序幕
目覚めたその双眸が捉えたのは、鈍く荒ぶ赤光であった。
男には朦朧とした意識の中でもすぐに、それが燃え滾る炎であると知れた。金堂を埋め尽くす阿弥陀如来が盛りを増す業火を照り返し、赤い光を堂内の四方に放っているのだ。
状況を飲み下す間もなく総身に激痛が走り、男は身悶えする。男の身体の一部は、火の粉に散られた影響か焼け爛れていた。悲鳴も嗚咽も出ない。ただひゅうひゅうと、掠れた呼吸を繰り返すばかりである。だが己が身よりも、男には気掛かりなことがあった。
――何が起きた。近場の農村の一揆か、麓の門前町に敵襲か、それとも、日ごろから我々を毛嫌いする朝廷の役人の仕業か。
いずれこのまま伏していては、知れぬものも知れぬ。奥歯に力を入れ立ち上がれば、疼痛が神経を苛むが、どうにか震える両脚を奮い立たせた。
――これは……一体。
霞む視界を前方に定めると、飛び散った血潮とそこかしこで無残に息絶えた同朋が映って、男の濁った脳裏は撹乱させられる。
――一体、何事だ。
痛みを堪え建物の外へ向かう。誰か己以外にも、死を免れた者がいるに違いない。生きて、救いを待っているに違いない。そう思ったのだ。
しかし男の願いは、からがら金堂を出たところで、無残にも打ち砕かれることになる。
――莫迦な。
男は絶望に膝をつき、力無く傍らの柱にもたれた。滲んだ視界に映るのは、一面に積み上がった瓦礫のみ。無骨な山林に構えるあの優美な伽藍は、今や炭屑と化して四方で炎を燻らせるだけである。
――莫迦な、莫迦な。
この有様で、誰が生きてなどいようか。山門を下り逃げ延びた者がいるやもしれないが、事は闇討ち、望みなど一縷も存在しなかった。
――ああ、何故、何故に。平穏を、安寧を、浄土を。仏道に修身し平安を求めたはずの我々が、何故このような目に遭わねばならぬのか。我らが信ずる御仏は、如何にしておられるか。この仕打ちは、一体。何故、何故。
問いと憤りとが思考を掻き毟ってゆく。冷静でいれるはずがなかった。彼の生まれ育った寺院が、悪夢のような惨事に見舞われていて、自らはこのように生かされているなど。
何もできなかった。この窮地に、何もできなかったのだ。襲撃にも気付かず、無様に床を這い、全てが焼け落ちたときになって、今更。
背後で崩落する金堂にも厭わず、降りかかった惨状に打ちひしがれていると、男は脇に短刀が転げていることに気付く。勉学に励む際、鉛筆を削るのに使っていたものだった。在りし日の思い出が、歪む視界の中に沸々と蘇る。
――……。
男はゆっくりと、鞘から刃を引き抜いた。そして、自らの首元にその切っ先を向ける。師も、輩も、みな逝った。今やもう生に縋る理由もなければ、無力だっただけの我のみが生き永らえていい理由もないのだ。
ところが、彼が柄を握る手に力を込めたとき、焼けた金堂の天井が降りかかってきた。それに慄いたせいで、短刀が両の手から零れる。からん、と厭に甲高い音を上げた刃に、涙が滴っていく。
男は驚いていた。己には生きる気概も死ぬ気概もなく、あまつさえ泣き入る羽目になるとは。ああ実に、実に莫迦げている。まさかこれほどまでに臆病だったか。
一頻り頬を濡らし、やがて涙も涸れ尽きた頃、男はふと瓦礫の隙間を這うように動く人影を見つける。見間違いか、幻覚か、あるいは夢現か。いずれ、この惨事の生き残り――細い糸のごとき望みやもしれぬ。そう思った男は、弱る体を振り絞り駆け寄ろうとする。
しかし男の四肢は、思うように動きはしなかった。足はもつれ、影に辿り着くこともなく倒れ込む。せめて己の存在だけでも向こうに気付かせんと、男は鉛のような頭を持ち上げた。
そうして見えたのは、二尾を不気味にうねらせる、何かの影であった。明らかに見知った者ではない。やはり幻か、はたまた亡霊か、誰ぞかの怨念か。いや、だが、しかし。
思案する暇もなく、男の意識は途絶え始める。眼界が掠れゆく刹那、その薄ぼんやりとした影の牙が暗闇に浮いた。風向きが変わり、炎が一瞬奴を照らしたのだ。
笑み。はっきりと見えたのはそれだけであった。不遜な笑みを湛える、何物かの影。口元に銀の牙を尖らせて、かと思えば次の間に、その影はどこへともなく消え失せてしまった。
――まさか……奴、が。
確信を得たとともに、薄れつつあった男の五感は、ここで完全に途切れる。後には誰の気配もなく、真っ青な宵に空いた満月の下、一陣の風が煙を揺らすだけであった。
*
明けの空。大火のごとき陽の熱量が、さんさんと山野に降り注ぐ。朝の気色が足元まで迫ってきたのを見て、男は浅く息を吐く。目覚めてすぐに、山野を下り始めた。記憶に焼き付いた、あの忌々しき影を追うために。
灼けた五体の傷みなど、その歩を止めるに値しない。歩くのだ、ただ。その腰に、自らを仕留め損ねた短刀を携えて。ああ、いつか、いつか必ずや。あの者を討ち滅ぼしてくれようと。ただそれのみを胸に。
燃え滾る太陽の赤光が、彼の総身を満たしていた。空はまだ、明けたばかりである。