一目散に駆け寄ると、そこらに転げた栃の実のうちの一つを拾い上げ、気管に詰まっていた息を吐き出した。ああ、よかった。あとは戻るだけだ。少年は安堵し振り返る。
ところがその刹那、眼前を何か鋭いものが過ぎったのが見えて、少年は尻餅をついた。たった今起きたことに理解が及ぶ前に、頭上でしゃがれた声がする。
「よお、小僧」
見上げれば世にも醜悪な巨体の蜥蜴が、夕暮れの鈍く反射する刀をその手に、にたにたと不気味な笑いをこちらに向けていた。奇妙なことにこの者、人間と同じく二足歩行でありながら、その頭部は人ではない。まさしく蜥蜴なのだ。鱗に覆われた奇異なる怪物の前で、少年は打ち震える。
「い……!」
視界を塞ぐこの蜥蜴は紛れもなく、かねてから耳にしていた『忌み者』。これも大人の虚言、いわゆるお伽話とばかりに思っていたが、その存在は紛れもなく目の前に顕現している。恐怖で声を出せずにいると、ご明察、とばかりに蜥蜴が笑んだので、少年は尻を地に付けたまま後ずさった。ところがその背後に、今度は井守と守宮が現れる。
「ええっ、おやっさん、こんなの連れてくんですかい?」
「腹の足しにもなりゃしませんて、これじゃ」
こちらも二足歩行で、蜥蜴同様山賊めいた格好をしている。恐らく蜥蜴の手下だが、少なくとも少年にそれを思考する猶予はなかった。喰らわれる恐怖で、足が竦む。
「いいんだよ、こいつで。攫うなら抵抗しなそうな弱っちい奴だって、相場が決まってんだ」
少年の思考は依然として畏怖に支配されたままだった。しかし直感していたこともある。こいつらは人攫いだ、大人の言っていたことは真だったのだ、と。
「さて」
ぬっと蜥蜴の腕が伸びてくる。少年は咄嗟に持っていた栃の実を顔面目がけ投げつけると、怯んだ蜥蜴の足元を潜って駆け出した。誰か、誰か。幼い脚を必死に動かし、大人たちのいる集落へと急ぐ。誰か、誰か。人気のない森は少年へ覆い被さり、徒に恐怖心を煽ってくる。誰か、誰か早く――。
「……うあっ」
草の根を掻き分けた瞬間、足元に現れた窪地へと、小さな身体は真っ逆さまに転げ落ちる。高さはそれほどとはいえ、彼にとっては奈落も同然であった。背中を打ち付けた少年はすぐさま立ち上がろうとするが、足がふらついて思うように動かない。もう背後まで追手が迫っているというのに。
「おお、いたぜ」
案の定、繁茂した藪の向こうから守宮が飛び出してくる。それより少し遅れて井守も続いてきた。傍目には、何やら漢字が彫られた標石――道祖神が聳えていた。確か村の守り神だと大人たちは言っていた。少年は涙目になって、縋るように石ころを見つめるが、石はただそこでじっと苔を蒸しているだけであった。
「遅いぜ兄者、昼間のいなごが腹に効いたか」
「喧しい、お前のが一刻早く飛び出しただけじゃねえか」
「黙りな阿呆ども」
切迫した少年の前で呑気に繰り広げられる諍いを、後からやって来た蜥蜴が一喝する。そして少年ににじり寄ると、再び下卑た笑いを獲物に披露してみせた。蜥蜴の細長い舌が目先でうねり、いよいよ少年の眼に絶望の気色が浮かぶ。仮に大声で叫んだとて、集落まではまだ大分遠い。助けなど期待できなかった。それこそ神仏でもなければ、この状況で助けなど。
「手間かけさせやがって」
どうして、どうして自分がこんな目に。少年はひたすら、自らに降りかかった不幸を嘆く。他の子らのときは出なかったというのに、どうして。よりよって自分の番のときに。
「か……神様……」
か細い声が風に散らされていく。だが、涙を流そうが、命乞いをしようが、彼らに慈悲などあるはずもなかった。何せ奴らは『忌み者』。畜生をその身に宿した怪物。人の心が備わっているわけがない。にい、と哂った蜥蜴は、祈る少年の頭上へ刀を振りかぶる。
「じゃあな、小僧。せいぜい賊長のいい血肉になるんだな」
少年は思わず目を瞑った。歯を食いしばり、せめて自らの命の潰える音は聞かまいと、頭を一心に抱え――。
「――ぎゃっ」
蜥蜴の背後で甲高い悲鳴が上がった。続けざまに、もう一人分の悲鳴も聞こえてくる。恐る恐る目を開けた瞬間、無様に地に臥した井守、守宮の姿と、大きな影が頭上を飛んでいく様が見えた。
「へ……」
少年は思わず声を漏らす。振り向けば、あの蜥蜴が呻きながら地べたに這いつくばっているではないか。続けざま少年の傍らを、長い外套を羽織った影が、脇目も振らず駆けていく。そして地に臥していた蜥蜴を見る間に組み伏せると、その喉元に短刀を突きつけた。
「な……貴様、何、を」
「喋るな。ただ己れの質問に答えろ」
謎の影は声から察するに男であった。さして大柄でないにも関わらず、抜け出そうと足掻く蜥蜴の動きを――短刀のせいもあるだろうが――完全に制圧している。少年は救世主でも見るかのような眼差しを男へと向けるが、頭に巻かれた頭巾のせいかその面容は窺い知れない。
「先ほど賊長と口にしていたが……何者だ」
「な、何が」
