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なぁ、この円から出てもいいか?

「なぁ、この円から出てもいいか?」

 リュカが不敵な笑みを見せ、同じ言葉をゆっくりと繰り返しながら、さらに一歩前に出る。鍛え上げられた身体を持つ大天使が、彼に続く。

 悪魔が顔色を変え、慌てて後ずさろうとした。

「ち、ちょっと待て!…………うわっ」

 しかし、左足が動かずに、よろめいて倒れそうになった。

 正確には動かなかったのは左足ではなく、左足の小指。悪魔がそこに眼を落とすと、髪の毛ほどの細い細い蔓草が、裸足の指に何重にも絡み付いていた。

「こ、これは……」

 唖然とする悪魔を前に、また軽い口調で説明する。

「だってさぁ、無防備に魔法円から出たら、お前に魂を喰われるだろ? 喰われたくないから、お前をそこから動けないようにしたのさ。さすがに人間の力じゃ、悪魔を丸ごと拘束するなんて無理だから、全力で足の小指だけ止めてみた。……ふふ、でも、小指だけで充分みたいだね」

 硬い石の床から何本も生えてきている蔓草は、見た目の弱々しさからは想像もつかないほど強靭だった。

 悪魔が左足を強く引いて振りほどこうとするが、小指を床に縫い止めた蔓草は全く緩まない。無理に引っぱれば、小指の方がちぎれそうだ。かがみ込んで、指でほどこうとしても、その髪の毛ほどの一本を引きちぎることすらできない。

「貴様っ!」

「引き抜こうとしても無駄だよ。その細い蔓草には、大地の精霊の力を借りて、俺のありったけの力を注ぎ込んでるんだ。たとえ悪魔でも切れないよ」

 大天使を召還するどさくさにまぎれて、リュカは大地の精霊も呼び出していた。精霊と一人の白魔術師の力など、合わせたところでたいしたことはないが、小さく集中させれば、悪魔の力を上回る。

「ほぅ、これはたいしたもんだな。私の力でも引きちぎるのは無理そうだ。切れるとすれば、この剣くらいだろうな」

 大天使が、リュカの肩の上から顔をのぞかせて感心したような声を上げ、ちらりと右手の黄金の剣を見やった。彼が手にしているのは、万物を一刀両断にするという神の剣だ。

「お前がそこから動けないなら、俺は安全にここから出られる。お前の方はどうか知らないけどね。そういう訳で……この円から出てもいいか?」

 さらに同じ言葉を繰り返し、また一歩前に出た。

 大天使は足を踏み出すと同時に、黄金の剣を両手で頭上に構えた。

「な、何が望みだ! 言え!」

 悪魔は左足を前に残し、腰をできるだけ後ろに引いた無様な姿ながら、言葉だけは勇ましく反応した。

「あはははっ。この期に及んでまだ上から目線かい? そうだなぁ……お前に選ばせてやるよ。選択肢は三つだ。一つはこのまま俺たちが円を出る。それがどういうことか、分かるよな?」

 楽しげに話すリュカの後ろで、大天使がにやりと笑う。

 悪魔はこわばった表情のまま、無言で正面の二人を睨んでいる。

「二つ目は、お前の持っている生け贄たちの魂を、一つ残らずここに置いて、立ち去る」

「何だと!」

 気色ばむ悪魔をちらりと見ると、リュカは後ろを振り返った。

 アレットの姿のまま琥珀色の真剣な眼差しで事の成り行きを見守っていた伯爵に、にっと笑いかけてから、悪魔に向き直る。

「お前の小指を捕まえている蔓草は、お前の持っている全ての魂と引き換えに切れるよう、呪文をかけてある。魂と引き換えに自由をくれてやる。言っとくけど、ごまかそうとしても無駄だよ。全てを置いて即刻立ち去るがいい!」

 悪魔とリュカがしばらく無言で睨み合う。

 やがて、悪魔がかすれた声を出した。

「…………三つ目は何だ」

「三つ目は、お前の足の小指を自ら切り落として、ここから逃げる。小指一本で自由になれるんなら、安いもんだろ? お前ほどの大悪魔が、人間に身体の一部を奪われたとあっては、恥ずかしくて魔界に帰れないかもしれないけどね。はははっ」

 リュカの笑い声につられるように、大天使も豪快に笑う。

「はっはっはっ。こいつは傑作だ。リュカ、悪魔の小指が手に入ったら、私に譲ってくれないか。天界に持ち帰って、皆に見せよう。いい話のネタになりそうだ」

「いいよー。大天使がわざわざここまで来てくれたんだ。土産ぐらい持たせないとね」

 リュカが後ろを見上げて、朗らかに応じた。そして、すぐに表情を変えて悪魔に向き直り、低い声で答えを迫る。

「さあ、どれを選ぶ。ベリアル!」

「くっ……貴様……」

 選ぶべきは、ただ一つであることは、悪魔にも分かっていた。しかし、どうしようもないほどの屈辱感に、低いうなり声を上げて睨み返すことしかできない。

「ああ! いいかげん腹減った! 帰るっ!」

 じれたリュカが怒声を上げ、ゆっくり足を一歩出した。それでも、悪魔が動かないでいるのを見ると、その後はカツカツと足音を立てて、一気に魔法円に迫る。

 その後ろに、大天使がぴったりついて動く。

「うわああぁぁぁぁ!」

 円の内側ぎりぎりにぴたりと立ち止まると、リュカは顎を上げて、傲然と見下ろした。

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