「賊長は何者だと訊いている」
「へっ。てめえのような輩に、誰が」
返事を聞くなり、短刀を握る男の拳に力が入る。ともすればそのまま、蜥蜴の喉を躊躇なく切り裂いてしまいそうな気迫だった。
男の差し迫る気力に呼応するかのごとく、大風が雑木林の合間を攫っていく。煽られた男の頭巾が緩み、暗がりに沈んでいた顔の一部が露わになる。それを目の当たりにした蜥蜴の表情が、余裕ぶっていたものから一変した。
「お、おい……てめえ、その、顔」
「早く吐いたほうが身のためだ。畜生と言えど、みすみす命を捨てることもあるまい」
「…………」
蜥蜴は頑なに口を割らない。というよりはむしろ、驚嘆で声が出ないという風であった。低い唸りとともに、その首に赤い筋が垂れていく。短刀の刃先が蜥蜴の分厚い皮を突き破り、血管を裂いたのだ。
「ぐ……がっ」
「畜生でも血は赤いらしいな」
「兄貴!」
ようやく起き上がった井守が、男目がけ飛びかかる。男はそれを難なく躱すが、次いで斬りかかってきた守宮の太刀を避けるために蜥蜴の身体から離れてしまった。その隙に乗じ、井守と守宮が蜥蜴の下へ駆け寄る。
「大丈夫か兄貴!」
「俺の心配は後だ! 只者じゃねえ、こいつ……!」
蜥蜴の眼光にも臆さず、男は尚も短刀を構え続ける。一対三の多勢に無勢だというのに、男に引く様子はなかった。圧迫感に慄いた蜥蜴は、そこらに唾を吐き捨てると、近場の茂みへと素早く撤退する。子分の二人も、それを見て慌てて追従した。後には、半べそで茫然とする少年と、舌打ちで苛立ちを露わにする男だけが残った。
静かに頭巾を巻き直す男に、戦々恐々少年は歩み寄る。神や仏ではないにしろ、少年にとってこの謎めいた男は、それらと等しき存在に思えてならなかった。
「あ、あの」
「なんだ小僧」
陰から覗く曇った双眼。少年は怖気づくが、相手は命の恩人には違いない。よもや取って食われるということもないだろう。少年は頭を下げる。
「ありがとう、ございます」
「……己れにお前を救う気はなかった、礼なぞ要らん」
そうは言えど。少年は男の奇異なる目線すら憚らず、両手を擦り合わせ祈った。男は非常にばつが悪そうな素振りをするが、すぐに平静を装ってみせる。
「小僧」
「えっ」
不意に呼び掛けられ、少年はひどくびくつく。しかし男が出し放しにしていた短刀を鞘に納めたのを見て、安堵の息を漏らした。
「どこから来た。近くに集落でもあるのか」
「あ、うん。山を下ってった先に……」
「もう夜だ、近くまで送る。また夜盗に襲われても夢見が悪い」
言われて仰ぎ見ると、西の空は既に紫檀色に染まっていた。麓のほうに目をやると、闇間に集落の松明が浮かぶだけで、他はすっかり暗夜に呑まれている。今にこの辺りも真っ暗になるに違いなかった。夜盗の響きに身震いした少年は、男の近くへ擦り寄る。
「行くぞ。道案内を……頼む」
男は一瞬呻いたようだったが、少年は気付かない。うん、とか細く返事をして歩き出したかと思えば、あっちだこっちだと愚直に男を先導し始める。村までは一本道とはいえ、この暗中を道標なしで旅人が往くのは至難だろう。まして知らぬ道ならば、尚更。
「お兄さんは……旅の人?」
漂う沈黙に耐えかねたのか、それとも幼いながらに気を遣ったのか、少年はおもむろに男に問いかける。
「ああ、まあ、そうだ」
遠くを眺めながら男は答えた。そういえば、と少年のほうを振り返る。足元は草履が変色するほど泥にまみれ、外套は無残に擦り切れ、ささくれた指は小刻みに震えている。見るからに疲弊しているようだったが、果たしてどこから、こんな辺鄙な山間までやってきたのかは訊けなかった。
「なんだ」
「い、いや、なんでも」
それから幾ばくかの間、二人は歩いた。すいすいと足を進める少年に反し、男は重苦しい半身を引きずるように歩く。そのうち、絶え絶えの声で少年に訊いた。
「村は……まだか」
「えと、もうそろそろ」
少年の腰ほどまであるような高い草むらを分け入った先、闇夜に不気味に浮き上がった集落が現れる。ああほら、と少年は集落を指差すが、男の反応はない。振り返れば、姿すら失くなってるではないか。しまった、どこかではぐれたかと駆け出す少年の足元で、何かが微かに蠢いた――謎の男だ。浅い呼吸を繰り返しながら、譫言のように何かを呟いている。それを聞き出そうと顔まで掛かった外套を剥がしたところで、少年は「あっ」と小さな悲鳴を上げた。
顔の大部分に焼き付いた火傷の痕。よくよく見ると、男の着てるぼろの作務衣から覗く身体の節々にも、同じように焼け焦げた痛ましい痕が付いていた。先ほど蜥蜴が一瞬慄いたのは、これのせいか。少年は納得する一方で、男に対し僅かな恐怖を抱く。一体何者なのだ、この男は。明らかにただの『旅人』ではないのは明白だった。
しかし、それでも。この男に命を救われたことには変わりない。少年は畏縮した足を奮い立たせ、集落のほうへと駆けた。